第42話 星図の舞踏



来る。


アイリスの白い指先がわずかに動いた。

その仕草は細長い筆の鋒が空に線を描くように滑らかで、同時に展開された水晶盤が澄んだ音を立てて震えた。


キィィン――。

透明な盤面に走る光の軌跡は、まるで夜空を切り取ったかのように鮮烈で、青白い閃光がスコールの網膜に焼き付いた。


「っ……!」


スコールは呼吸を荒くしながら前へ踏み込む。

革靴が石畳を叩きつけ、火花のような砂粒が跳ねた。

空気を切り裂く音が耳を打ち、肺に冷気が突き刺さる。


拳を握り、振り抜く。

右の拳が唸りを上げ、夜風を切り裂いた。筋肉の収縮が骨を軋ませ、掌から肘へと熱が駆け上がる。


だが――。


「……遅いですわ」


アイリスはすでにそこにいなかった。

白銀の靴先が石畳をかすめた瞬間、彼女の身体は弧を描くように滑り抜け、スコールの拳は空を斬った。

一瞬、白いスカートの裾が夜気に舞い、ふわりと彼の鼻先をかすめた。


「なっ……!」


息が喉に詰まる。

振り抜いた右腕はただ冷たい風を掴み、届いたはずの感触はどこにもなかった。

眼前のはずのアイリスが、すでに数メートル離れた場所に立っている。


距離はわずか数歩。だが――実際の間合い以上に遠い。

彼女の身体は舞うように軽やかだった。

裾の短いドレスコートがふわりと広がり、プラチナブロンドの髪が柔らかい曲線を描く。踵の音はほとんど響かず、石畳に触れた瞬間にはもう次の一歩を刻んでいる。


距離は変わらない。だが、錯覚する。

たった五メートル先に立っているはずのアイリスが、十メートル、二十メートル先に霞んでいく。

彼女の“星霊演算”による先回りが、実際の空間距離を歪ませていた。


「当たんねぇ……!」


踏み込んだ重心を軸に間合いを潰していく。

が、やはり拳を振り抜いた瞬間には、既にアイリスはそこにいない。

衣擦れの微かな音と風の流れだけが残り、まるで蜃気楼を殴ったかのように空を切る。


彼女の靴音は一定のリズムを刻んでいる。

コッ、コッ、コッ。

だがそのリズムは絶妙に間を外し、スコールの反応を半拍ずつ遅らせる。

水晶盤の光が、その動きの正確さを証明していた。未来に描かれた軌跡をなぞるだけで、全ての動作が“必然”に変わっていく。


「――甘いですわ」


耳に届いた声は背後。

ぞわりと背筋を走る悪寒。振り返るより早く、スコールの頬を夜風が裂いた。

髪の毛数本が宙に舞い、次いで遅れて耳朶を掠める影の残音。


(はえぇぇ……! なんだよこれ、まじで“全部読まれてる”……!?)


汗が目に滲む。拳を構える腕が重く、相手までの距離感が掴めない。

アイリスの瞳は星を映した水鏡のように揺らぎなく、全てを見透かしている。


まるで舞踏。

彼女は予め決められた譜面をなぞるように、一歩先、二歩先を踊り続けていた。

スコールの攻撃は一拍遅れの伴奏でしかなく、決して届くことはない。


「っ、はぁ、はぁ……!」


たった数メートルの間合いが、百メートルの断崖に変わっていくような感覚だった。

拳の届く距離にいるはずなのに、スコールは“届かない”ことをただ整然と確信させられていた。

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