第11話 俺の中の同居人が修羅場すぎて胃に穴が空きそうな件
ここ最近、あいつが表に出てくることはなかった。
訓練中に胸の奥でわずかな気配を感じることはあったが、そのたびに理性の手綱を強く握りしめて押さえ込んだ。
だが心のどこかではわかっていた。
ほんの些細なきっかけで、俺の体はあっけなく奪われてしまうのだと。
事実、これまで何度かそういうことがあった。
前回あいつが表に出てきたのは、ある決闘の最中だった。
俺は敗北寸前まで追い込まれ、視界は赤黒く滲み、膝は笑い、拳を握る力さえ抜け落ちていた。
相手の拳が振り下ろされるその刹那、胸の奥で脈動が弾けるように高鳴り、気づいたときには俺は立っていた。
立っていて、笑っていた。
笑って、相手を蹂躙していた。
肉を裂く音、骨が砕ける音、そして絶望に満ちた悲鳴。
だが俺自身はその一部始終を覚えていない。
次に意識が戻ったとき、俺は医務室の白い天井を見上げており、告げられたのは一週間の停学という謹慎処分だった。
「……ふざけんなよ」
あの時も俺はそう呟いた。
だが心の奥では理解していた。
テンペストの力がなければ、あの場で俺は倒されていたのだと。
助けられたのに同時に破滅へ導かれている。
この相反する感覚が、俺をずっと苛み続けていた。
胸の奥から響く声が笑った。
――覚えてるか、あの時の快感を。相手の骨が砕け、血が飛び散る瞬間、テメェの魂は確かに震えていたぜ。
「黙れ……」
必死に声を張り上げる。だがそれはもう俺の声ではなく、喉を震わせているのはテンペストで、俺自身は奥底からその様を眺めるしかない。
息が荒くなり、呼吸すら支配されている感覚に陥る。
肺は俺の意志ではなく異物の命令で動いているようで、怖いはずなのに血が熱を帯びるたびに体が軽くなっていった。
筋肉は膨張し、視界は鮮明に、世界は緩慢に流れていく。
「くっ……」
唇を噛む。
理性が剥がれ落ちていく音が、確かに耳の奥で響いていた。
俺は知っていた。
心のどこかで、うすうす感じていた。
いや、正直に言えば、知りすぎるくらい知っていた。
コイツ――テンペスト。
見た目は美麗なお姉様(ただし角と尻尾と漆黒のドレスを標準装備)。
声は低めで艶やか、態度は尊大。
だが中身は――ゴリゴリの戦闘狂、負けず嫌い、そして怒らせるとマジで地獄を開帳するタイプ。
「……はぁ。もうだめだ…」
俺は自分の意識が揺らぐ瞬間に、もう諦めていた。
胸の奥で、熱とともに笑い声が震える。
あの嫌なほど快活な、血と硝煙が大好物な声が。
――おい宿主、情けねぇ顔してんじゃねぇぞ。ここからは“オレ”の時間だ。
違う! 情けないとかじゃない!
俺は心の中で必死に叫ぶ。
問題はそこじゃない。
俺が恐れているのは、コイツが「好き勝手」にやらかすことだ。
テンペストは絶対に負けを許さない。
そして「宿主が傷つけられた」という事実が生まれたとき、その事実を生み出した相手にどういう結末が待っているか――俺はよく知っている。
このままじゃまずい。
従者たちがどうなるかなんて、考えるまでもない。
――逃げろ。
俺は心の奥で必死に叫ぶ。
聞こえなくてもいい。せめて直感で悟れ。
ここにいるのは人間じゃない。
だが俺の声は空気を揺らさなかった。
喉も舌も、もう別の何者かに支配されていた。
理性は一枚ずつ剥がれ落ちる。
皮膚の下を這う熱。
視界を覆う赤黒い膜。
そのすべてに飲み込まれる直前、俺は最後にただ願った。
――頼む、せめて手加減を……
そして俺の意識は、深い闇へと沈んでいった。
倉庫の空気が変わった。
さっきまでの乱暴な喧騒や鉄臭い埃っぽさは一瞬で霧散し、代わりに冷たい圧力が満ちていく。
湿った床板の軋みすら震えを帯び、呼吸一つが刃のように重くなる。
従者たちは気づいていた。
彼らの目の前に立つ存在は、先ほどまでの「庶民スコール」ではない。
長い銀髪が宵闇に溶けるように流れ、紅玉の瞳が倉庫の隅を射抜いた。
黒と紅が編み込まれた装甲めいた衣がその身を覆い、鱗のような意匠が脚から指先まで連なっている。
背中には影のような翼がうねり、尾が床を叩いて響いた。
そこに立っているのは、もはや人の形をした“何か”だった。
「な、なんだ……あの女……!」
「スコール……の、はずだろ……?」
従者たちが狼狽える。
混乱と恐怖と拒絶。
逃げ出したいのに、足が縫い付けられたように動かない。
テンペストは一歩、前へ進んだ。
床が鈍く震え、赤黒い影が伸びる。
「……お前たち、よくも宿主をここまで痛めつけてくれたな」
低く、艶を帯びた声が倉庫を満たす。
怒声ではない。囁きでもない。
だが一語一語が、鋼を突き立てられるような重さを持っていた。
「どうしてくれる?」
答える者はいなかった。
唇は動くのに、声にならない。
恐怖に喉を潰されたのだ。
「……黙るか。なら、身体で払え」
その言葉と同時に、従者の一人が腰を抜かした。
他の者たちも後退りを繰り返し、壁際に追い詰められる。
生き物の本能が告げていた。
これは戦いではない。
抗うことすら許されない、捕食者と獲物の関係だ。
俺は心の奥で絶叫していた。
「やめろ! 本当にやめてくれ!」
だが、その叫びは泡のように消えていく。
テンペストの愉悦に塗り潰されて。
義眼の男――カイルが呻きながら立ち上がった。
鉄骨を背に傷だらけになりながらも、彼だけは逃げなかった。
いや、逃げられなかったのだろう。
背負っている名や自らの使命が、彼をこの場に縫いとめていた。
「くそっ……スコール……いや、貴様は……」
「スコール?」
テンペストは紅い瞳を細めて笑った。
「安心しろ。そっちは眠ってるだけだ。今、目の前にいるのは“別人”さ。……さあ、続きをしようか?」
「……ッ!」
カイルの義眼が光を放ち、拳が震える。
周囲の従者たちはさらに後退り、もはや戦う気力を失っていた。
俺は胃が痛くなるような感覚に襲われていた。
だってわかる。
この女は絶対に容赦しない。
ここから先は――嵐がすべてを飲み込む時間だ。
倉庫に静寂が落ちた。
それは嵐の前の、息を呑む一瞬。
テンペストは微笑んでいた。
冷酷で、美しく、恐ろしく。
そして、暴風は解き放たれようとしていた。
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