第4話 ヘリア

「悪かった、すまぬ。お主がその手記のことで、それほど心を乱しているとは思わなんだ。本当に申し訳ない。」


 身体から絞り出すように、なんとか謝意の言葉を並べ立てると、女はバルトから視線を外した。持っていた手記を懐にしまうと、グッと腕を伸ばして洞窟の壁にもたれかかる。


 女が参っている場面に出くわすことなど、バルトは出会ってから一度も無かった。それほど行き詰っているのか。

 女の隣に腰を下ろしたバルトは、レイラが少女の介抱を再開している姿を眺めながら、探るように口を開いた。


「一年、この村にいたのだろう?この村には来たことが無かったはずだ。王国の南側は新鮮だと息巻いてな、少しは書くことも増えたのではないか?」

「いんや、全く。当てが外れたよ。一年前のわたしをぶん殴ってやりたいね、意味が無いことをするなって。」


 今はこの辺りは王国のものになっているんだ、なんて呟きながらも、女の目先は宙を漂っている。


「ほんと、嫌になる。どんだけ辺境に来ようが、所詮人は人なんだ。何も変わらないさ。」


 半ば自暴自棄になっているかのように、女は言葉を吐き捨てた。洞窟の天井を忌まわしそうに睨みながら、口を尖らせている。


「一行だ。たった一行しか進まなかった。君とのあれやこれやだって、まだ一頁くらいにはなっていたはずなのに。その一行も、昨日ようやく書けたんだからね。盗賊が来ていなければ、その一行も無かった。そういった意味では、彼らに感謝し…、そっか、そういう意味では、意味があったのか。」

「あの惨状を巻き起こした主犯格に、感謝とは。さすが、非にならないくらいの大悪党だな、お主は。」

「ひっど、結果的にわたしは人一人の命を悪党から守っているわけなんですけど?脅威から村を守ったことになるんじゃないかな?そんなわたしを大悪党だなんて、嫌になっちゃうなぁもう。」


 調子を取り戻したのか、身振り手振りを交えながら子供のように駄々を捏ねる女を、バルトは呆れ顔で眺めていた。


 お主が本気で助けようと思っていたのなら、そもそも盗賊の襲撃など起こる前に、あんな火災を引き起こす前に全員を助けることなど容易いのでは?

 当然のように浮かんだ疑問を、ぎゅっと胸の奥にしまいこんだ。この不思議な女に、一般的な道徳心や倫理観など備わっていないことなど、痛いほど身に染みていた。


 気を取り直して、バルトは話に出てきた少女の方へと目を向けた。

 レイラの処置は粗方終わった様子で、少女の身体は綺麗になっていた。持ってきていた衣服も決して華やかなものではなかったが、薄汚れた、ぼろ雑巾のよりは少しは見栄えも良く映っている。


「わ、さすがだね、レイラ。孤児院を運営しようとしているだけのことはある。子どもの手当なんてお手のものだね。」

「恐れ入ります、えっと、今はなんとお呼びすればよろしいですか?」


 女が少女の隣に腰を下ろしたので、レイラは立ち上がり一歩身を引いた。バルトと共に数歩二人から離れ、二人の様子を静かに見守っている。


「あー、わたしの名前か、この村で名乗っていた名前はあるにはあるけど…、」


 完全に意識が少女の方に向いている女を、バルトとレイラは黙って見つめていた。さして答えを期待していた訳でもない。呼び名も、あれば便利というだけでこれまでも名前で呼んでいないことは多々あった。


 ゆっくりと顔を少女に近づけると、女は耳元で囁くように、諭すように声を出した。

「そろそろ、起きよっか、ね。大丈夫、ここにはもう、君を襲うような人はいないよ。バルトとレイラはもう帰っちゃうから、お礼を言わないとね。」


 すると、少女の手がピクリと動いた。目を見開き、勢いよく上半身を起こす。その拍子に咳き込んでしまったのを、バルトが慌てて止めようとする。


「おいおい、そんなに無理させんでも。」

「いえ、あの、その。」


 バルトの心配をよそに、少女は正座し、こちらへ向かって頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。これ以上なんとお礼を言っていいのか分かりませんが、とにかく助けていただいたこと、感謝します。」


 レイラと思わず顔を見合わせてしまうほど、少女の物腰は柔らかだった。女から聞いていた、勝ち気で根性がある、といった総評は当てにはしていなかったが、

 傷もまだ癒えていない、あんな惨状を目の当たりにしたばかり。

 寝ている間苦しそうに何度も呟いていた、お父さんという言葉。

 齢十にも達していないであろう幼子の、そのあまりの礼儀正しさと落ち着きように、バルトは思わず面喰った。


 少女の頭を、女が優しく撫でる。その顔には、飼い犬をしつけた子どものような顔が映っていた

「よしよし、いい子だ。あぁ、そら、もう二人は帰っちゃうからねー。あ、報酬はまた後でバルトの家に置いとくから、ってことで。ねー、もう帰っちゃからねー、さよならしないとー。」


 煙たがっている雰囲気を前面にまき散らしながら、女は誰に言っているのか分からず適当に叫んでいる。

 バルトはレイラを伴い、洞窟を去ろうと歩いていく。元より、バルトの方も長居するつもりはない。あの女と別れることが出来るのならば、いの一番に退散したいくらいだ。


「あの、待ってください。」


 去っていく二人に、後ろから声がかかった。振り返った二人の目の前には、少女が経っている。

 金の髪が後ろの炎に照らされ、淡く輝いている。午後の陽ざしのような温かい陽気を漂わせながら、少女は真っすぐバルト達を見つめた。


「わたしは、わたしの名前はヘリア、ヘリア・イオルネと言います。お二人のような方と出会えて、わたしは幸福です。いつか、再び会えることを願っています。」


 別れの挨拶も丁寧に、落ち着き払った様子でヘリアはこなした。バルトとレイラはぎこちなく礼をした後、再び洞窟の外に足を向け、日の光の元へと出ていく。

 洞窟や、その上の丘が遠くに見えるようになったところで、バルトは嘆息入り混じった息を吐いた。


「俺が、人に感謝されて、また会いたいなんて言える日が来るなんてな。」

「お父さん。」

 レイラの目に、わずかに涙が浮かんでいた。そっと自分でそれを拭うと、レイラはちらりと後ろを振り返った。

「それにしても、お父さん。あの子、ヘリアは、あの方と一緒に過ごすんでしょうか?こう言っては何ですが、その、あの子が心配で…。」

「そうだな、俺も心配だ。ヘリアとあの女、両方がな。」


 あの女は、一度言ったことを曲げたことが無い。それと同じくらい、一人で過ごすことを好んできた。それがどういう風の吹き回しか、子どもが突然欲しいなどと言い出した時は思わず吹いてしまいそうになっていた。


 漠然とした、今までにない不安があの女に襲い掛かっていることは、何となくわかった。あの手記が、その原因なのだとしたら、それを解消するために。


 そして、ヘリアという少女。黄金に輝く髪を纏った、村娘にあるまじき作法を身につけている少女。

 あの女は出自など気にしないだろうが、まず間違いなく高貴の家の出であることを、バルトは経験則で感じ取っていた。


「ま、俺らが考えたところでどうしようもなかろうて。どの道、俺たちが預かりたい何て言っても殺されるだけだからな。なるようになる、そう思うしかないわな。」


 なるようになる、あの女と出会った時と同様に。バルトはそんな思いを抱き帰路を辿った。

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