第5話 不明体作戦第5号
工場。
トントントン、と小気味よい音が響く。女性と、その部屋にいる同僚達が、キャベツを切っている音だった。皆一様に、青い作業服にマスクの姿。1人が奥のカゴからキャベツを取り出し、残りのメンバーがそれを切っていく。冷凍ギョーザに入れるキャベツの選別作業だった。
女性にとってはまさに普通の1日だった。いつもの顔ぶれと、いつもの職場で、いつもの仕事をする。頭の中にはお気に入りのBGMが流れている。
その時。
「ん?」
誰かが声をあげた。どうしたの、と声をかける寸前、女性は自分の目が赤い光を捉えている事に気付いた。この工場では見た事のない、異常な光だった。
女性は顔を上げた。
ちょうど自分の向かい側にいる同僚の真後ろの空間。何もない空間だった。その空間に、水紋のような揺らぎが生じている。
見間違いか、と女性は思う。このところシフトを詰めていたし、疲れているのかもしれない……しかし、いくら見ても水紋は消えない。見間違いならすぐに消えるはずだ。これはおかしい。
女性の疑問はすぐに確信に変わった。その場の全員が、女性と同じ方向を向いていた。ただ1人、水紋の正面に立つ同僚だけが、怪訝な顔を他の従業員に向けていた。
工場の従業員達は動かなかった。動けなかったのだ。逃げた方がいい、と頭では分かっていても、なぜか体が動かなかった。
そして。
まるで風化するように、水紋が剥がれ落ちていく。空間が剥がれ落ちているのだ。その向こうには真っ青な空間が覗く。それが何か、分かるものはいない。
妙な鳴き声が響いた。カエルの鳴き声を少し低くしたような声。女性達が顔を上げた時、そこに立っていたのは映画やテレビから飛び出してきたような怪物だった。
同僚もやっと気付いた。後ろを振り向いた時には、もう遅かった。怪物は同僚に向かって、右手を伸ばしていた。
「早速っすねえ」
プロジェクターの画面を見ながら、マオはケラケラと笑い声をあげた。
映っているのは工場の外観だった。今のところ、見た目は何の変哲もない古そうな建物。だが中からはすでに何かの壊れる音や、誰かの悲鳴が聞こえてくる。
似たような工場が世界にいくつもあるであろう、ありふれた場所だった。その工場の中で、今どんな事が起こっているのか。自分がやっている事のはずなのに、おれの頭は考える事を拒否してくる。
そして。
工場の壁が、勢いよく砕かれた。
甲高い鳴き声が響く。粉塵が飛び散る中、壁の向こうに大きな影が見える。人間のシルエットとは全く異なる、異様な姿。それが何か、嫌でも分かった。
粉塵を蹴散らすようにして、そいつは外の世界へ姿を現した。口に鋭い牙が並ぶ怪獣だった。茶色い体に赤い目。手は銀色のミトン状。そして両肩に、茶色くてカタパルトのような器官。
フォガレック。おれが考え出した怪物。
あの時の気持ちを今更思い出した。確かまだ中学生の時。こいつがテレビでウルトラガイに出たらどんなにいいだろうなあ、なんて考えて1人ニヤニヤしていた覚えがある。そのフォガレックが、今人の命を奪って暴れ回っていた。
バイオコップの顔を思い出す。本来おれの敵といってもいい存在なのに、いつの間にか「早く来てくれ」と思っていた。
思わず驚いたのは、マオも
「さっさと来てくれないっすかねー」
と小さくつぶやいていた事だった。まるでバイオコップが来るのを期待しているかのようだった。
そして。
「ウオオオオオオオオオオッ!!」
叫び声が、響いた。
画面越しでも、ものすごい圧を感じた。まるでおれらに向かって殺意が放たれているかのようだった。
画面外から、ソイツは勢いよく飛び込んできた。フォガレックに思い切り飛び蹴りを食らわせる。顔にクリーンヒット。フォガレックは数メートル吹っ飛んだ。うめき声をあげ、工場の敷地に倒れ伏す。
「来たか……」
マオがつぶやいた。獲物を狙うハンターのような冷たい声。
明るい黄緑色のボディ。頭にはエボシカメレオンのそれに似たトサカ。赤く爛々と光る目。竜のそれのような口には、整然と並ぶ鋭い歯。下あごには薄い黄緑色の、鋭いトゲが並ぶ。
服の代わりに、深緑色のアーマーのようなもので胸元や下半身全体、肩が守られていた。両手には格闘家のそれを銀色にしたようなファイトグローブが取り付けられている。
「バイオコップ……」
マオが小さく、その名を口にする。怪獣や怪人から地球人を守る、いわば正義のヒーロー。
「ガウッ!!」
獣のそれのようなうなり声と共に、バイオコップが飛び上がった。やっと体勢を立て直したばかりのフォガレックに襲いかかる。
バイオコップの飛び蹴りが、フォガレックの顔面を捉えた。苦悶の声をあげ、怪獣が吹っ飛ぶ。
怪獣の背中が地面に叩きつけられた。同時にバイオコップも着地。力強い音。
フォガレックが立ち上がった。
「じゃ、早速」
マオはプロジェクターの画面に向けて手をかざした――事前に彼女から聞いていた。生み出した怪獣や怪人には、こうやって指示を送る事が出来るらしい。練習すればおれらにも出来るようになるとか。
フォガレックの両肩の器官が、一瞬膨らんだ。瞬間、その砲門から黄色いガスが噴射された。
バイオコップには避けるヒマすらなかった。ガスがバイオコップの全身を覆う。
「ウオオオッ!?」
バイオコップがのけぞる。かなり効いているようだった。
フォガレックはそのスキを見逃さない。素早くバイオコップに近付き、殴り飛ばす。鈍器で殴ったような鈍い音。バイオコップは吹っ飛び、地面に背中を叩きつける。
バイオコップが立ち上がり、構える。反撃の準備を整えた、という風に見えた。
だがフォガレックはすかさず『終局煙』を放った。再び黄色いガスがバイオコップに襲いかかる。バイオコップはその場で悶え苦しみ、片膝をついた。
まさにハメ技だった。『終局煙』を吹きかけて体勢を崩し、そのスキに打撃を与える。フォガレックが段々肩で激しく呼吸し出すのがおれにも分かった。
「ワンチャンあるんじゃないすか?」
マオが声を弾ませた。兄貴に話しかけているように見えた。兄貴は言葉を返すでもなく、ただ画面をジッと睨みつけている。
確かに、そんな風に見えた。フォガレックは一方的にバイオコップを追い込んでいる。
その時。
一瞬、心が弾んだ。
このままフォガレックが勝つかもしれない。そう思った時、少しだけ心が弾むような感覚を覚えた。
おれがああでもない、こうでもないと苦心して考えた怪獣。その怪獣が現実世界に現れて、おれが考えた通りの能力を使って暴れ回って、ヒーローにも勝ってしまう――ほんの少しだが、そんなシナリオに期待している自分が、確かにいた。
そんな自分に気付いた時、一瞬恐怖すら覚えた。まさか自分が一瞬でも、そんな恐ろしい事を考えるとは。ついさっきまで自分のやっている事に怯えていたくせに……。
フォガレックは、まるでおれがほんの一瞬考えた願いを聞き入れたかのようだった。『終局煙』と打撃の組み合わせで、バイオコップをさらに追い込んでいく。
マオの頬が緩んでいた。このままフォガレックが勝ってしまうんじゃないか、とおれ自身思い始めていた。このまま戦いが進めば、フォガレックが勝ってしまえば、一体どうなってしまうのだろう?マオは一体どうするつもりなんだろう?
フォガレックは裏拳で、バイオコップを弾き飛ばした。くぐもったうめき声をあげるバイオコップ。まるで川を跳ねる石のように、体を打ち据えながら数メートル吹っ飛んだ。
フォガレックはバイオコップとの距離を詰めようとする――だが、バイオコップは立ち上がった。
素人のおれから見ても分かった。最後の力を振り絞った、って感じの動きだった。さっきまでのフラフラな動きとは違った。
フォガレックの余裕は消えなかった。変わらない速度でバイオコップを追いかける。
『終局煙』を放った。両肩から勢いよく飛び出した黄色いガスが、バイオコップ目がけて襲いかかる――だが。
急にバイオコップの姿が消えた。まるで瞬間移動みたいだった――というか、瞬間移動を使ったのかと思ったほどだった。本当に、パッと消えた。
兄貴とマオの表情が少し動いた。兄貴の視線がせわしなく動かしているのが見えた。
「上!」
マオが叫んだ。
その時にはもう、上空高く飛んだバイオコップがフォガレック目がけて急降下していた。
画面越しでも思わず『痛そう!』と思うような、重い音だった。バイオコップの放った肘打ちは、フォガレックの脳天目がけてめり込んだ。
悲鳴をあげ、フォガレックが後ずさる。フォガレックが体勢を立て直す暇も与えず、バイオコップは渾身のパンチを叩き込む。うめき声と共に、フォガレックの顔が歪む。
バイオコップは止まる気配を見せなかった。次々と撃ち込まれる拳。重い音が響き続ける。フォガレックに反撃するスキを与えまい、という意思が画面越しにも感じられた。
画面に向かって勢いよく身を乗り出し、
「毒ガスを撃て!」
とマオが叫ぶ。いつもの余裕をかなぐり捨てた、切羽詰まった表情。
フォガレックはマオの指示に従った。両肩の砲門を開く。だがバイオコップはすでにパンチを打つ体勢に入っている。
重い打撃音が響いた。フォガレックの横顔をパンチが正確に打ち抜く。『終局煙』は明後日の方向に飛んでいく。
「ガウッ!!」
バイオコップが前蹴りを放つ。フォガレックが吹っ飛び、地面に倒れ込む。
フォガレックは起き上がれなかった。画面越しに、口元から出血しているのが分かった。素人目に見ても分かる。もうフォガレックは限界だ。
そのスキに、バイオコップは構え直した。
そして。
「ウアアアアアアアーーーーーーッ!!」
バイオコップが吠えた。ものすごい声だった。
バイオコップの体にオレンジ色の稲妻のようなエネルギーが走り始める。凄まじいエネルギー。安全圏で見ているはずなのに、背筋が少し寒くなった。
バイオコップが走り出す。一気にフォガレックとの距離を詰める。
バイオコップが時計回りに体をひねる。体全体の輪郭がグニャリと歪み、混じり合う。そんな中でも、体中にまとわれたエネルギーが、ある一点=右手に集中しているのが分かった。
鈍い音が、響いた。
裏拳だった。エネルギーに覆われた右拳が、フォガレックの側頭部を捉えていた。
大爆発。フォガレックの体が粉々に吹き飛ぶのが一瞬見えた。爆炎にバイオコップが飲み込まれる。
マオの舌打ちが聞こえた。おれは画面から目を離せなかった。被害が広がらずにホッとしているのか、自分の作品たる怪獣を壊されて悲しんでいるのか、何だか自分でも分からなかった。
爆炎が消える。バイオコップの姿が現れる。ボロボロだった。
バイオコップが歩き出す。フラフラした、頼りない足取り。バイオコップにしても、危ない戦いだったのだろう。
「惜しかったっすねー、ワンチャンあると思ったんすけど」
マオが頭をかく。まるでさっきの舌打ちを取り繕うかのような、明るい口調だった。
「それに」
兄貴が言葉を繋いだ。
「忙しくなるのはこれからだ」
その日の夜。
それは何の変哲もないアパートだった。近くの大学に通う学生が集う、安いアパート。外壁を薄茶色に塗られた、築数十年の古い建物。
学生達は思い思いにその日の夜を過ごしていた。夕食を自炊する者、課題に取り組む者、オンラインゲームに興じる者……誰も彼もが、それぞれの日常を過ごしていた。ただ1人を除いては。
「クソが……」
小さな風呂場で、彼は悪態をついた。シャワーはとめどなく温水を流す。だがどんなに彼の体を洗っても、その強烈な匂いが消える事はなかった。薬品臭に近い。まるで自分自身が、何時間もホルマリン漬けにされていたように感じられた。
「これじゃしばらく外に出れねーな」
彼はつぶやいた。こんな匂いをしていては、授業中誰も自分の隣に座れない。ましてやバイオコップがあのガスを食らった直後だ。『身バレ』してもおかしくはない。
「オンライン授業を多めに取っておいて正解だったな」
頭の中で声がする。
「しばらく、必要最低限の買い出し以外は外出を控えよう」
「誰のせいだと思ってんだよ」
彼は悪態をついた。それから、ここ数日の間に自分の身に起こった事を思い返す。
自他共に認めるような、どこにでもいる大学生。そんな彼の日常は、ここ数日で崩れ去りつつあった。
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