twinkling 1|ひかり★
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ひかりの朝は早い。
夏だって日が昇る前に起きることがある。やることが山ほどあるのだ。
ひかりがこのグループ・ホームの職員になってからの二年、五時過ぎまで寝ていたことはない。休みの日くらい寝てたらいいのにと、親友のなつみは、あきれ口調で言う。まあ、そうなんだけど、からだに沁み込んだ習慣だから仕方ない。
グループ・ホーム略してGHは、色々な事情により親元で生活できない子どもたちが暮らす場所だ。わたしは、そこの職員をしている。GHで暮らすこどもたちが健やかに過ごせるように、生活面の支援を行うのが仕事だ。多少の不自由はあるけれども、ふつうの家庭と同じように育って欲しいとおもっている。でも、ときどき、おもう。ふつうって何だろうと。わたしにはその答えがない。ないならないなりに、手を動かすだけだ。
このGHでは、小学六年生から高校二年生までの五人のこどもが生活している。不定期に出入りもある。親元へと戻ったり、就職して自立したりだ。今の最古参は高二のわかなで、入所して七年になる。だから、彼女に取って、わたしなど新米も良いところだ。彼女の方がこのGH事情にずっと精通している。そして、この二年、わたしはわかなとの関係に悩み続けている。表立って何かがあるわけではない。だけど、わかなから伝わるものは、形を変えた陰性感情のパレードだ。そりゃそうだよ。職員と言えども、どこの馬の骨ともわからないわたしが、ぽっと現れて、身の回りの世話を焼くのだから。なにせ、名前からして良くない。生活指導員だなんて。いまの日本に必要なのは、こまやかすぎる法整備よりも、ゆるキャラのような名称改革じゃないかと、本気でおもっている。具体案がないのが痛いところだけど。
「おはようございます。」
抑揚のないゆきこの声がする。ゆきこはGHに入所して半年を過ぎたところだ。まだ、硬いしこりのようなものが解れずにいる。うまく眠れない夜もあるようだ。こういうときは、子どもの柔軟性を信じて待つしかない。もちろん、そのための手助けはする。しかし、そこには、職員と入所児という見えない境界線がある。それは、予防線でもある。お互いの安全を守るためのに存在している。
「おはよう、ゆきこ。朝ごはんの準備するから、みんなのぶんの箸とコップと飲み物、テーブルに運んでね。」
わたしは、いつものように、ゆきこに役割を与える。ここでは、役割がある方が楽だ。居づらい場所での手持ち無沙汰ほど苦痛なことはない。わたしは、それを知っている。いや、わたしだけでなく、ここの子は、みんなそれを知っている。
「ハイ。」
寝起きなことも相まって、彼女の動作は緩慢だ。ゆきこはおっとりとしている。すこし鈍いところがある。それに加えて、言葉の意味を理解するのに時間がかかる。発達的に凸凹のある子だ。それでも慣れれば出来ることは増えて行く。できることは、ひとつでも増やしてあげだい。
「はよー。」
「あー、眠む。」
「めしー。」
中学生組が起きてくる。
中学生一年のみちこ、二年のなぎさと、たまみだ。三者三様の言葉に彼女たちの性格が滲んでいる。彼女らにも手伝いを与える。ここでは、ふつうの家庭よりも早い時期に自立を迎える。もちろん、全員というわけではないけれど、大学卒業までこのGHで暮らすことは、稀だ。だから、ここを退所した後に自活できるだけの力を養っておくことも、わたしの仕事に含まれる。彼女たちの人生を左右すると言えば大袈裟だけれど、彼女たちが親になったとき、自分のこどもを同じ境遇に合わせる確率を下げることにつながる。
だと言うのに、決まって朝ごはんの準備が整うころに起きてくるのが、わかなだ。
「ふぁ〜ぁ〜。」
大きなあくびをしながら、わかなが共同リビングに入ってくる。
「おはよう、わかな。」
わたしは白米をよそったお茶碗と味噌汁のお椀を差し出す。わかなは黙ってそれを受け取ると自分の席へ向かう。
「みんな揃ったね、はい、じゃあ、いただきます!」
「いただきまーす。」
わかな以外は声を揃える。いつもの態度と、いつもの風景だ。わたしは急いでご飯をかき込みながら、一人ひとりの表情を確認する。大抵、それで彼女たちの気分と体調がわかる。わかなを除いて。わかなは、一貫して不機嫌と不信のオーラを身にまとっている。どす黒い何某が渦巻く分厚い層がある。それは、抱えるものの大きさと深さを感じさせる。わたしは、まだ、それを受け止めきれずにいる。神崎さんによれば、時間だけでは解決できない傷があるとのことだ。神崎さんと言うのは、わかなを担当する児童相談所の職員だ。
「時間は、掛かる、と、おもいます。」
神崎さんは言葉を区切りながら言った。前任からある程度の引き継ぎは受けていたが、実際に、神崎さんから聞くわかなの家庭環境と成育歴は酷いものだった。おもわず耳を塞ぎたくなる内容がいくつもあった。わたしには荷が重いという言葉を、生唾とともに飲み込んだことを覚えている。
わたしがGHに配属され、わかなとの初めての個人面接のときに言われた言葉が今も残る。
「何も期待してないんで。」
わたしの覚悟が決まってきないことを見透かしたように、わかなは言った。
それから二年、わかなとの距離は縮まらない。このままで良い訳がない。わたしにも出来ることがあるはずだ。そう言い聞かせながらの二年、縮まったのは、せいぜい、わたしとわかなの身長差くらいのものだ。目線は近づいたのに、心の距離は遠のいて行く。
「ごちー。」
たまみの声で、考えごとから現実に引き戻される。中学生組がぞろぞろと空になった食器を流しへと運ぶ。ゆきこと、わかなは、マイペースに食べている。ゆきこには、食べる順番のルーティンがある。そのルーティンをまもることが、栄養素と同じくらい彼女の心を安定させている。
以前、わたしは、一度だけ彼女のルーティンを崩したことがあった。少なくなっていた彼女のコップに、お茶を注ぎ足してしまったのだ。そのときの、ゆきこの動揺した表情を忘れることはないだろう。彼女は、はっきりと、傷ついた。それも、深く。わたしは、それを感じた。まるで、果物ナイフが果実に突き刺さったかのように。わたしの透明なナイフが、ゆきこの心を刺したのだ。その心は、やわらかかった。熟したトマトのように表面の皮がぴりりと裂け、内容物がどぼどぼと溢れた。立ち尽くすわたしを尻目に、一部始終を見ていたわかなが対応した。彼女は、どういう対応をすれば良いか知っていた。わかなは無言だったが、「期待していない」と、ふたたび言われている気がした。
人と関わるのって、こんなにも難しいことだったんだ。
その夜、空の星を眺めながら、ひとりで泣いた。涙は、上を向いたってこぼれるときはこぼれる。こういうとき、ふつうの人なら家族や恋人に話を聞いて貰うのだろうけど、わたしには、そのどちらもいなかった。なぜなら、わたしは、二十歳を迎えてすぐ天涯孤独の身になったから。
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