第10話 王都の門、沈黙の歩み

 道は広く、そして人が多かった。

 南境の土の匂いは薄れ、街道は踏み固められた白灰色の土に変わる。両脇の畑は整い、風に振れる穂先は一定の幅で刈りそろえられていた。屋根は低く、しかし瓦は新しく、井戸の桶はきれいだった。王都に近いほど、人は音を揃える――と、誰かが言っていた。


 勅使の小さな一行にアレンたちは続いた。近衛四、聖堂騎士二、文官一。旗は巻かれ、紋章は半ば隠されている。

 ティアが風を嗅いで「北」と短く言う。

 セレナは祈りの布を肩に掛け直し、呼吸を落とす。

 オルフェンは盾の革紐を確かめ、カインは鞍の上で退屈そうに足を揺らす。

 リサは手綱を片手に、道端で立ち止まった子どもに笑いかけて小声で情報を拾っていく。「うん、うん……“歌わない魔法使い”が王都に来るって噂、もう回ってる……誰が言い出したのさ」

 子どもは目を丸くして囁く。「ほんとに、歌わないの?」

 リサが肩をすくめた。「歌わなくても、する」

 子どもは満足そうにうなずき、走り去った。


 アレンは勅使の馬の後ろ、歩調だけを合わせていた。手袋の縁を一度だけ整え、風の骨組みを指先で撫でる。

 (線が、太い)

 王都の方角から、数多の“数え”が押し寄せていた。祈りの支線、詠唱の基準、衛兵の合図、城下の鐘のリズム――音そのものではない、骨の列。

 彼はそれを数えることはしない。ただ、どこに橋が掛けられるか、どこに楔が打てるか、静かに並べる。


「なぁに考えてる、隊長」

 カインの大剣が陽を跳ねた。

 アレンは振り向かず、短く答える。「線」

「……そうだろうな」カインは笑い、前を向く。「俺は肉。肉の焼ける匂い」

「昼にしよう」とリサがたしなめる。

 セレナは少しだけアレンに近づき、小声で言った。「“橋”を先に置く? 王都の祈りは密です。迎え撃つより、通してしまったほうが早い」

「置く」

 その二文字で合図は足りる。セレナは安心したように息を吐いた。


──


 三日目の午後、王都が丘の上に姿を現した。

 広がる城壁は乳白色の石で積まれ、陽光を受けて柔らかい金色を浮かべる。遠くの鐘楼が、薄く鐘を鳴らした。稜線には旗が見える――三頭獅子の紋。

 街道の人の流れは城門に向かって一本に纏まり、歩く者は皆、足音を揃える。揃えない者は揃えられる。

 第一門は厚い鉄木の扉で、釘は真鍮、蝶番は黒鉄。門楼上では弓兵が交代の合図を二度鳴らし、槍の穂先が一斉にわずかに傾く。


 近衛の隊長が勅使であることを告げ、巻かれた旗の紐をほどいて見せる。門衛は即座に敬礼したが、その目の隅には好奇の肉眼があった。

 列の後ろで囁きが走る。「無能の兄を呼び戻したのか」「勇者殿のための見せ物だ」

 ティアが小さくアレンの袖を摘まんだ。アレンは振り払わない。そのまま歩幅を変えず、門の影へ入っていく。


 門内は石畳が磨かれ、靴底の音がよく響いた。

 衛兵長が前へ出る。髭に油が載り、肩章は新しい。「――勇者殿の兄君」

 声に皮肉が混ざった瞬間、セレナが一歩、前に出た。

「彼は王都に召されました。神殿は彼の行いを正しく見届けます。皮肉は、祈りを濁します」

 衛兵長は舌打ちを飲み込み、形だけ敬礼をして下がった。

 カインが「上等」と小さく笑い、オルフェンが肘でつつく。リサは肩をすくめて笑みを作った。


 第一門から第二門までのあいだ、露店が並ぶ小広場があった。

 焼き菓子を売る声、花束の匂い、子どもたちの笑い。

 「歌わない魔法使いだって」「本当に?」「声が出ないの?」「違うって」――噂の線は、言葉になる前から形を持って人の間を走る。

 アレンはそれを拾わない。拾えば、歩が重くなる。

 拾うべき線は、別にある。


──


 王宮の前庭は、白い。

 白大理石の敷石は薄い帯のような影を作り、噴水の水は音を立てずに高く低くを繰り返す。剪定された木々は幾何学の線を描き、前庭の中心では曙の薔薇の花弁が風に乗っていく。

 馬車が止まり、近衛が素早く降りて並ぶ。

 宮廷魔導士が迎えに出た。銀糸の肩掛け、よく通る声。

 セルゲイ・ハイドリッヒは前庭の真ん中、光の正面に立っていた。


「遠路ご苦労。――沈黙が宮廷を動かすなど、滑稽な話ですな」

 笑みは礼儀にかなう。言葉は鋭い。

 リサが小声で独り言のようにつぶやく。「滑稽かどうか決めるのは、笑いのセンスだと思うけど」

 カインが半歩前に出るのを、オルフェンが肩で止めた。

 セレナは微笑を崩さず、祈りの布の端を指で整える。「王都は広い。笑いも、祈りも、言葉も、たくさんあるはずです」


 セルゲイはアレンだけを見た。「実演試験を準備している。宮廷魔導士院の“安全な部屋”でね。――沈黙が安全に値するか、確かめよう」

 アレンは一度だけ瞬きをし、「……場所は?」とだけ返した。

 セルゲイの笑みが薄くなる。それでも彼は手を振り、従者に合図をして案内させた。

 「控えの間で待て。御前は午後だ」


──


 控えの間は広すぎず、飾りは節度があった。

 壁に掛かる刺繍は海と山を抽象に置き換え、窓辺には小さなオリーブの鉢植え。卓上に置かれた水差しの水は、光を受けてぬるい銀色に揺れている。

 オルフェンは扉際に立ち、カインは窓を背に座る。ティアは室内の四隅を一巡して、弦の張りをもう一度確かめた。リサは紙束を並べ、セレナは卓の端で祈りの結びを一つだけ置く。


 扉が、音もなく開いた。

 入ってきたのは、王女エリシアだった。

 近衛は連れず、侍女が一人だけ。ドレスは簡素で、織り込まれた銀糸が光を柔らかく散らす。

 六人は立ち上がった。立ち上がらなかったのは、アレンだけ――ではない。アレンは座っていたが、目はすぐに上がっていた。

 王女は頷く。「楽にして。……公式の時刻ではないから」


「王女殿下」とセレナが一歩前に出る。「神殿のセレナ・アウレリウスです。非公式とはいえご足労、恐れ入ります」

 エリシアは微笑を浮かべる。「あなたの報告、読みました。祈りが“橋”を渡って届いた、と」

 セレナは頷いた。「彼が**詠路架チャント・ブリッジ**を置いたから」

 王女は視線をアレンに移す。

「……沈黙で人を救う者。私は、あなたに会いたかった」

 アレンは短く、「殿下」とだけ言った。

 エリシアは一歩近づく。香の匂いは薄い。

「御前で何を語られるかは自由です。ただ――沈黙もまた、語りになります。黙することを、私は弱さとは呼ばない」

 アレンは少しだけ目を細めた。言葉を作らず、ただ頷く代わりの静けさを置く。


 カインが緊張を解こうと咳払いをする。「殿下、俺たち、礼儀は下手ですが喧嘩は上手いです」

 リサが慌てる。「空気!」

 王女はふっと笑った。「それが今のこの国には、時々必要」

 ティアが弦を撫でる。「風、変わる」

 オルフェンが扉の向こうの気配に目をやり、小さく頷いた。廊下の靴音が増える。時間だ。


「――御前の間へご案内します」

 控えの間の扉に、従者の声。

 王女は一歩下がり、六人に道を譲った。「行きましょう。私もそこにいます」


──


 御前の間は高い。

 天井から垂れる薄布は風を拾ってゆっくり揺れ、壁に掛けられた古い地図は王都から四方へ伸びる道を太く描いている。玉座は一段高く、その前に長い卓。

 卓の右手に宮廷魔導士院、左に神殿。治安局、商務審議会、近衛。

 最奥、王の背後の細い階段に、王女が静かに座す席が用意されていた。


 入室の合図が鳴り、アレンたちは進む。

 ざわめきは起きない。音は王都の儀式の形に閉じ込められ、誰も勝手に鳴らさない。

 卓の右手、セルゲイが立つ。

「王都は諸賢の前で“静かなる魔導師”を審に付す。――沈黙が秩序と両立するかどうか。実演に先立ち、陳述を」


 文官が陳述書の要旨を読み上げる。南境での結果、測域の破壊、祈りとの協調。

 治安局長が短く言う。「結果は認める。方法は不問ではない」

 副司祭が続く。「祈りは協調を経験した」

 商務審議会の老議員は鼻にかかった声で言う。「辺境での“例外”は王都での“例外”にはならぬ」

 近衛副長は黙っている。場の空気が厚くなっていく。


 王女が最奥の席から口を開いた。

「――沈黙の魔導師。名乗りを」

「アレン」

 それだけ。彼は家名を付けない。

 ざわりとごく小さな波が卓の左右に走り、すぐに収束した。


「質問を一つ」

 王女は言葉を選ぶように、目の内側で何かを並べていた。

「あなたは言葉を持たないのではなく、置かない。――その選びは、恐れからですか。必要からですか」

 アレンはほんの一拍だけ沈黙し、「必要」と答えた。

「何の?」

「形を濁らせないため」

 王女の瞳が揺れて、すぐに静まる。「……ありがとう」


 セルゲイがすぐに乗せる。「では実演だ。安全な部屋を用意した。宮廷魔導士院の規格に則る。詠唱による基準値、祈りによる基準値、そして――“式”による挙動。干渉の有無、制御の可否、倫理的許容度を、ここで測る」

 商務審議会が頷き、治安局長が短く合図する。

 副司祭は静かに「見届けましょう」と言った。


 扉が開かれ、廊下の先の石段が覗く。

 王都の光はまばゆい。

 だが沈黙はそれを覆わない。

 ただ、形を映す鏡のように、歩みを進めた。


──


 宮廷魔導士院――“安全な部屋”。

 床と壁は厚い石。目地は金属で封じ、天井には小さな格子の窓。部屋の中央には石台、その周りに測定用の器具が円陣を組んでいる。音を拾う管、光を刻む板、温度の変化を数える玻璃球。

 セルゲイは手早く指示を飛ばし、従者たちは慣れた手つきで器具を並べた。

 「まず王都式の基準」

 副官が火球術ファイア・ボルト風刃術ウィンド・カット石壁術ストーン・ウォールを順番に披露し、各器具に記録されていく。

 次に、神殿。

 セレナが祈護障プロテクション、**癒光祈ヒール・グレイス**を薄く置き、祈りの“揺れ”の少なさが板に刻まれた。

 最後に、アレン。

 静かに、石台の前に立つ。


「条件」

 セルゲイが読み上げる。「断詠陣サイレンス・フィールドを薄く展開。王都式祈護障を外側に。干渉は不可。対象――玻璃球の内部の空気のみを**冷却封コールド・シールし、外面に露を浮かべることなく氷結。次に、石板の表面のみ微細に縫結式スティッチ・フォーム**でくぼみを刻み、板の厚みには触れないこと」

 治安局長が腕を組む。

 副司祭はセレナの肩越しに静かに見守る。

 王女は室の外、格子窓の影から見ている――らしい。直接は見えない。ただ、空気が静かに整っていた。


 アレンは息を一つ吸い、吐く。

 **詠路架チャント・ブリッジ**を細く置き、祈りの外縁が揺れないよう足場を作る。

 玻璃球の上に指を一瞬だけ置く。

 冷却封が、玻璃球の“内側”にだけ降りた。

 玻璃の表面は乾いている。内側の空気が白く霞む。

 測定器具の針が小さく震え、記録官が息を止めた。

 石板。

 表皮に沿って、縫結式の針をかすかに走らせる。

 指が離れると、板の上に小さなくぼみが四つ、花の形に並んでいた。

 板の厚みは変わらない。

 部屋は静かだ。

 音が戻る前に、セルゲイの指が僅かに動いた。


「――次。王都式儀唱結界リチュアル・シールとあなたの無響障壁サイレンス・シールドの重ね合わせ。干渉の有無を見たい」

 アレンは頷き、セレナを見る。

 セレナが祈護障の外縁を薄く広げる。

 アレンは無響障壁を祈りの節の間に“差し込む”。

 干渉は……ない。

 記録官の羽根ペンが紙を走り、セルゲイの瞳孔がわずかに収縮した。


「最後に。**氷葬花アイス・ブロッサム**の限定展開。対象はこの砂粒だけ」

 セルゲイが黒い砂を石台の中央に一粒置いた。

 部屋の空気が薄く重くなる。

 セレナが息を呑む。

 リサは無意識にアレンの背を目で押した。

 ティアは弦に触れず、オルフェンは盾に触れず、カインは笑わずに立っている。


 アレンは視線を砂に置いた。

 氷葬花の“花弁”を八つ。

 砂粒だけが白く結晶し、石台も空気も動かない。

 結晶は音もなく崩れ、砂は砂のまま、形だけが雪になって消えた。

 記録器が高い細い音を一度だけ鳴らし、黙る。

 セルゲイは、笑わなかった。


「――危険だ」

 部屋の空気に落ちる言葉は、前より平たく、重かった。

「だが、記録は記録だ。見たものを歪めるわけにはいかない。……御前に戻る」


──


 御前の間に戻ると、午后の光が斜めに差していた。

 文官が結果を読み上げ、記録官が写す。

 副司祭は短く「協調、確認」と言い、治安局長は「現場判断の裁量、限定的許容」と書かせた。

 商務審議会は唇を歪め、しかし反対はしなかった。

 王女は最奥で静かに頷く。

 王の代読役が結びを言う。「“沈黙の魔導師”アレン・クロード。王都は当座の拘束を行わず、監督下での実地行使を条件付きで許可する。勇者パーティ再編の議においては、近日中に別途召される」

 別途。――その語の中に、別の刃がある。


 退席の合図。

 人の波がゆっくりとほどける。

 セルゲイがすれ違いざまに低く言った。「……今日は、負けだ。だが、次は“人”で測る。勇者の“隣”で」

 カインの肩に力が集まる。「上等」

 オルフェンが前に出て遮った。

 リサはセレナに視線を送る。セレナは一度だけ頷き、目を伏せ、それから正面を見た。

 アレンは立ち止まらない。歩幅を変えず、御前の間を出た。


 廊下の端、薄い光が差す場所に、王女がいた。

 彼女は歩み寄らず、ただそこにいて、言った。

「ありがとう。――沈黙は、届きました」

 アレンは返事を置かず、しかし視線で一度だけ受け取った。

 それで足りた。


 王都の光はまばゆい。

 だが、誰の光も、沈黙で覆わない。

 ただ、形を映す。

 鏡のように。

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