第4話 仲間と

 森のボアの宴から数日。

 リットンの胸は、いまだに高鳴っていた。

 あの肉の匂い、熱気、みんなの笑顔。親父の大きな背中。

 その光景が何度も頭に蘇るたび、体の奥がうずき、じっとしていられなくなる。


「……俺も、狩りに行きたい」


 ある朝、意を決してタチヌイの前に立った。

 食堂の片隅、巨体の男は黙って酒瓶を並べながら帳簿をめくっていた。

 リットンは拳を握りしめ、声を張る。


「親父さん! 俺も……狩りに行かせてほしい!」


 タチヌイの動きが止まる。

 ゆっくりと視線を上げ、鋭い眼光がリットンを射抜いた。


「……お前、今の自分の腕でボアを前に立てると思うか」

「……っ」


 返す言葉はなかった。

 思い浮かんだのは、あの牙の巨大さ。

 地面を揺らした体の重み。

 自分の腕じゃ、木の枝一本すら折れない。


「生きて帰りたいなら、まずは体を作れ」

「体を……」

「走れ。木を割れ。荷を運べ。狩りってのはな、斬ったり突いたりする前に、体で踏ん張れるかどうかだ」


 淡々と告げられた言葉に、リットンの胸はじりじりと熱くなった。

 いきなり狩りに出られない悔しさと同時に、「じゃあ鍛えればいいんだ」という単純でまっすぐな希望。


「……わかった! やる!」


 目を輝かせて叫ぶリットンに、タチヌイはほんのわずかに口角を上げた。


 鍛錬はすぐに始まった。


「走れ」


 宿の前の通りを、リットンは裸足で駆け抜ける。

 最初は三周で息が上がり、膝が笑った。


「遅い」


 並走するクーガンがぼそりと叱咤する。


「は、はぁ……! ま、待って……!」

「狩りに待ってはねえ。走り続けろ」


 息が苦しくて足が止まりそうになるたび、クーガンの声が背中を押した。


「割れ」


 次は薪割りだった。

 斧を持つのも初めてで、刃を振り下ろせば地面に突き刺さり、木はびくともしない。


「腰が抜けてる」


 クーガンが低く言う。


「こ、腰……?」

「腕で振るんじゃねえ。足で踏ん張って、腰で打ち下ろせ」


 何度も失敗して、肩はしびれ、手のひらには豆が潰れて血がにじんだ。

 それでもリットンは、目をぎらぎらと光らせて斧を握り続けた。


「……もういい、休め」

「まだやれる!」

「バカ、潰した手で斧を振っても木は割れねえ」


 渋々斧を下ろすと、ローヌが駆け寄ってきた。


「ほら、見せて。ああ、豆が……。消毒するわね」

「い、痛っ……」

「我慢して。手を壊したら続けられないでしょう?」


 手当てをしながら、ローヌはにっこりと笑った。


「でも……よく頑張ったね」

「……っ」


 その一言が、痛みよりも心に沁みた。


「運べ」


 最後は荷運びだ。

 穀物や酒樽の袋を背負い、裏庭から食堂まで運ぶ。

 足元はぐらつき、背中は悲鳴を上げる。


「おら、落とすなよ!」バンターが脇で叫ぶ。

「が、頑張ってるってば……!」

「よーし、そのまま、あと十歩! 九、八……!」


 無駄に大げさなカウントに、苦しいのに笑いがこぼれた。

 最後の一歩を踏み出し、袋をどさっと床に置いた瞬間、全身から汗が吹き出した。


「はぁ……はぁ……!」


 立っているのがやっとだったが、胸の奥は不思議とすっきりしていた。


 夕方、仕事を終えると、ローヌが食堂に皿を並べた。

 山盛りの肉と温かいスープ。


「鍛錬した日は特別メニュー。ちゃんと食べて、体を作りなさい」

「……ほんと?」

「ほんとよ。親父さんからの命令」


 リットンは目を輝かせ、がつがつと食べ始めた。

 汗と泥と血のにじむ一日だったが、口に運ぶ一口ごとに「強くなれる気」がして、笑顔が止まらなかった。


 夜、ベッドに潜り込んだリットンは、手のひらの痛みをじっと見つめた。

 腫れて赤くなった掌は、今日一日頑張った証だった。


「……できないことの方が多いけど」


 悔しさよりも、わくわくが勝っている。

 胸はまだ熱く、目は眠れないほど輝いていた。


「俺、絶対……強くなる」


 小さな拳を握り、布団の中でそう誓った。


 ある日の午後、裏庭に子どもたちが集められた。

 土の匂いが強く、風が通る広場。

 タチヌイが両腕に木剣を抱えて立っていた。


「……よし。体を鍛えるだけじゃ退屈だろう。今日は形だけでも覚えろ」


 ごつごつした手で木剣を一本ずつ配っていく。

 リットンの手に渡ったそれは、思った以上に重かった。


「……これで、戦えるの?」

「戦うんじゃねえ。まずは握り方を覚えろ」


 低い声が響く。リットンはごくりと喉を鳴らし、両手で木剣を構えた。


「相手はクーガンだ」


 名を呼ばれた瞬間、リットンの背筋に冷たい汗が伝った。

 目の前に立つクーガンは、同じ孤児仲間とはいえ体格も筋肉も桁違いだ。

 しかも手には同じ木剣。

 振り下ろされたらどうなるか――想像するだけで膝が震える。


「よし、かかってこい」

「えっ、い、いきなり!?」

「狩りに構えの時間はねえ」


 言葉が終わる前に、クーガンの木剣が振り下ろされた。


「うわっ!」


 慌てて受け止めるが、衝撃は腕の骨にまで響き、そのまま地面に倒れ込む。


「いってぇ……!」

「立て。まだ一本目だ」


 淡々とした声に、リットンは歯を食いしばって立ち上がる。

 次の瞬間、またも斬り込まれ、木剣ごと弾かれて背中から土に落ちた。


「ぐはっ!」


 痛い。腕も腰もずきずきする。

 それでもリットンの目は輝いていた。


「……もう一回!」


 土を払って立ち上がり、構える。

 何度打ち倒されても、声を張って挑む。

 子どもらしい無鉄砲さと、どうしても負けたくない意地があった。


 何度目かの転倒のあと、脇から元気な声が飛んだ。


「俺もやる!」


 バンターが木剣を振り回しながら飛び込んできた。

 タチヌイが片眉を上げる。


「……二人同時か。まあいい」


 クーガンが構え直す。リットンとバンターが並んで立つ。


「リットン、挟み撃ちだ!」

「う、うん!」


 勢いよく駆け出すが、結果は単純だった。

 二人同時に木剣を弾かれ、がしゃんと土の上に転がる。


「いってぇぇ!」

「ぐえっ!」


 土まみれになりながら、リットンとバンターは目を合わせた。

 次の瞬間、二人とも大笑いしていた。


「なんだよこれ! 全然勝てねえ!」

「でも楽しい!」


 笑いながらまた立ち上がる。

 クーガンは呆れたようにため息をつきつつも、木剣を構え続けてくれる。


 縁側から見守っていたローヌが、くすっと笑った。


「まったく……あれじゃ遊んでるみたいね」

「遊び半分でもいい。痛みも経験だ」


 タチヌイが低く答える。


 その視線の先で、リットンは再び倒され、また立ち上がっていた。

 体中は痛いはずなのに、瞳は曇らない。


「うおおおっ!」

「おらぁ!」


 声を張り上げて木剣を振る。

 もちろん簡単に受け止められ、押し返される。

 だがリットンは、痛みと悔しさを笑顔に変えていた。


 夕暮れ時、稽古が終わるころには全身が泥と汗にまみれていた。

 腕はしびれ、肩は上がらない。

 それでもリットンは木剣を胸に抱きしめ、誇らしげに笑った。


「はぁ……っ、はぁ……! 俺、もっと強くなりたい!」


 悔しさと嬉しさが入り混じった声。

 バンターも隣でどろんこになりながら笑っていた。


「な、な! 痛いけど楽しいよな!」

「うん!」


 泥だらけの二人を見て、ローヌはため息をつきながらも柔らかく笑った。


「本当に……楽しそうね」


 その声に背中を押されるように、リットンの心はさらに燃えていった。

 痛くても、倒されても、仲間と一緒なら何度でも立ち上がれる。

 それこそが、自分の強さになるのだと――幼いながらに、確かに感じていた。


 その日もリットンは、荷物運びを任されていた。

 大きな麻袋の中身は穀物だろうか、持ち上げるだけで腰が抜けそうになる。

 汗を額に浮かべ、歯を食いしばりながら背に担ぐ。


「リットン、大丈夫か?」


 バンターが横で声をかける。


「だ、だいじょうぶ……! まだいける!」


 そう答えたが、腕は震え、足もふらついていた。

 袋の底が傾き、穀物がざらざらと音を立てる。


「おい、危ない!」


 クーガンの声と同時に、袋がずるりと滑りかけた。

 リットンは咄嗟に両手で押さえ込む。


「う、うわあっ!」


 必死に踏ん張るが、子どもの力ではどうにもならない。

 体ごと持っていかれそうになった瞬間、横からバンターが飛びついた。


「俺も押さえる!」

「お前ら、力を抜くな!」クーガンが駆け寄り、袋の上をがしりと支える。


 三人の力が合わさり、ようやく袋は安定を取り戻した。

 どさりと地面に置いたとき、三人とも膝をつき、肩で大きく息をした。


「……はぁ、はぁ……」

「お、おも……かった……!」

「でも、落ちなかったな」


 クーガンが短く言う。


 リットンは荒い息を吐きながら、顔を上げた。

 さっきまでただ怖かった袋が、今は違って見える。

 自分一人では到底無理だった。けれど、三人なら持ちこたえられた。


「……俺でも……役に立てたんだ」


 小さくつぶやいた声は、震えていたが確かだった。


 その様子を見ていたタチヌイが、太い腕を組んで近づいてきた。

 巨体の影が三人を覆い、低い声が落ちる。


「力じゃねえ。踏ん張りだ」


 その一言に、リットンははっとした。

 思い出したのは、薪割りのときにクーガンが言っていた言葉だ。


 ――腕で振るんじゃねえ。足で踏ん張って、腰で打ち下ろせ。


 あのときはよく分からなかったが、今なら分かる。

 「踏ん張る」というのは、腕の力じゃなくて、仲間と一緒に地面に立つこと。

 倒れそうになっても、誰かが横にいれば、持ちこたえられること。


 リットンは隣でぜいぜい息をしているクーガンを見た。

 いつも無口で厳しいけど――本当はずっと、自分を支えてくれていたんだ。


「……クーガン兄ちゃん」

「なんだ」

「ありがとう」


 突然の言葉に、クーガンは目を丸くした。

 バンターが「おお、リットンが素直に礼言った!」と笑い転げる。


「べ、別に……当たり前のことだ」

「でも、俺、分かったんだ。1人じゃ無理でも、みんなと一緒ならできるって」


 その言葉に、クーガンはほんの少しだけ目を細めた。


「……ならいい」


 それだけを残し、袋を担ぎ直して歩き出す。

 リットンはその背中を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 作業が終わり、夕暮れの風が吹き込む頃。

 リットンは泥だらけの服のまま、仲間たちと笑い合っていた。


「なー、今日の俺たち、めっちゃかっこよかったよな!」


 バンターが声を張る。


「落とす前に踏ん張れれば、もっとよかったがな」


 クーガンが淡々と返す。


「うるさいな! でもまあ、助かったよ」


 リットンが照れくさそうに笑う。


 三人の笑い声が裏庭に響いた。

 その様子を遠くから見ていたタチヌイは、にやりともせず黙って去っていく。


 リットンはその大きな背中を見送りながら、胸の中で強く思った。


「もっと強くなりたい。みんなの役に立てるように」


 その決意は、これまで以上に固く、優しいものになっていた。



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