第9話 鉄拳と竜核



「……どけ」


倉庫に低く響いた声は、刃物のように鋭かった。

その一言で、騒ぎ立てていた従者たちが一斉に口を閉ざす。


現れた男は、群れの後方からゆっくり歩み出てきた。

背丈は頭ひとつ分高く、分厚い筋肉に覆われた体躯を黒いロングコートが包み込んでいる。

額から顎にかけて古傷が一本走り、右目には無機質な義眼が嵌められていた。

その義眼が倉庫の薄明かりを反射して、鈍く光る。

歩みはゆったりとしているのに、一歩ごとに鉄板の床が沈むような重さを感じさせる。

群れを押しのけながら出てくるその姿に、他の従者たちは息を飲み、誰も逆らえなかった。


「カイルさん……!」

「やべぇ、出てきやがった……!」

「ヴァレンタイン様直属の従者が……!」


ざわつく声が恐怖に変わる。

どうやらこの男は群れの中でも別格らしい。

ただの子分連中と違い、空気そのものが違う。

まとわりつく圧迫感は、戦いを知る人間のそれだった。


カイルと呼ばれた男は、肩を竦めながら前に出る。

仲間の肩を押し退ける仕草も、力むでもなく自然。

それでいて、押し退けられた方は逆らえない。


「……ようやく強そうなのが出てきたなぁ」


俺はニヤリと笑った。

胸の奥で竜の鼓動が荒ぶり、体は熱と衝動に突き動かされている。

恐怖なんて微塵もない。むしろ――ワクワクが止まらなかった。


「いいじゃねぇか。やっと退屈しねぇ相手が来たってわけだ。なあ、おっさん」


「おっさん、だと?」


カイルの口元が僅かに吊り上がる。

義眼がかすかに光り、重々しい気配が倉庫を満たした。


「……口が減らねぇな、特待生風情が」


カイルは低く唸るように言い、コートの裾を翻して前に立った。

その立ち姿には無駄がない。背筋を伸ばし、拳を構える動作に淀みがない。

戦い慣れた者だけが持つ静かな圧力。


「庶民の分際で、ヴァレンタイン様に喧嘩を売る度胸は認めてやる。だがな――ここで現実を叩き込んでやる」


「ははっ! そう来なくっちゃな!」


俺は肩を回し、両手をぶらぶらと揺らす。

赤黒い瞳が愉快そうに揺れ、口角が吊り上がる。

胸の奥でうねる熱が、もっと遊ばせろとせがんでいた。


——ボッ


床を蹴る音が響いた瞬間、カイルの巨体が消えた。

残像が走る。

義眼が閃き、拳が風を裂いて飛んできた。


「おっとォ! 速ぇな!」


俺は軽く身を捻って避ける。

……はずだった。

拳の軌道が変わり、頬を掠める。

皮膚が裂け、赤い雫が飛んだ。


「……ッはは! やるじゃねぇか! いい腕してんじゃん!」


血の味に舌を走らせる。

胸の奥で竜核が反応し、熱がさらに強まる。


「調子に乗るな、小僧!」


間髪入れず、カイルが二撃目を放つ。

左の掌底。

俺は腕を交差させて受け止めた瞬間――ズシンッ!

骨が軋み、全身に衝撃が走った。


「ぬおっ!? 重っ……!」


笑いながらも、腕の奥で筋肉が震えている。

力の質が違う。こいつは鍛え方が半端じゃない。


それでも、体の奥から溢れ出す衝動は収まらない。

血が熱を帯び、赤黒い視界がさらに鮮烈に染まる。


「いいねぇ……! やっと“本気で遊べる”相手が見つかったぜ!」


倉庫に、獰猛で陽気な笑い声が響き渡った。


先ほどまで威勢よく騒ぎ立てていた従者たちは、すでに壁際まで下がっている。

誰も割って入ろうとしない。むしろ、一歩でも近づけば命を奪われる――そんな圧迫感があった。


「面白ぇ……!」

俺は口角を吊り上げた。

胸の奥で竜の鼓動が荒ぶり、赤黒い視界の中でカイルの義眼がギラリと閃いた。


「笑っていられるのも今のうちだ」


低く唸るように言うと、カイルの巨体が沈み込む。

わずかに床がきしんだ瞬間、次にはもう目の前に迫っていた。

残像すら残さない突進。


「――ッ!?」


避ける間もなく肩口に拳がめり込み、轟音と共に壁へ叩きつけられた。

鉄板がひしゃげ、埃が舞い上がる。


「ぐっ……ははっ! 重てぇなァ!」


胸の奥に響く鈍痛を、笑い飛ばす。

痛みよりも、血の熱が強烈だった。

竜核が脈動するたび、血管が沸騰するように暴れ、筋肉が勝手に膨れ上がる。


「まだまだだぞ、小僧!」


カイルは休むことなく畳みかけてきた。

正拳、掌底、肘打ち、膝蹴り。

一撃一撃は豪快だが、無駄がまるでない。

長年鍛え抜かれた戦士の動きだった。


「くそっ……!」


腕を交差させて受け止めた瞬間――ズシンッ!

骨が軋み、肺が押し潰されそうになる。

普通の人間ならその時点で戦闘不能だ。


だが俺の体は逆に熱を帯びていく。

衝撃が伝わるたび、竜核が反応し、血がさらに熱を帯びる。

痛みが力に変換されるような、異様な感覚。


「ははっ……! 悪くねぇ!」


俺の拳が閃き、カイルの顔面へと突き出される。

だが――カイルはわずかに頭を傾けて避け、俺の腕を掴むとそのまま投げ飛ばした。


「ぐおっ……!」


床を転がる。鉄屑が散らばり、背中を削る。

だが――俺は笑っていた。

背骨を這い回る熱が、全身を突き破ろうとしている。


「さすが直属従者ってだけある……! いい腕してやがる!」


ゆらりと立ち上がり、赤黒い瞳でカイルを射抜く。

胸の奥で、竜核がさらに脈打つ。


「けどなァ……」


皮膚の下で何かが蠢く。

背中が膨れ、肩甲骨のあたりから熱が噴き出した。

倉庫全体が震えるほどの気配があふれ出す。


「俺の中の“竜”が……もっと暴れてぇって叫んでんだよッ!」


叫んだ瞬間、背後に黒紫の翼の幻影が広がった。

熱風が倉庫を吹き抜け、鉄骨がギシギシと悲鳴を上げる。


「……ッ!」


初めて、カイルの表情が硬くなる。

義眼が淡く光り、戦士の直感が警鐘を鳴らしているのだろう。


「小僧……お前、何を抱えてやがる……!」


「知りてぇなら……体で味わわせてやるよ!」


俺は吠え、床を蹴った。

破裂音と共に鉄板が割れ、赤黒い残光をまとった拳がカイルへと突き出される。


カイルも同時に吠えた。

義眼が閃き、拳が風を裂く。


拳と拳がぶつかった瞬間――倉庫全体が爆ぜた。

衝撃波で木箱が粉砕し、壁が軋み、外の夜気が吹き込む。


従者たちは悲鳴を上げ、必死に身を隠した。


中心に残ったのは、赤黒い笑みを浮かべる俺と、義眼を光らせて構えるカイル。


暴力と禁忌が正面からぶつかり合い、倉庫はもはや戦場と化していた。

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