第10話 テンペスト




俺は“ソイツ”のことをテンペストと呼んでいる。

初めてその名を心に刻んだのは、もう半年ほど前のことだ。

学園に入って間もない頃――新しい生活に慣れる暇もなく、訓練と規律に追われ、ただ流されるままに日々を過ごしていた頃だった。


その夜、俺は奇妙な夢を見た。

……いや、あれを「夢」と呼ぶべきかどうか、今でも判然としない。

目を覚ませば布団の中にいたから夢に違いないのだろう。

けれど、あまりにも鮮烈すぎた。

風の匂いも、草原を揺らす音も、青空の眩しさも、五感のすべてが現実のように迫ってきたからだ。


俺はいつの間にか、どこまでも広がる草原に立っていた。

地平線は限りなく遠く、空はどこまでも澄んでいる。

雲は白く、風は心地よく吹き抜け、あまりの広大さに思わず息を呑んだ。


そして、声が響いた。


――テメェが俺の“宿主”になるやつか?


低く、荒々しいのに、不思議と胸の奥に沁み込んでくる声だった。

俺は声の方へ振り返り、次の瞬間、目を疑った。


そこにいたのは――竜。


巨大な影が草原を覆い隠していた。

禍々しくも美しいツノが二本、天を貫くように伸び、長大な尾が大地を打ち鳴らす。

翼は夜空を切り裂くほどに広がり、その一振りで嵐を巻き起こせそうだった。

金色の瞳が俺を見下ろす。

その眼差しは獲物を射抜く猛禽のそれでありながら、どこか懐かしい温もりをも宿していた。


俺は声を失った。

恐怖よりも先に、胸の奥を掴まれるような感覚が広がっていた。

これは――畏怖と憧憬の混ざった、説明のつかない感情だった。


「……お前は……誰だ?」


ようやく絞り出した声に、竜は低く笑った。


――俺の名はテンペスト。嵐を喰らい、天を裂くもの。

テメェの血に眠る“竜核”の声でもある。


竜核。その言葉が脳裏に響いた瞬間、胸の奥が熱を帯びる。

知らなかったはずの言葉が、なぜか昔から心に刻まれていたかのように馴染んでいく。


テンペストは俺を見下ろしながら、鼻先で空を示した。


――見ろ。


言われるままに見上げた空。

そこには、数えきれない竜たちの残影が舞っていた。

白銀の竜、紅蓮の竜、漆黒の竜……その一つ一つが光の粒子のように揺らめきながら、無限の彼方へと羽ばたいていく。

まるで大河の流れのように、空一面を埋め尽くして。


――あの空を渡っていくには、俺の背に乗っていくしかねぇ。

覚悟はできてるか?


その言葉と同時に、俺の心臓は激しく鼓動を打った。

熱い。苦しい。だが、抗えない。

その時から、俺の中には確かに“ソイツ”が宿っていた。





意識が戻ったのは――倉庫だった。


「……ッ」


義眼の男――カイルが壁に叩きつけられていた。

分厚い鉄骨が折れ曲がり、床には亀裂が走り、白い粉塵が舞い落ちる。

彼ほどの強者が呻き声すら上げられずに沈黙している。


俺は荒く息を吐き、ゆらりと立っていた。

だが、その姿はもはや“俺”ではなかった。


両腕は赤黒い鱗に覆われ、指先には鋭い鉤爪が覗いている。

背中には黒紫の幻影の翼が広がり、瞳孔は縦に裂けて赤黒く輝いていた。

牙は長く伸び、吐息すら炎のように熱を帯びている。

半竜人――そう呼ぶしかない、異形の顕現だった。


「ひ、ひぃっ……!」

「ば、化け物だ……!」


周囲にいた従者たちが次々と後ずさる。

さっきまで威勢よく鉄パイプを振り回していた連中が、今では小動物のように震え、目を逸らしていた。


それも当然だ。

彼らにとって絶対的な存在だったカイルが、一撃で吹き飛ばされたのだから。

しかも相手は、半ば人間ですらない姿に変貌した俺だった。


「……ははっ……」


俺の喉から漏れた笑い声は、自分のものではなかった。

半分は俺、もう半分はテンペスト。

血を求めるような、愉悦に満ちた声色。


胸の奥で竜核が脈動する。

もっと暴れろ、もっと壊せ、と煽るように熱を送り込んでくる。

理性が薄皮一枚で押さえ込んでいるのが分かる。

このままでは――俺は“俺”ではなくなる。


「……出てくんな……大人しくしてろ……」


必死に呟く。だが声は震えていた。

テンペストは笑う。


――覚悟はもうできてんだろ?


その言葉が脳裏を焼いた瞬間、俺の爪先から火花が散った。

従者たちが一斉に悲鳴を上げ、倉庫の奥へと逃げ惑う。


荒い吐息と熱に揺らぐ視界の中で、俺は自分の両手を見つめていた。

人のものではない、獣の爪。

俺の意思ではなく、竜の衝動で握られた拳。


……そうだ。

半年も前から、俺は分かっていたはずだ。

この力は、ただの力じゃない。

俺の中に“テンペスト”という別の存在が眠っていることを。

胸の奥で竜核が脈打ち、さらなる暴走を促している。


——でも、まだだ。

ここで出ちまったら、もう引き返せねぇ。


だが、それでも――俺の中の“もう一人”は、確かに笑っていた。


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