twinkling 1|ひかり★★


 わたしは、母方の祖父母に育てられた。

 母が、わたしたちを育てることを放棄したのだ。

 わたしたちと言ったのは、当時、わたしには三つ上の兄がいたからだ。その兄は、わたしが祖父母宅に預けられる前に亡くなっていた。ギャクタイ、が関係していたらしい。詳しいことは聞かされていない。


 祖父は、わたしが中学生になったある朝、道端に飛び出て轢かれそうになった野良猫を助けようとして、亡くなった。祖父が助けようとした野良猫は、何事もなかったかのように「うにゃ〜」とひと鳴きして、事故現場を立ち去った。粉々に割れたプラスチック片が散らばった道路に横たわりながら、その様子を見届けた祖父は、血に染まった白髪の下でやわらかな笑顔を見せてから意識を失ったのだという。真偽の程は定かではないけれど、まわりは祖父らしい死に方だと口々に言った。誰にでも優しい祖父だったから、わたしも、そうだったのかもしれないとおもったことを覚えている。慌しく祖父の葬儀を終えた後、泣き止まないわたしに祖母は言った。


「泣いてたって腹は膨らまん。涙はいつか止まるけんどね、じいちゃんは帰って来ないだよ。あちらさんには悪いけんど、これから賠償金がぎょうさん入る。じいちゃんがおれらに残してくれたんだ。これで、ひかりを育ててやることができる。ほれに、ばあちゃんだって、いつ死んだっておかしかないだよ。だから、いいか、ひかり、あんたは、なんでもやりたいことをやらにゃぁいけん。」


 当時のわたしは、どうして、今、そんなことをいう必要があるのだろうかと、心のなかで祖母を罵った。だけど、祖母の言ったことは正しかった。祖母は、ひかりが進学のために上京して二年目の春、急性の病に罹り、満開の桜の花が散り終わるまえに逝った。衰弱して眠るような最後だった。


 祖母は遺言書を残していた。そこには処分するものとひかりのために遺すものとが、ひとつひとつ、こまかやに書かれていた。祖母に由来するもので遺すものは先祖が眠る墓だけだった。後はすべて処分し、残ったお金をひかりが相続することになっていた。祖母と母を含めて、母方の親族はすでに全員が他界していたし、実父不明であったひかりは、この日、晴れて天涯孤独の身となった。空は、ねずみ色だったけれど。



 土曜日の午前中は、お菓子の買い出しの日だ。買い出しは当番制で、入所児二人がローテーションで担当している。この日の当番は、ゆきことわかなだったが、ひかりも付き添う。ゆきこは、スーパーのようにたくさんの商品がある場所では、混乱してしまうからだ。だから、補助として職員が付き添う決まりになっている。


 基本的に無口なわかなと、必要なことしか言葉にしないゆきこと、わたしの組み合わせは喋ることがない。三人は無言のまま、等間隔の距離を保って店へと向かう。GHは市街地から離れた場所にあるため、週末の午前中は閑散としている。


 裏通りから街道への抜け道を歩いていると、右側から宅配便のトラック車が勢いよく走って来た。そのとき、一匹の猫が狭い路地裏からぬっと現れた。薄汚れた茶トラ猫だ。首輪をしてないから野良猫だろう。茶トラの野良猫は、ひょこひょこと不自然な歩き方で道路へと進んだ。釣られるように、ゆきこがその野良猫を追った。野良猫を捕まえようと道路の中ほどにしゃがみ込んだゆきこの姿は、車高の高い運転席のドライバーの死角に入った。危ない、とおもった瞬間、いち早くわかなが動いた。わかなは脱兎のごとくゆきこを追って車道へ走った。ゆきこの腕をつかみ、歩道へ引き戻そうと引っ張る。が、ゆきこは猫を抱えたまま動こうとしない。ふたりの少女の姿に気づいたドライバーが急ブレーキを踏む。けたたましい音が耳をつんざく。わかなは咄嗟に猫を抱えたゆきこに覆いかぶさる。


(え、なにこれ??)

(やばいじゃん?!)


 ひかりの頭のなかを感情の種が目まぐるしく駆け回る。同時に、自分以外の命が尽きようとしているときに頭のなかを走馬灯のように駆け巡るのは、思い出ではないことを知る。


(え、どうなってんの?!)

(頭だけぐるぐる回ってる??)

(動け!)

(動け!)

(わたしのからだ、動けーーーーっ!!)


 ひかりは叫んだ。

 だれの耳に届くことのない声にならない声で。あたりから光と音が消える。画用紙に引かれた一線に吸い込まれるように空が水色を失い、周囲を暗くする。


 暗転、

 静寂、

 刹那、

 熱源、

 瞬間、

 閃光

 拡散、

 離脱、


 空気の糸が白練される。ひかりを浮遊感が襲う。わたしのなかから、わたしでない何かが分離する。


(え、なに、これ?)


 感情の波が、ひかりの全身に押し寄せる。次の瞬間には、引き波のような力がひかりの心と身体を、繰り糸から生糸を一糸一糸解くように分離させる。身体の輪郭を覆うように皮膚から数ミリの空間が、闇夜に浮かぶ蛍のひかりのように、ほわんと光る。何が起こっているか理解が追いつかないまま、それは続く。蛍のような光は煌めきながら水面を伝わる波紋のように広がって行く。光速と超低速が掛け合わさっている。一瞬のようでも、永遠のようでもある。光の波紋は、わかなたちのまわりを覆ったかとおもうと、ぽふんと膨張し、ふたりと一匹をすっかり包み込む。突如現れた光の球体だ。トラックがその球体の表面に触れた瞬間、無数の光の粒が一斉に弾けて飛び散る。あまりの眩しさに、ひかりはおもわず目を閉じる。


 ひかりがふたたび目を開けたとき、何事もなかったかのように空は水色を取り戻していた。

 我にかえり、わかなの方へ目をやる。

 わかなは、ひかりが目を閉じる前にと同じ姿勢で、そこに居た。猫を抱えたゆきこに覆い被さっていた。トラックは、ふたりから数十センチの所で停車していた。


「わかな!ゆきこ!」

 ふたりの元へと駆け寄る。


「大丈夫?!怪我は?!」

 小刻みに震えるわかながぎこちなく首を横に振る。わかなは自分が無事であることを伝えている。ゆきこは?と、わかなの下にいるゆきこの姿を確認する。


「ゆきこ?」

 声を掛けると、ゆきこが顔を上げる。わたしと目が合う。どうやら、ゆきこにも怪我はないようだ。ゆきこの腕のなかでは茶トラ猫が、くかっと欠伸をしている。のんきな顔に、ひかりの強張ったからだが一気にゆるみ、その場にへなへなとしゃがみ込む。


 バタンとトラックのドアの閉まる音がして、宅配便のドライバーが駆け寄ってくる。


「すみません!!お怪我はありませんか?!」

 ひかりは、首をくるりと回して、ドライバーへ頷いて見せる。


「本当ですか?!どこかぶつけてないですか?!擦りむいてないです?!」

 慌てるドライバーに、ひかりはわかなとゆきこの状態を確認して、もう一度、頷く。


「ふたりとも大丈夫です。怪我もないようです。」

 ひかりがそう答えると、ドライバーは大きく息を吐き出した。


「よかったぁ、避けられない、ぶつかったとおもったんですが、本当に無事で良かった。」


 ひかりも同じ気持ちだった。あのタイミングではブレーキは間に合わないと、確信に近いものがあった。けれど、実際、車はすんでのところで、ぴたりと止まっていた。


「もし何かあったら連絡を、」とドライバーは告げて、ひかりに名刺を手渡し、何度も頭を下げながら配送の仕事に戻っていった。ひかりたちも買い出しどころではなくなり、いったんGHへ戻ることにした。

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