第10話 テンペスト
◇
俺は“ソイツ”のことをテンペストと呼んでいる。
初めてその名を心に刻んだのは、もう半年ほど前のことだ。
学園に入って間もない頃――新しい生活に慣れる暇もなく、訓練と規律に追われ、ただ流されるままに日々を過ごしていた頃だった。
その夜、俺は奇妙な夢を見た。
……いや、あれを「夢」と呼ぶべきかどうか、今でも判然としない。
目を覚ませば布団の中にいたから夢に違いないのだろう。
けれど、あまりにも鮮烈すぎた。
風の匂いも、草原を揺らす音も、青空の眩しさも、五感のすべてが現実のように迫ってきたからだ。
俺はいつの間にか、どこまでも広がる草原に立っていた。
地平線は限りなく遠く、空はどこまでも澄んでいる。
雲は白く、風は心地よく吹き抜け、あまりの広大さに思わず息を呑んだ。
そして、声が響いた。
――テメェが俺の“宿主”になるやつか?
低く、荒々しいのに、不思議と胸の奥に沁み込んでくる声だった。
俺は声の方へ振り返り、次の瞬間、目を疑った。
そこにいたのは――竜。
巨大な影が草原を覆い隠していた。
禍々しくも美しいツノが二本、天を貫くように伸び、長大な尾が大地を打ち鳴らす。
翼は夜空を切り裂くほどに広がり、その一振りで嵐を巻き起こせそうだった。
金色の瞳が俺を見下ろす。
その眼差しは獲物を射抜く猛禽のそれでありながら、どこか懐かしい温もりをも宿していた。
俺は声を失った。
恐怖よりも先に、胸の奥を掴まれるような感覚が広がっていた。
これは――畏怖と憧憬の混ざった、説明のつかない感情だった。
「……お前は……誰だ?」
ようやく絞り出した声に、竜は低く笑った。
――俺の名はテンペスト。嵐を喰らい、天を裂くもの。
テメェの血に眠る“竜核”の声でもある。
竜核。その言葉が脳裏に響いた瞬間、胸の奥が熱を帯びる。
知らなかったはずの言葉が、なぜか昔から心に刻まれていたかのように馴染んでいく。
テンペストは俺を見下ろしながら、鼻先で空を示した。
――見ろ。
言われるままに見上げた空。
そこには、数えきれない竜たちの残影が舞っていた。
白銀の竜、紅蓮の竜、漆黒の竜……その一つ一つが光の粒子のように揺らめきながら、無限の彼方へと羽ばたいていく。
まるで大河の流れのように、空一面を埋め尽くして。
――あの空を渡っていくには、俺の背に乗っていくしかねぇ。
覚悟はできてるか?
その言葉と同時に、俺の心臓は激しく鼓動を打った。
熱い。苦しい。だが、抗えない。
その時から、俺の中には確かに“ソイツ”が宿っていた。
◇
意識が戻ったのは――倉庫だった。
「……ッ」
義眼の男――カイルが壁に叩きつけられていた。
分厚い鉄骨が折れ曲がり、床には亀裂が走り、白い粉塵が舞い落ちる。
彼ほどの強者が呻き声すら上げられずに沈黙している。
俺は荒く息を吐き、ゆらりと立っていた。
だが、その姿はもはや“俺”ではなかった。
両腕は赤黒い鱗に覆われ、指先には鋭い鉤爪が覗いている。
背中には黒紫の幻影の翼が広がり、瞳孔は縦に裂けて赤黒く輝いていた。
牙は長く伸び、吐息すら炎のように熱を帯びている。
半竜人――そう呼ぶしかない、異形の顕現だった。
「ひ、ひぃっ……!」
「ば、化け物だ……!」
周囲にいた従者たちが次々と後ずさる。
さっきまで威勢よく鉄パイプを振り回していた連中が、今では小動物のように震え、目を逸らしていた。
それも当然だ。
彼らにとって絶対的な存在だったカイルが、一撃で吹き飛ばされたのだから。
しかも相手は、半ば人間ですらない姿に変貌した俺だった。
「……ははっ……」
俺の喉から漏れた笑い声は、自分のものではなかった。
半分は俺、もう半分はテンペスト。
血を求めるような、愉悦に満ちた声色。
胸の奥で竜核が脈動する。
もっと暴れろ、もっと壊せ、と煽るように熱を送り込んでくる。
理性が薄皮一枚で押さえ込んでいるのが分かる。
このままでは――俺は“俺”ではなくなる。
「……出てくんな……大人しくしてろ……」
必死に呟く。だが声は震えていた。
テンペストは笑う。
――覚悟はもうできてんだろ?
その言葉が脳裏を焼いた瞬間、俺の爪先から火花が散った。
従者たちが一斉に悲鳴を上げ、倉庫の奥へと逃げ惑う。
荒い吐息と熱に揺らぐ視界の中で、俺は自分の両手を見つめていた。
人のものではない、獣の爪。
俺の意思ではなく、竜の衝動で握られた拳。
……そうだ。
半年も前から、俺は分かっていたはずだ。
この力は、ただの力じゃない。
俺の中に“テンペスト”という別の存在が眠っていることを。
胸の奥で竜核が脈打ち、さらなる暴走を促している。
——でも、まだだ。
ここで出ちまったら、もう引き返せねぇ。
だが、それでも――俺の中の“もう一人”は、確かに笑っていた。
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