第5話 ボア狩り

 ある日の朝、風灯デンロゾーの宿に農夫が駆け込んできた。

 息を切らし、土埃にまみれた男は、タチヌイの前で深く頭を下げる。


「タチヌイさん!また畑が荒らされました……!芋も麦も掘り返されて、このペースだと冬を越せません!」


 宿の空気がざわつく。

 タチヌイは太い腕を組んだまま、しばし無言。

 やがて低い声で言った。


「……子どもたちの訓練にちょうどいいな」


 その言葉に、孤児仲間たちが一斉に目を見開く。


「え、俺たちが!?」


 とリットンは思わず声を上げた。


「当たり前だろ!」


 バンターが横から割り込む。


「俺が仕留めてやる! どんな獣だって、俺の相手じゃねえ!」


 胸を張るバンターに、ローヌが呆れたように肩をすくめた。


「調子に乗らないの。足を引っ張るのは勘弁してよ」

「な、なんだよ! 俺は本気だぞ!」


 そんなやりとりを聞きながら、リットンの胸は高鳴っていた。

 初めての狩り。

 親父の背中に憧れてからずっと夢見ていた「外の仕事」に、ついに挑戦できる。


 けれど同時に、不安もあった。

 今まで鍛錬で何度も倒され、荷運びでも迷惑をかけた。

 今回こそ足を引っ張るわけにはいかない。

 リットンは小さな拳を握りしめた。


「……俺、頑張る。みんなの役に立つんだ」


 その声は小さくとも、確かに決意を宿していた。


 昼過ぎ、子どもたちは畑へと向かった。

 秋の風が涼しく、刈り入れ前の畑は黄金色に染まっている。

 だが所々、土が荒れ、作物が無惨に掘り返されていた。


「ひどいな……」


 リットンが思わずつぶやく。


「ほんとだ。せっかく育てたのに」


 ローヌも眉をひそめる。


「やっぱり獣の仕業だな」


 クーガンが地面にしゃがみ、掘り返された跡を丹念に調べた。

 深くえぐられた土、蹄の跡、獣臭。

 彼は静かに立ち上がり、仲間に告げる。


「リトルボアだ。まだ若い二、三匹の群れだろう」

「リトルボア……?」


 リットンが首をかしげる。


「森イノシシの小型種だ。大人よりは弱いが、突進されたら人間の子どもなんざ簡単に吹っ飛ぶ」


 ぞくりと背筋が冷えた。

 想像の中でしか知らなかった獣が、すぐそこに潜んでいる。

 リットンはごくりと唾を飲み込み、木の枝を握り直した。


「ふん! 小さいイノシシなんて俺の敵じゃねえ!」


 バンターが木の棒をぶんぶん振り回す。


「バンター、無茶はしないでね」


 ローヌがきっぱり釘を刺す。


「わ、わかってるって!」


 ……わかってない。リットンは心の中でつぶやいた。

 でもバンターの元気さに少し救われる気もした。


 畑の周囲を慎重に歩く。

 リットンは何度も振り返り、仲間の動きを確認した。

 落ち葉を踏む音にも胸が跳ねる。


「……緊張してる?」


 ローヌが小声で聞いてくる。


「う、うん。でも大丈夫。俺、慎重にやるから」

「ふふ、いい心がけね」


 優しい笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。


 先頭を行くクーガンが森の縁に差しかかり、手を挙げて立ち止まる。


「ここから先だ。痕跡が濃い」


 その声に、全員が息を呑んだ。

 森の浅層――昼間でも木々が影を落とし、畑とはまるで空気が違う。

 静かなのに、獣の気配だけが濃く漂っている。


「よし、いよいよだな!」


 バンターがにやりと笑い、前に出ようとする。


「待って! 順番を守ろう!」


 リットンが慌てて制した。


「はぁ? 臆病者だな!」

「ち、違う! 俺……今回は慎重にやりたいんだ」


 真剣な声に、バンターも一瞬たじろぐ。

 ローヌがそっと笑みを浮かべて言った。


「リットンの言う通り。ここからは一歩間違えば危ないの。慎重なくらいがちょうどいいわ」

「……ちぇっ」


 バンターは棒を肩に担ぎ、渋々引き下がった。


 リットンは胸を張る。

 怖い。でも、ただ怖がるだけじゃない。

 仲間の役に立ちたい。その思いが、体の奥を支えていた。


「よし……俺も、やるんだ」


 握った木の枝に力がこもり、目が真っ直ぐに前を見据えていた。


 森の縁に近づくと、空気がひんやりと変わった。

 畑の黄金色の麦畑から一歩踏み込むだけで、湿った土と枯葉の匂いが強くなる。

 リットンはごくりと唾を飲み込み、周囲を見回した。


「ここだな」


 クーガンが膝をつき、掘り返された土を指でなぞる。

 深く抉られた跡、ずっしりとした蹄の形。

 鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、彼は静かに言った。


「……リトルボアで間違いない」

「ほらな! 俺の出番だ!」


 バンターが棒を振り回して叫ぶ。


「静かに。騒ぐと余計に出てくるわよ」


 ローヌが眉をひそめた。


 リットンは足元の土をじっと見つめた。

 蹄跡は自分の手のひらよりも大きい。

 ――これでなのか。

 不安が胸を締めつけるが、後ろには仲間がいる。深呼吸して心を落ち着けた。


 がさり、と森の奥から音がした。

 全員が息をのむ。

 茂みをかき分けて現れたのは――二匹の獣だった。


 灰色の硬い毛皮、突き出した牙、土を掻き分ける逞しい蹄。

 背丈は大人の胸元ほどあり、筋肉がうねるたび地面が揺れるように感じられた。


「……でっかい……!」


 リットンが震える声で呟く。


「これで小さいって、親父さんが狩ったのはどんだけだよ……」


 バンターも思わず息をのむ。


 だが次の瞬間、彼は顔を輝かせ、勢いよく飛び出した。


「うおおおっ、任せろぉ!」

「バンター、待ちなさい!」


 ローヌの制止も聞かず、突っ込む。


 リトルボアが唸り声を上げ、土煙を上げて突進する。

 その勢いは人間の子どもなど紙切れのように吹き飛ばすほどだった。


「や、やばっ!」

「バンター!」


 案の定、棒を構えていたバンターは直撃を受け、転がるように畑の端まで吹き飛ばされた。

 必死に起き上がろうとする姿に、リットンは思わず叫ぶ。


「やめろー! こっちだ!」


 咄嗟に石を拾い、力いっぱい投げた。

 ごつん、と獣の頭に当たる。

 一匹がぎろりと振り向き、鋭い目がリットンを捉えた。


「ひっ……!」


 全身が凍りつく。足は逃げろと叫んでいるのに、腰が抜けて動けない。

 だがその瞬間、横からクーガンの叫び声が飛んだ。


「伏せろ!」


 リットンは反射的にしゃがみ込み、クーガンの木剣が獣の鼻先を打ち払った。

 鈍い衝撃音とともにリトルボアが後ずさる。


「ローヌ、右だ!」

「任せて!」


 ローヌが素早く回り込み、もう一匹の注意を引く。

 彼女の手にした短杖が閃き、火花のように光が散った。魔法の火が獣の鼻先を焦がす。


 リットンは震える手で再び石を拾い、必死に声を張り上げた。


「こ、こっちだ! 俺がいるぞ!」


 石は的を外れたが、獣の気をそらすには十分だった。

 その隙にクーガンが木剣を叩き込み、ローヌが追撃を重ねる。


 やがて、一匹が土煙を上げて倒れ込んだ。

 もう一匹も脚を痛め、森の奥へ逃げ込んでいく。

 残ったのは泥と血の匂い、そして肩で息をする子どもたちの姿だった。


「はぁ……はぁ……!」

「やった、勝った……のか?」


 バンターが泥だらけの顔で笑う。


「無茶するからよ……!」


 ローヌが呆れながら手を貸す。


「……辛勝だな」


 クーガンが低く言った。


 リットンはその場にへたり込み、泥のついた手を見つめた。

 震えている。怖かった。けれど――。


「俺、ちゃんと……役に立てたかな」

「立派だったわよ、リットン」


 ローヌが優しく笑った。


「石投げなかったら、俺もっとやばかったわ!」


 バンターが豪快に笑う。


「……次は足を引っ張るなよ」


 クーガンは短く釘を刺したが、その声に冷たさはなかった。


 泥だらけで息も絶え絶え。

 けれどリットンの胸の奥は、不思議な高揚で熱くなっていた。

 想像以上に大きなリトルボアに震えたけれど――仲間と一緒なら勝てた。


 その事実が、何よりも嬉しかった。


 夕暮れが迫る道を、子どもたちは泥だらけのまま歩いていた。

 ロープで縛られたリトルボアの死体が、ごろごろと音を立てながら引きずられていく。

 それを担ぐのは主にクーガンで、バンターは横で腕を組み、大声で叫んでいた。


「見たか街の人たち! これが俺の狩りの成果だ!」

「うそおっしゃい」


 ローヌが呆れたように言う。


「最初に吹っ飛ばされたのはどこの誰?」

「い、いや、それも計算のうちだ! 俺が囮になったから勝てたんだ!」

「それ、足を引っ張ったって言うのよ」


 言い合いに、クーガンが「うるさい」と一喝する。

 だが口元はほんの少しだけ緩んでいた。


 リットンは、その後ろを小走りでついていった。

 腕には擦り傷、膝には泥。肘は打撲でじんじんと痛む。

 けれど痛みなんてどうでもよかった。胸の奥は、熱と誇らしさでいっぱいだった。


 ――俺、少しは役に立てたんだ。


 思い出すのは、石を投げてリトルボアの注意を逸らした瞬間。

 怖かった。足がすくんで逃げそうになった。

 それでも仲間のために動けた。

 それが、何より嬉しかった。


「リットン、顔がにやけてるわよ」


 ローヌが横目でからかう。


「え、えっ……!」


 慌てて表情を引き締めるが、頬はどうしても緩んでしまう。


「無理に隠さなくていいわ。誇っていいことよ」


 その言葉に、リットンはこみ上げるものを必死で飲み込んだ。


 宿に近づくと、通りの人々がざわめき始めた。


「おい、あれリトルボアじゃないか!」

「子どもたちが仕留めたのか?」

「たいしたもんだ!」


 人々の視線に、リットンの胸はさらに熱くなる。

 クーガンが黙々と獲物を引きずり、バンターが胸を張って歩く。

 ローヌは冷静に前を向き、リットンは必死にその後を追った。


 やがて宿の前に到着すると、ドアが開き、中から子どもたちの声が飛んだ。


「おかえり!」

「すごい、リトルボアだ!」

「ほんとに狩ってきたんだ!」


 わっと人垣ができ、リットンは照れながら笑顔を返した。


 裏庭に獲物が運び込まれ、すぐに調理が始まる。

 トチェイが指示を飛ばし、鍋に肉を放り込み、香草をちぎる。

 あっという間に、宿中に香ばしい匂いが広がった。


「おい、リットン! 皿並べろ!」バンターが叫ぶ。

「うん!」


 腕が痛んでも、足が重くても、動かずにはいられなかった。

 皿を抱えて走り、パンを並べ、スープを運ぶ。

 仲間の手伝いをするだけで、胸が高鳴る。


 やがて肉の煮込みが完成し、食堂に大皿が次々と並べられた。

 香りに釣られ、街の客も次々と入ってくる。


「うまそうだな!」

「今日はごちそうだ!」


 笑顔が広がり、食堂は一気に明るくなった。


 リットンも皿を受け取り、仲間と肩を並べて食べ始めた。

 口に入れた瞬間、肉汁が広がり、疲れた体に染み渡る。


「……おいしい!」


 自然に笑みがこぼれる。

 隣でバンターが大口を開けて叫ぶ。


「なっ、やっぱり最高だろ! 俺のおかげだ!」

「まだ言ってる……」


 ローヌが呆れ、クーガンが小さく鼻を鳴らした。


 リットンはそんな仲間たちのやり取りを聞きながら、ふと周囲を見渡した。

 客も子どもたちも、大人もみんな笑っている。

 腹いっぱいの食事を前に、幸せそうに笑顔を交わしている。


 ――いいな。俺も、もっと……みんなに喜んでもらいたい。


 胸がじんわりと温かくなる。

 自分が運んだ石ひとつ、声を張った一瞬が、この笑顔の輪につながっている気がした。

 それだけで、傷の痛みも泥の重さも消えていく。


 宴が続く中、タチヌイが食堂の隅で黙々と肉を頬張っていた。

 その姿を見て、リットンは心の奥でそっと拳を握った。


「……次は、もっと役に立ちたい」


 小さな決意が、胸に確かに灯っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る