第9話 王都に響く、沈黙の報

 王都は、音で始まる。

 鐘楼の鐘はまだ薄く、朝の一番祈りを告げる前の練習の打ち方で、石畳はその柔らかな震えをよく響かせた。

 パン職人が捏ね台を叩き、牛乳屋が木枠の音を高く低く鳴らす。衛兵の槍の石突は二度だけ石を叩いて交代を告げ、神殿前広場では白衣の見習いが花束を持って列を整えている。

 王城の高い壁は薄い金色で、朝の陽がゆっくりと欄干を舐め上がっていく。

 王都は、音で自分を確かめるのだ――少なくとも、いつもは。


 その朝、音に混じって“線”が届いた。

 見えない、だが確かな――**王都線架キャピタル・リンクの前駆のような細い橋。

 神殿の奥で、祈りの器に文字が落ちた。音ではない。数字でもない。

 骨の通った、現場の“結果”の列。

 南境からの報導祈レポート・グレイス**が、神殿の支線を通って静かに到着したのだ。


 記録官は最初、それを“誤配信”だと思った。

 次に、“新式の符号”だと理解した。

 そして三度目の祈りの波が同じ形式で落ちた時、彼は震える手で上官の扉を叩いていた。


──


 宮廷魔導士院、朝会議。

 長卓の表面は磨かれ、壁には古式の魔導式図が掛かっている。

 長卓の一端に銀糸の肩掛け――セルゲイ・ハイドリッヒ。

 対面に神殿の副司祭が座り、脇には文官、治安局の長、王城近衛の副長。

 卓上には神殿から回された“文字列”が束ねられていた。


「……南境支部より“報導”。内容は、疫霊獣の事案、測域拡張陣の破壊、そして――“無詠唱の式”が祈りと干渉せず機能した事例の詳細」

 文官が読み上げる声は硬い。

 治安局長が鼻を鳴らした。「また辺境の大げさな報告だろう。斥候の誇張は田舎の名物だ」

 副司祭は首を横に振る。「記述は誇張的ではありません。むしろ節約されています。祈りの用語法も正確。……記録者、よく訓練されている」


 セルゲイは書付の束から一枚を抜き、目だけで表面を滑らせた。

 “**断測楔メジャー・スパイク**による測域の基盤崩落”。

 “**詠路架チャント・ブリッジ**との協調により、**断詠陣サイレンス・フィールド**下で祈りが通過”。

 “**封鎖環シール・リング**による影の戻り道の遮断”――

 静かに、薄く、彼の口角が硬くなった。


「危険極まりない」

 セルゲイは紙を机に戻し、乾いた声で言った。

「制度外の行為を現場判断で反復させるなど、王都の秩序への挑戦だ。――“無詠唱の式”を許せば、詠唱の教育体系は崩壊する。神殿の祈りも、理論上の支柱を失う」


 副司祭の目がわずかに細くなる。「祈りは支柱で立つのではありません。人が祈るから立つのです」

「詭弁だ。支柱がなければ、祈りは人に届かない」

「届きました。届いたから、この文字列がここにある」

 二人の声は静かで、だが剣の腹を擦るように固かった。


 治安局長が苛立ちを隠さず言う。「端的に言え。拘束か、召喚か」

 セルゲイは指を組み、息を整える。

「私は召喚を提案する。――“拘束前提の召喚”だ。王都の監視下に置き、実験室で検証する。危険が顕在化した場合は即刻、拘束に移行」

 文官がうなずき、紙に走り書きをする。

「ただし“勇者パーティ再編”の審議と絡めるのが得策かと。王国の威光の下で処分の是非を決する形にすれば、世論も静まる」

 近衛副長は口を挟まない。ただ、黙って卓の上の紙を三度読み返し、最後にわずかに顎を引いた。――それは「王女にお通しを」の合図だった。


 重い扉が開き、空気の温度が一度だけ変わった。

 入ってきたのは、王女エリシア。

 銀糸を織り込んだ青のドレスは飾りが少なく、肩から垂れた薄布が朝の光を受けて微かに揺れる。

 彼女の瞳は、何かを怖れるためではなく、正確に測るための色をしていた。


「続けてください。途中からで構いません」

 エリシアの声は静かな水面のようで、広間の音を自然に整えた。

 副司祭が簡潔に要点を伝える。

 王女は終始うなずかず、否定もせず、ただ聞いた。

 読み上げが終わると、彼女は椅子に腰を下ろさずに言った。


「結果は、出ていますね。――南境の村は救われ、測域の拡張は阻まれた」

 セルゲイが即座に応じる。「結果のみで正当化するなら、禁呪もまた正当化される。陛下の治世は法で立つ。法は例外を抱えない」

「法は、人を救うためにある。例外が“人を救う”なら、法はその例外を取り込むために動くべきです」

 セルゲイの眉が、わずかに動いた。

 王女は続けた。「“沈黙の魔導師”。私は彼を、祝祭の日に見ました。――彼は声で自分を飾らない。飾らないものは、誤魔化さない」

「見込み違いだ、殿下。沈黙は、欺くためにも使える」

「言葉も、欺くために使えます。沈黙だけを怖れて言葉だけを信じるのは、片目をつむって前を歩くのと同じです」


 沈黙。

 朝の光が壁の図版に細い線を作り、ゆっくり移動する。

 治安局長が咳払いを一度。「王女殿下。政務の観点では、召喚はやむなしと考えます。問題は“誰の席に座らせるか”ですな」

 文官が即答する。「勇者パーティ再編の議題に合わせ、陛下の御前会議に。王女殿下、宮廷魔導士院、神殿、治安局、近衛、商務審議会――全ての代表が立ち会う形で」


 王女の視線がセルゲイに流れ、セルゲイは形だけ会釈をした。

 王女は短く言う。「召喚を。――ただし“拘束前提”ではなく、“対話前提”で。彼の式が祈りと協調するかどうか、私は自分の目で確かめたい」

 セルゲイは反射的に口を開きかけ、閉じた。

 副司祭が静かに笑む。「神殿としても異存はありません。現場が示した協調を、王都でも見たい」


 治安局長が手を叩く。「決まりだ。召喚状を用意しろ。――発出は本日午后」

 文官が立ち上がる。「手配いたします。近衛の護衛と、聖堂騎士の随行も付けましょう」

 近衛副長が頷く。「王都街道南の第三関門まで。そこからは砦の護衛に受け渡しが妥当」


 王女は扉の方に半歩だけ体を向け、ふと立ち止まった。

 振り返らないまま、短く言う。

「――“沈黙”は恐怖ではありません。恐れるべきは、言葉に頼りすぎて、目を閉じる弱さ」

 その言葉は誰に向けられたわけでもないのに、室内の数人が無意識に背筋を伸ばした。


 扉が閉まると、空気はすぐに“宮廷の空気”に戻った。

 セルゲイは書付の端を指で揃え、声を低くした。

「……殿下は、見ることを選ばれた。ならば我々は“見せる準備”をするだけだ。――危険は、危険のまま見せる」


 副司祭は視線で“やり過ぎるな”と告げ、紙の束を結って神殿へ戻った。

 治安局長は密偵の名を三つ書きつけ、近衛副長は兵の配置図に赤い印を一つつける。

 文官は召喚状の雛形を棚から引っ張り出し、必要箇所を素早く書き換えた。

 朝会議は終わり、王都はいつもの音に戻る――はずだった。


──


 同刻、別の部屋。

 宮廷魔導士院の私室のひとつ。

 厚い遮光カーテンが半分だけ開き、床に斜めの金色の帯が落ちている。

 セルゲイは机に置かれた黒曜の欠片を指先で転がし、ため息をひとつだけついた。

 扉が控えめに叩かれ、書記が入る。「……例の“灰色の格子”について、王都側でも痕跡を観測。旧下水道の換気塔に近い地点で“数えの線”が薄く残っていた、との報です」

 セルゲイは顔を上げる。「誰が?」

「観測班の第四です。……“観察者”の通過痕と推定」

 書記の瞳は怯えていない。訓練された目だ。

 セルゲイは短く頷き、「記録をここに。――王女殿下に知られる前に、我々で目を通す」と告げた。


 書記が去ると、部屋は静かになった。

 セルゲイは窓辺に立ち、王都の屋根の波を眺める。

 (南境は“置いた”。こちらは……“見られた”)

 彼は自分の嫌悪と敬意の境界が曖昧になる瞬間を嫌う。

 “静かなる魔導師”。

 力そのものではない。――“線”を通す才覚。

 その才覚が、王都の秩序にとって“危険”でないはずがない。

 セルゲイは口角をわずかに引き結び、机の上の黒曜を布で包んだ。


「……危険は、管理するためにある」


──


 王女の私室。

 大きくはない部屋だ。壁は分厚く、飾りは少ない。机の上には書物が十冊。背の高い椅子の脇には、開きかけたハープ。

 エリシアは窓辺に立ち、城下の朝を見ていた。

 侍女のミラベルが湯気の立つカップを持ってきて、静かに机に置く。

「殿下。お身体は」

「よいわ。……南境からの報告、神殿経由で来ていた」

「はい。祈りの書記が転写したものが補佐室に回っています」

「“沈黙”。」

 エリシアはその語を、舌の上で転がすように言った。

「言葉は、時々、人を救う前に人を飾る。沈黙は、時々、人を傷つける前に人を守る。――あの青年は、どちらの沈黙だろう」

 ミラベルは答えない。ただ、殿下の背中の線が疲れていないかを確かめ、カップを少し近づけた。

 ノックの音。近衛の伝達役が現れ、召喚状の発出と、勅使の準備が整ったことを告げた。

「三日で南境砦に到着予定。護衛は近衛四、聖堂騎士二、文官一。――王女殿下の御名も召喚状に添える手筈です」

 エリシアは頷いた。「ありがとう。……彼に会えるのね」

 伝達役は一瞬驚いた顔をしたが、礼をして退いた。

 ミラベルが「殿下」と小さく呼ぶ。

 エリシアは笑った。「大丈夫。私は言葉を飾らない。――彼に、沈黙を返せるかしら」


──


 王都の馬屋で、黒と白の二頭の馬が選ばれた。

 勅使の行列は小さい。旗は巻いたまま、紋章は隠され、夜明けとともに南へ向かう。

 近衛の隊長は道程を頭に入れ、聖堂騎士は祈りの布を鞍の下にしまい、文官は封蝋を確認した。

 召喚状の末尾には、王の名だけでなく、王女エリシアの名も添えられている。

 “対話のための召喚”。

 ――それでも、王都の召喚は軽くない。

 彼らは知っていた。向こうで“現場”が待っていることも。


──


 南境砦。

 朝の鍛錬が終わり、食堂で湯気が立つ。

 リサが匙を回しながら、紙束の整理を続けている。「王都へ送った“線”、反応、来ると思う?」

 カインがパンをちぎり、口に放り込んでから言う。「来る。いいか悪いかは知らねぇが、来る」

 ティアは窓の外を見て、「風、東」とつぶやく。

 オルフェンは盾の縁を布で拭き、「磨く」とだけ言った。

 セレナは祈祷所から戻り、袖を整える。「神殿の支線が昨夜より澄んでいます。王都側で“線”の幅を広げたのかもしれない」


 アレンは外廊で風の“骨”を撫で、**静守環クワイエット・ガード**を一つだけ薄く置いた。

 置くたびに、砦の音は“眠れる音”になる。

 ――そこへ、角笛。

 門楼から見張りの声。「南街道、王都の旗! ――勅使!」


 食堂の音が止まり、次の瞬間一斉に高くなった。

 ガイウスが広場に出て、手短に指示を飛ばす。「配置そのまま、武器は鞘。セレナ、祈祷所前で立ち会え。アレン――」

「いる」

 短い返答に、支部長は頷いた。「よし、行くぞ」


 門が開き、砂埃とともに小さな行列が入る。

 近衛四、聖堂騎士二、文官一。

 文官は馬から降り、封蝋の重みを指で確かめてから巻紙を取り出した。

 赤い蝋に王家の紋が二つ。王の印と――王女の印。


「南境砦に務める冒険者、アレン・クロード殿。並びに、同僚一党。王都は貴殿らを召す――“対話のために”。」

 文官の声は高ぶらず、しかしはっきり響いた。

 セレナが一歩前へ。「神殿として立ち会います」

 聖堂騎士が頷く。近衛は槍を立て、視線を落としたまま動かない。


 アレンは封蝋に視線を落とし、赤の光が朝日に微かにきらめくのを見た。

 王女の紋が、そこにあった。

 彼は短く息を吸い、一言だけ置いた。


「――行く」


 リサが笑って拳を握り、カインが豪快に背を叩く。「よし、王都見物だ!」

 オルフェンは盾を背に回し、「支度」と言って駆け、ティアは「地図」と呟いて走る。

 セレナは一瞬だけ空を見た。

 その目は、遠い鐘楼と、まだ鳴っていない鐘の影を見ていた。


 王都へ――沈黙を、持って行く。

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