第11話 公開試練、沈黙は剣より速く
王都東区の訓練場は、朝のうちから熱を持っていた。
石畳は昨夜の露を飲み干し、円形闘技場の客席には既に人の帯が幾重にも重なっている。屋台が列をなし、焼き栗の匂いと薄いワインの香りが風に混じる。貴族席には色鮮やかな外套、庶民席には埃っぽい帽子。声は高く、笑いは軽く、好奇と悪意が同じ鞘に収められたまま、刃先だけが覗いていた。
「兄を晒すのか」「勇者様の正しさを示す試練だ」「無能の兄がどうひねられるか見ものだ」
囁きは、刃が石で研がれる音に似ていた。
砂の舞台に、二つの扉が向かい合っている。
西扉の前には、王都の赤い旗。東扉の前には、神殿の白い旗。
上段の桟敷には、宮廷魔導士院の席。銀糸の肩掛けが並び、その中央にセルゲイ・ハイドリッヒ。
対角には王族の席。王の座の斜め後ろ、少し低い椅子に王女エリシアが控える。彼女は扇を持たない。目だけが、舞台の砂の粒を数えるように静かだ。
号鐘が一度。
西扉が開き、聖剣の白光がさっと走る。
勇者ライルが先頭で歩み出た。聖剣〈オルディネ〉は薄い光を纏い、その柄に刻まれた聖紋が呼吸のように脈打つ。続くのは剣士ダリル、僧侶ミーナ、弓手レオナ、盾兵グラント。王都標準の装備、磨かれた革、整えられた動作。観客席は歓声の塊になった。
「勇者様だ!」「ライル様!」「聖剣!」
東扉が開く。
黒髪の青年が一歩で光の下に出た。アレン。肩に何も飾らず、腰に杖も剣も帯びない。
彼の後ろには五人――リサ、オルフェン、カイン、ティア、そしてセレナ。衣は質素、動作は静か。喧騒の海の中で、彼らだけが波を立てない小舟のように見えた。
「……兄上」
ライルが一歩、前に出る。瞳は空色、声はよく通る。「この場は王国の名誉にかけた試練だ。まだ間に合う。己の無能を認め、聖剣の進む道を妨げないと誓え」
アレンは答えない。
返礼の代わりに、砂の感触を一度踏み直した。砂粒の尖り、湿り、舞い上がる角度。
セレナが細く息を整え、祈りの布の端を親指で撫でる。
リサは手首に巻いた**
カインは肩を回し、オルフェンは盾の革紐の緩みを微調整、ティアは矢羽を一本ずつ寝かせて角度を合わせた。
中央に進み出たセルゲイが片手を掲げる。
「――宮廷魔導士院査問会の名において“公開適正試験”を開始する。規定に則り、致死の術は禁止。重篤傷は神殿が即時介入。……さて、“沈黙の魔導師”。見物客を退屈させぬことを祈る」
号鐘が二度――開始。
──
最初に声を張ったのは、ダリルだった。
「
剣に火線が走り、砂が焦げるラインを描く。
レオナが矢を三本、指に挟み、連矢の詠唱。「
矢羽に白い風の糸が絡み、弧を描いてアレンの胸元へ。
ミーナは祈りの韻を立て、**
グラントは前に出て、**
ライルは聖剣を胸前に立て、短い祈りで刃の白光を深めた――
観客席が沸騰する。
詠唱、詠唱、詠唱。
音の梯子が敵へと立ち上がり、技は音を踏んで大きくなる。
アレンは、呼吸を一つ。
風が鈍り、火がくぐもり、刃の唸りが砂に吸い込まれる。
ダリルの火線は障壁の表皮で“角度”を失い、砂の上に丸い焼け跡だけを残した。
レオナの三矢は空でわずかに肩を落とし、観客席の上の石壁に順に刺さる。
ミーナの祈りがグラントの肩に乗る――はずが、薄膜の梁でわずかに滑って、盾の縁にだけ薄い光が滞った。
ライルの聖光刃は降り、降り切らず、空を切った。
「な……」
ライルの口がわずかに開く。
セルゲイの瞳孔が針のように細くなった。
「前に!」ダリルが吠える。
砂が跳ね、剣先が走る。
アレンは足裏で砂を受け、指先で空気を撫でる。
剣の“縁”を保つ微細な応力の線だけを、縫い目をほどくように外す。
甲高い音は鳴らない。
ダリルの剣身に、紙一重の“ささくれ”が走り、切っ先は力の逃げ道を失って、勝手に砂へ潜った。
「叩け!」グラントが吼え、盾面が炸裂する角度で押し出される。
オルフェンが受けた。
重い音がしない。
グラントの目が揺れる。「嘘だろ……?」
レオナの矢が今度は低く、足下を狙って走る。
アレンは**
ミーナが焦り、祈りが半拍速くなる。「
アレンは
祈りは、橋が無い川に石を投げたみたいに、水面を二度跳ねて消えた。
観客席のざわめきが、質を変える。
「……聞こえたか?」「声が――届いてない」「嘘、祈りが空を滑ったぞ」
笑いはしぼみ、代わりに“理解できないものを見た時の声”が広がった。
「ライル様!」ミーナの顔が強張る。
ライルは歯を食いしばり、聖剣を横薙ぎに振った。
聖光刃の白が大きく広がり、砂塵が舞う。
アレンは無響障壁を一点に“集束”し、刃を受けた。
光は障壁の内側に落とされ、燃えず、跳ねず、砂に溶けた。
聖剣が“音を立てない”という経験を、王都は初めて見た。
ライルの肩が震える。
「何をした、兄上……!」
アレンは答えない。
代わりに、砂の上に花を置いた。
花は咲かず、ただ砂粒ひとつの“熱だけ”を奪い、上へ立ち上る砂塵の渦を静めただけだった。
(見せる。壊さずに、制御だけを)
セルゲイの喉がわずかに鳴る。
彼は視線だけで副官に合図した。
副官が詠唱を短く切り、**
数値は、安定。干渉、極小。
セルゲイは唇を舐め、表情を戻した。
ダリルは折れかけた刃を捨て、短剣に持ち替えて詰める。
カインが前に出た。
剣と剣――いや、刃と刃の“間”。
カインの大剣が振り下ろされる“直前”、アレンが**
刃は余計な空気を纏わず、通るべき“中身”だけを抜く。
ダリルの袖が裂け、肉は浅く、骨は無傷。
「手加減……してやがるっ」ダリルが歯噛みし、なおも踏み込む。
オルフェンが斜に入り、盾で“線”を押さえ、ティアの矢がダリルの足元に
足の置き場が“正解だけ”になり、ダリルは跳ねることしかできない。跳ねれば、重心は上に逃げる。
カインの刃はもう落ちていない。脅しも必要がない。
戦いは、形のほうが先に決まる。
ミーナが祈りを組み直し、**
セレナが一歩進み、
祈りは通る。
通るが、アレンが縫結式で“届く場所”を指先で変えた。
ダリルの裂け目に“だけ”届き、筋を締め、血が止まる。
ミーナは顔を上げ、何をされたのか理解できずに目を見張った。
セレナは小さく微笑む。――現場で見た協調。今、王都で再現。
「弓、落とす!」レオナが高所へ転がり込み、連射の角度を変える。
ティアの矢が一本、空高く上がり、風偏流で落ちの“曲がり角”に印を残す。
レオナの矢はその印に引かれ、目標から半寸ずつ外れた。
「なんで……! 風を盗んでる……?」
グラントが最後の“決め”に出る。
オルフェンの前に影が迫る。
アレンが衝抜式を重ね、セレナが**
衝撃は、地へ落ちた。
グラントは膝をつき、顔を上げると、己の盾が“重さ”を失っているのに気付く。
重いのは、自分の息だけ。
ライルは聖剣を両手で握り直し、最後の詠唱を選んだ。
短いが、重い。
アレンは、見た。
そして、少しだけ眉を寄せた。――(子どもの頃、教えた握りだ)
聖断光が降る。
アレンは無響障壁を“重ね”ではなく“逆相で合わせ”た。
刃の光の“縁”だけが薄く剥がれ、核は失われ、光はただの白に戻った。
砂に白い粉が降り、風で消える。
ライルの腕が震える。聖剣はなお軽やかに輝くのに、その輝きが彼の腕を支えない。
観客席の声は――消えた。
消え、そして別の音になった。
「……全部、無詠唱で」「詠唱じゃなくて“形”」「祈りが、通るときだけ通してる」「壊してない……止めてる」
ざわめきは、理解へと変わる途上の音だった。
セルゲイが舌打ち一つ分だけ口の中で音を作り、すぐに微笑の形に閉じ込めた。
王女エリシアは、頬の筋肉を動かさないまま、瞳の奥だけほんのわずかに明るくした。
アレンは弟の前に進む。
肩越しに、誰の声も聞こえない。
砂の匂い、金属の乾き、遠い屋台の甘い香り。
彼は立ち止まり、言葉を一つだけ置いた。
「剣を振るうなら、言葉を捨てろ」
ライルの顔に幼い日の影が差し、すぐに消えた。
「……兄上に、剣を教わった覚えはない」
薄い反発。その奥に、割れ目のような何か。
アレンは何も返さなかった。返すべきものはここにはない。
彼は半歩退き、掌を下ろしたまま、**
勇者パーティの四人――ダリル、レオナ、ミーナ、グラントの足元にそれぞれ“過剰反応の戻り路”を封じる環。
これで彼らは“無理に反撃しない”。しようとすれば足の置き場が正解から外れ、膝をつく。外そうとすれば、環は消える。
セルゲイが片手を掲げた。「――そこまで!」
号鐘が三度。
宮廷魔導士院の書記が立ち上がり、結果を読み上げる。「王都式詠唱――多数不成立。祈り――限定通過。沈黙式――非致傷・高制御・干渉軽微。……模擬戦、判定“沈黙側の優”」
観客席に色のない沈黙が落ち、次いで、遅れて――大波のようなどよめきが押し寄せた。
「静かなる魔導師だ……」「本当に“声がない”……」「でも、全部見てから置いてる」「勇者様の剣が……届かない……?」
セルゲイは口角を引き上げ、声を張る。「これは模擬だ! 本番の戦場は乱れ、泥に滑り、運が絡む! 今日の結果だけで王都の秩序を揺るがすな!」
叫びは正しい。だが、遅かった。
人は、見たものを忘れられない。
“音がなく、防ぎ、通し、刻む”という動作。
それが目の前で繰り返されたという、消えない記憶。
エリシアは立ち上がらなかった。
ただ、掌で椅子の縁を一度だけ撫で、席を立つ時に使う筋肉を確認するようにして、瞳を細めた。
――沈黙は、届く。
今はそれだけで足りる。
──
試練の後、舞台の砂は手早くならされ、客席はざわめきを残して崩れた。
王都の空は真昼の白で、城壁の影が短い。
控えの廊下に、乾いた靴音が交錯する。
聖堂従者が担架を運び、神殿の見習いが**
ダリルは悔しげに唇を噛み、レオナは唇を固く結び、グラントは黙って拳を握り、ミーナは祈りの本を胸に抱えたまま視線を落としている。
ライルだけが、立っていた。
聖剣の柄を握りすぎた掌が白い。
彼は兄の背を見て、言葉を作りかけ、飲み込んだ。
その横顔は、幼い頃に似ていなかった。
セルゲイが角を曲がり、アレンと向き合う。
彼は礼儀の形で笑い、冷えた声を選んだ。
「――君はうまい。壊しもせず、示す。……だが、戦場はもっと汚い。次は“人”で測る。勇者の“隣”で」
カインが半歩出る。「測りたいなら、いつでも」
オルフェンが肩で押し戻す。
セレナはセルゲイをまっすぐ見た。「“次”は、王都が現場を学ぶ番です」
セルゲイの目が細くなり、微笑がさらに薄くなった。「学ぶ、か。――王都は“選ぶ”。秩序を守るか、例外を抱くか」
そこへ、軽い足音。
王女エリシアが角から現れた。近衛は連れず、侍女が一人。
廊下の光が彼女の髪の銀糸を流し、影が薄い青を帯びる。
「公開試練、お疲れさまでした。……“沈黙の魔導師”」
彼女はアレンに視線を置き、軽く首を傾げた。「壊すことなく、示されましたね。ありがとう」
アレンは頷いた。
「必要なだけ」
その四文字は、告白でも謙遜でもない。報告書の一行のように、ただ事実を置いた。
エリシアはセルゲイに目を移す。「宮廷魔導士殿。今日の記録――祈りとの協調、干渉の値、非致傷の実例。……神殿と共有を」
セルゲイは微笑のまま、一礼した。「無論。記録は王都の財産ですので」
(喉に刺さる財産だ)と、その横顔が告げていた。
ティアが窓の外を見て「風、東」と呟く。
リサは紙束を抱え直し、「数字で殴る準備、できてる」と笑った。
オルフェンは盾の縁を布で拭き、カインは大剣の刃を光にかざす。
セレナは祈りの結びを解いて、もう一度淡く結んだ。
アレンは短く息を吸い、胸の内に一つだけ新しい形を置いた。
廊下の囁きが少し落ち着き、遠くの屋台の子どもの笑い声だけがくっきりと届いた。
──
その日の夕刻、王都はいつもより早く陰影を濃くした。
酒場では「静かなる魔導師」が噂になり、祈祷所では“沈黙で届く祈り”についての問答が始まった。
市場では、物売りの女が「口数が多いより腕が確か」と肩をすくめ、子どもは路地で「うたわない魔法」を真似て息を止めた。
城下の裏では、古い下水道の換気塔の影に、薄い霧が一度だけ集まり、すぐに散った。
観察者の目は、まだ王都にあった。
“沈黙”に、別の意味を探す目。
王城の一室、王女の私室。
エリシアは窓辺に立ち、夕風を一度吸って吐いた。
侍女ミラベルが控える。「殿下。今日の御様子は」
「よかった。……王都は、耳を澄ませる必要がある」
「沈黙に?」
「ええ。言葉ではなく、形に」
エリシアは窓枠に指を置き、目を閉じ、開いた。
「――明日、神殿と宮廷に“共同検分”を提案する。公開ではなく、実務の場で」
同刻、宮廷魔導士院の一室。
セルゲイは明かりを落とし、机上の記録を一枚ずつ見返していた。
横に置かれた黒曜の欠片に手を伸ばし、指で転がす。
(壊さず、示す。――最も厄介な手だ)
彼は小さな鈴を鳴らした。
扉がわずかに開き、灰の外套の影が一つ、滑り込む。
「……王都の下で“仮測域”を張れ。――“沈黙”の角度を測る」
影は頷き、霧のように消えた。
──
夜、王都の外れの宿。
六人は一つの卓を囲み、遅い夕食を取った。
汁は薄く、パンは固く、でも塩は正しかった。
カインが杯を掲げる。「ボコった!」
リサが苦笑する。「言い方」
オルフェンはパンを割り、「少量」とだけ言ってワインを口にした。
ティアは黙って頷き、セレナは祈りの結びを解いて小さく笑った。
アレンは窓を少しだけ開け、夜気を入れた。
王都の夜は、音が多い。
だが――今日は少し、静かだった。
**
(置き過ぎない。必要なだけ)
遠く、鐘楼が遅い鐘をひとつ、鳴らした。
それは誰のためでもなく、王都のための音。
アレンは目を閉じ、次の形を胸の内で並べた。
**
必要な時に、必要なだけ。
それが彼のやり方で、明日も同じだ。
沈黙は、剣より速く、嘘より遅い。
だから、届く。
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