海は広い

かもめ7440

第1話


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糸口はない―――くるりと宙返りしてしまうんだ、

虚空の彼方、栄光、追憶、

音のない海の風にさらわれる・・・・・・。


―――此の重さ。




十七歳の秋は、いつも同じ色をしていた。

教室の窓から見える空は、洗い晒された白いシーツのように薄く、

雲は綿を千切ったようにぽつりぽつりと浮かんでいる。

午後三時の陽光が、

机の上に置かれたシャープペンシルの金属部分を光らせ、

その反射が天井に小さな光の輪を作っている。

僕の視線は、いつも彼女の横顔を追っていた。


いつも淋しそうな横顔を見せる、

韻律の沈黙に突き出た突起のような、

彼女のことが僕には気にかかる。

諧謔心だろうか、薄幸そうな世の憐れみだろうか、

彼女がたまに見せる笑顔の向こうにさえ、

さながら花の奥に蜜でもしたたるような、

淋しさが潜んでいる。


わけのわからぬ過去と未来の間に挟まれ、

ぺしゃんこになって消化されてしまいそうな今現在に、

固有の顔は過去一般に還元されてしま―――う・・。

彼女の席は僕の斜め前、窓側から三番目。

いつも左手で頬杖をついて、右手でボールペンをくるくると回している。

そのボールペンは安物のプラスチック製で、

キャップの部分が少し欠けている。

彼女の制服のブラウスは他の女子より少し大きめで、

袖口が手首を隠すほど長い。

スカートの丈も膝より少し下で、靴下は白い三つ折りソックス。

足元の上履きは、かかとの部分が少し擦り減っている。


授業中、先生が黒板に向かって数式を書いている間、

彼女は教科書の端っこに小さな絵を描いていることがある。

馬鹿馬鹿しい授業より、

名無しの画家であることを選ぶ。

海の波のような曲線や、鳥のような形、

時には花びらのようなもの。

消しゴムで消しては、また描く。その繰り返し。


いつからだろう、

彼女によって古い自我が砕かれ、

目新しいその一瞬によって理想が産み落とされ、

驚くばかりに活き活きとした、

狂おしい喜びとなったのは・・・・・・。


それは、

彼女が描いた鳥の絵が、

風に乗って飛び立つように見えた瞬間だったかも知れない。

あるいは、

彼女が机に肘をついて、

窓の外の空を見上げた時、

その瞳の奥に、

誰にも知られない宇宙が広がっていたことに気づいた、

その瞬間だったかも知れない。



  *



思春期という季節は、まるで誰かに着せられた道化の衣装だ。

皺寄せられた布地の下で、まだ形にならない身体がぎこちなく震える。

花火の色を作る化学の名前を覚えているだろうか、

赤はストロンチウムの炎色反応が放つ深い臙脂、

青緑は銅化合物が吐く冷たい水晶のような発光、

黄色はナトリウムの厚い金属光、

黄緑はバリウムが残す曖昧な光芒。

―――花火師はそれらを秤にかけ、

乾いた粉末と結合剤を慎重に練り合わせ、

一瞬で空を裂く螺旋を描かせる。

僕らの前傾する期待もまた、同じような配剤の中で燃え上がり、

どこへ落ちるか分からない破片になって散る。


クラスメイトたちは皆、大人の真似事に夢中で、

灯台下暗し、まだまだ首をめぐらす予知もない。

寄せ集まった蛍の群れのように揺れている、

その休み時間ともなれば、スマートフォンを取り出して、

誰かの悪口を言ったり、

テレビで見た芸能人や、

ユーチューバーやティックトッカーの話をしたりしながら、

薄く濁った水槽の中で空気を吸おうとする魚、だ。

週末のカラオケの計画を立てたり。

廊下では、髪型を気にして鏡を覗き込む女子、

大丈夫、色気あるし可愛いからそこどいてくれ。

制服のズボンの裾を気にする男子。

みんな必死に背伸びをしている、

溜まり水に映った曇天の中で。


星はまだ何も語らない。天の原の匂いがするだけだ。

そこには、染みとおってゆくような熱がなかった。

急いで背伸びしようとするクラスメートの、

大人ぶった知ったかぶりが、家畜の息遣いのようにも思えてくる。

遠くに赤いポストが見えてくる、

芝居小屋のような小さな田舎の港町が見えてくる。


僕等の学校は海から歩いて十分ほどの丘の上にあった。

昭和四十年代に建てられた三階建ての校舎は、

外壁のペンキが所々剥がれ、

廊下の床は長年の使用で中央部分が少し窪んでいる。

階段の手すりは鉄製で、冬の朝は触ると冷たい。

校庭の片隅には桜の古木があり、

春になると薄紅色の花を咲かせるが、今の季節はすでに葉を落とし、

黒い枝を空に向けて伸ばしている。

放課後になると、多くの生徒は部活動に向かうか、

友達と連れ立って街の中心部へ遊びに行く。

僕にはそのどちらにも興味がなかった。

カッコつけてると言われるのも何か違っていたし、

一匹狼でいる、透明人間、ぼっち、というのも何か違っていた。

僕はその群れにも孤高にも属せない中間に縮こまって。

箱のような自分の内部に、卵がひとつ転がっていると信じていたい。

殻は見えず、ただ熱だけが内側から透けて見える。

誰にも触れられたくないし、触れられたら壊れるだろうという恐れと、

しかしいつか殻を破って出ねばならぬという焦燥が同居している。

そんな心の表面張力が、些細な言葉で破られるたびに、

僕の世界は小さく震える。


僕という箱の中に蹲って卵を抱き続けているものが、

あったのだろうと思いたい・・・・・・。


SNSの話題、漫画もアニメもドラマも、僕には下らない。

そこに砂から取り出されたる砂金のようなものがない。

もっと下らないのは剽軽者の綱渡り、下らなさの集合体。

容姿の優劣を競う言葉の連鎖。

あそこの女は胸が素晴らしいとか、あの腰のラインが素晴らしいとか、

あの容姿がどうだとかいう他愛ない言葉。

眼の卑猥さ、無気力な笑い声。

言葉が商品ラベリングのように無機質で、胸の奥がざらつく

養豚場と一切変わらない。


子供っぽい感傷かも知れない、

まったく別の時間が始まって欲しいのだ、

現在と呼べるものが忽然と消え失せて欲しいという乱暴な気持ちは、

中二病のそれとは少し違うが、似て非なるものだ。

スカしている、というのもやっぱり違う。

僕はきっと僕の周囲にイライラしていたのだろう。

たとえば男子更衣室での会話は、いつも同じパターン。

体育の後、汗をかいた体操服やTシャツを脱ぎながら、

誰かが女子の話を始める。

「昨日、駅前で○○ちゃんを見かけたけど、

私服だと全然違うな」

「あいつ、胸大きくない?」

「でも顔は△△の方が可愛いよ」

何だこの、ぶよぶよした水晶体から指突っ込んで、

脳味噌を手探りしたくなるような奴等は。

そんな会話が、ロッカーを開け閉めする金属音と一緒に響く。

僕はそういう話に加わることが出来なかった。

というより、したくなかった。

それらの言葉は、まるで商品を品定めするように聞こえて、

胸の奥に不快感を残した。


けれど、いつになってもそんな願望に、

救いの手を伸ばしに来てくれるようなものも、とんとなかった。




前に何処かで読んだけど、

性風俗関連産業の試算で、

A Vは年間約一千億円、

ソ ープランドは年間約九一〇〇億円、

デ リヘルは一兆八五〇〇億円。


―――ギャンブルと比べても見劣りしない、

すごい数字だと思う。


この数字を初めて知った時、僕は図書館の経済雑誌を読んでいた。

放課後の静かな埃舞う閲覧スペースで、蛍光灯の白い光の下、

活字が並ぶページを眺めながら、何とも言えない気持ちになった。

大人の世界には、こんなにも大きなお金が動く暗い部分があるのかと。

割れた硝子の断面みたいに、僕の心は鋭利だ。

暗い部分の経済が巨大な渦を作っているという事実は、

僕の中の割れた硝子の断面をさらに鋭くし、

世界には、僕がまだ触れられない巨大な動脈が走っている。

けれど、それは僕の生活圏とは別の海流で、

ただ潮の匂いを伝えてくるだけだ。

これ以上大きくは開けられないというほど、

大きく開けて口の裏側を見せたい。

けれど僕にはそんなこと、

―――関係ない。


吸うだけで吐くのを忘れたような、心というのを空っぽにして、

魂さえなくそうとするような、昼間の幽霊。

宙に浮かんだ梯子だ、

明るい水底の砂の斜面だ。

華奢な身体にシャボン玉のような羽根を持った、




厚い藻の塊や、におやかな霧のようなものがゆらめいている、

あの精神性の姿勢。

そうだ、心のドアをノックされた、

いつも何処かに淋しさを見せる彼女は美しい。

病的さ、物静かさ、ねえそれをアンニュイって言うんだろうか、

夢の中で何処か違う世界へでも冒険した後のようなんだ、

あの気怠さの中には砂漠で泳ぐ魚がいる。

生きている現実と、

生きるための現実が重なり合ったような邂逅の感覚。

レンブラントの暗闇にも、あるいは北欧の薄明にも似た光を、

彼女はいつも身にまとっている。

彼女のそういう美しさは、他の女子たちとは質が違っていた。

女っていうのは僕にはつまらない、

乗り込めば必ず何処かへ辿り着くバスや電車のように見えた。


クラスで一番人気の佐藤さんは、確かに整った顔立ちをしていて、

いつも明るく笑っている。

髪はショートボブで、前髪を綺麗に揃えている。

制服も常にアイロンがかかっていて、靴も毎日磨いている。

放課後は友達と一緒にファストフード店やカラオケに行き、

休日は映画を見に行ったり、ショッピングを楽しんだりしている。

押し寄せる羊の群れのような平凡とは違う、

IQ三〇のインスタグラム脳の健康法だ。

巨大な病棟の女王に立候補する気持ち悪い女だ。

顔を見た瞬間にもうつまらないなって思う、

胸や、脚なんかどうだっていい、

ほくろや、笑窪の方がずっと上等だ。

以下同文。

きわめつけの僕の言葉は、

どうせ引ん剥けば同じ物がついてんだろ。



でも彼女は違った。

クラスの中でどの女の子が一番可愛いかはわかる、

身を切るような北風さ、頭の悪くなりそうなことは本能寺の変。

動物性はラードだけでいい。

けれども、美しさという部門では彼女が断トツだ。

何て言うんだろう、

苔生した青い森の高い木の下の影のようなんだ。

僕はその心の奥の在処がいつも気になって仕方ない。

彼女の美しさは、まるで古い絵画の中から抜け出してきたような、

どこか現実離れした印象を与える。

色白の肌は陶磁器のように滑らかで、長い睫毛が影を作っている。

唇は薄く、いつも少し開いている。

髪は肩より少し長く、自然なウェーブがかかっている。

整髪料などは使っていないようで、

風に吹かれるとふわりと舞い上がる。

でもそんなの強調すればするほど馬鹿馬鹿しくなる、

五十歩百歩だ、

目隠しすれば、どっちもそれほど変わらない。

精神の黎明のようなものが姿を現すような代物でなくちゃいけない。

そうさ、何より印象的なのは、彼女の瞳。

深い茶色で、まるで秋の夕暮れの湖のように静かで、

その奥に何か言葉にならない物語が眠っているような気がした。


彼女の横顔は世界地図の一片のように静かで、

北アフリカの市場の埃、アマゾンの雨上がり、北海の風、

どこかの路地裏の石畳の冷たさ、

あらゆる遠い場所の記憶が彼女の中に折り重なっている。


―――などという、詩的空想が正しいとはよもや思わない。

ポエムだ、美しい言葉は時に現実認識を歪めた恍惚の人。


ただ、胸をときめかせる相手が素晴らしい人だと思うぐらいに、

まだ子供の僕には・・・・・・。



  *



僕が初めて彼女と口をきいたのは、

梅雨が終わったあたりだった。

七月の半ば、長く湿った季節がようやく身体を離れて、

街は夏の光に包まれていた。

学校からの帰り道、僕は図書館に寄って本を返そうと思っていた。

カフカの『変身』と、太宰治の『斜陽』

どちらも夏休みの読書感想文の候補として借りたものだったが、

結局どちらも気分が重くなるばかりで、感想文を書く気になれなかった。


学校は海が近い。

それで、何となく足が海へ向く。

坂道を下っていくと、潮の匂いが鼻先をくすぐった。

海風は内陸の風とは違って、塩辛く、少し生臭い。

でもその匂いには、何か懐かしいものがあった。

子供の頃、父と並んで釣り糸を垂らした日のことがふっと蘇る。

細い竿先の震え、凍った手の感触、ビニールバケツに残る魚のぬめり。

あの時の潮の匂いと、今の匂いが繋がる瞬間が、

僕の胸をざわつかせる。


海岸沿いの道路に出ると、ガードレールが設置されていて、

その向こうは十メートルほどの崖になっている。

崖の下は小さな砂浜で、夏になると地元の子供達が泳いでいる。

今の時期はまだ人影はまばらで、たまに散歩をする老人や、

犬を連れた家族が通り過ぎるくらい。

彼女はもう夜も遅いというのに、

ガードレールの向こうにある崖に三角座りして海を眺めていた。

時刻は夜の七時を過ぎていた。

夏とはいえ、もう陽は西の空に傾いて、

オレンジ色の光を海面に反射させている。

街灯がまだ点いていない時間帯で、

空は深い藍色から紺色へと変わりつつあった。

そのナイーブな姿が大人に見えた。

僕は一目見た時から、

その青い電球の冬の色のような薄い背中に、眼を離せなかった。


彼女は制服のブラウスを着ていたが、上着は脱いでいて、

半袖の白いシャツ一枚だった。

スカートの裾が風に少し揺れている。

靴は学校指定の黒いローファーで、

靴下は膝下まである白いハイソックス。

髪は後ろで一つに結んでいて、うなじの部分に短い毛が数本、

風にひらひらと舞っていた。

僕は少し離れた場所に立って、しばらく彼女を見つめていた。

彼女は暗い水面にゆっくり漂いながら消えてゆく、

波紋のような情緒として、僕の中の何かを刺激した。

女はかくこうあらねばならぬと思ったことは一度もない。

ただの一度もない。

でも彼女からは祭典の装いのように、

理想を引き裂きながら遠ざかってなお、

感覚を突き破る矢のようなものがあった。

僕はそんな自分に戸惑いながらも、

声をかけるべきかどうかもまた迷っていた。

一人でいたいのかもしれない。

でも、こんな時間に一人で崖の縁に座っているのは危険に見えた。

もしクラスで一番人気の佐藤さんがそうしていたら、

むしろ蹴落としてやろうかと思ったかも知れない、

ポーズじゃない、僕はそれを見破れる。

だからこの心配は率直で、ありのままの、その意味なのだ。

自動販売機でジュースを買って、

「飲む?」と半ばナンパのような口実で、

近寄っていったのはそういうわけ。


自動販売機は道路を挟んだ向こう側にある。

コカ・コーラ、ファンタオレンジ、カルピス、緑茶、コーヒー。

LEDの小さな表示がかすかに点滅している。

コイン投入口の縁には古いコインの擦れた痕跡が残り、

押しボタンは何千何万という指の跡で光っている。

僕は財布から百円玉を数枚取り出して、

ためらいながら二本のカルピスを選んだ。

カルピスは乳酸菌飲料だと図書館で読んだことがある。

牛乳が乳酸発酵によって柔らかな酸味を帯び、

それが砂糖の甘さで包まれる。

子供の頃の夏祭りの屋台の味が舌の奥に残る飲み物だ。

缶を押し出すリリース機構が小さく振動して、

缶が取り出し口に滑り出すと、

冷えたアルミの感触が指先に伝わった。

表面には結露が少し落ち、

夕方の湿度を反映して銀の滴が滲んでいる。



「邪魔するね」


声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

その瞬間、僕の心臓が早鐘のように鳴った。

間近で見る彼女の顔は、

学校で見るよりもさらに美しく、そして哀しく見えた。


「飲み物、いかがですか?」


後で絶対に後悔する台詞だなと思いながら、

僕はカルピスの缶を差し出した。

僕は受け取りを拒否されることも視野に入れていたが、

彼女は少し驚いたような表情を見せたものの、やがて小さく頷いた。


「ありがとう」


初めて聞く彼女の声は、思っていたよりも低く、

少しかすれていた。

まるで長い間、誰とも話していなかったような・・・・・・。


神社で打つ柏手が神様を呼びだす合図のように、鳥の鳴き声が洩れた、

陽はまだ一向に沈もうとしなかった。

足音のように波紋が起こり、風が起こると小波が始まる。

向こう岸の海面には小さな漁船が幾艘か浮かび、

そのエンジン音が遠くで低くうねる。

鴎が軽やかに旋回し、波が崖下の岩を撫でるたびに細かい水煙が立つ。

風は一瞬、港町の匂いを運んだ。

焼けた魚の香り、古い網の油の匂い、

そして防波堤に貼られたステッカーの糊の匂い。

そんな生活の断片が、僕等の会話の縁に散りばめられている。


鴎が何羽か、船の周りを飛び回っている。

きっと魚を狙っているのだろう。

鴎がまだ激しい眩暈地を飛んでいて、

素晴らしく幸福そうな展望を手に入れる。

船が瞳を失った眼のように動いていて、

幼い時の回顧と新しい生活の想像が同時に起こる。

牧歌的であるけれど羞恥を誘うように、強い風が吹いていた。

しかし白い猫は、会話にそれほど応じてはくれなかった。


「きれいな夕陽だね」


僕は隣に座って、海を見ながら話しかけた。

彼女は小さく頷いただけで、カルピスの缶を両手で包むように持っていた。

缶は冷たいはずだが、彼女の手は震えているように見えた。


「学校、一緒だよね。二年B組の」

「知ってるわ」


短い返事だった。

けれどそれが黄金の糸のようにたなびいている気がした。

その声には、拒絶の響きはなかった。

ただ、とても疲れているような印象を受けた。

しばらくの間、僕等は黙っていた。

階段の上から、紙飛行機を飛ばして、

それを眺めているような時間だった。

波の音と、遠くから聞こえる車の音、

時々鳴く鴎の声。

そんな中で、彼女がゆっくりとカルピスを飲んでいるのが分かった。

僕はどうして男が女に贈り物をしたがるのかを、

何となく察し、そして悟り、最後に微笑んだ。


「よく、ここに来るの?」

「・・・・・・たまに」

「僕も時々、散歩で通るよ。海が好きで」

「そう」


アフォリズムのような、ポーカーフェイスを伴った、

愛想のない、簡潔な、感性にくる言葉。

けれど、どうしてだろう、僕はその言葉一つ一つに痺れた。

会話が続かないのを喜ぶって変なものだ。

でも、彼女がすぐに立ち去ろうとしないのを見て、僕は少し安心した。

陽がだんだん西に傾いて、空の色が変わり始めた。

オレンジから赤へ、そして紫がかった色へ。

海面にその色が映って、まるで大きな絵の具のパレットのようだった。

それでも空には少しずつ蒼白さが増し、

世界の終わりのようなほんの一秒間を間延びさせてゆく。


「帰るわ」


突然、彼女が立ち上がった。

スカートの後ろに付いた砂を払い、缶を僕に向けて差し出した。


「ありがとう」


シャッターが、突然死んだ。

―――慌てて立ちあがった。


「バスまで送ろうか」


僕は慌てて立ち上がって、彼女の後を追った。


「ありがとう、でも、あたし、歩いて帰る」


彼女は振り返らずに答えた。

その後ろ姿は、まるで一枚の絵のように美しく、

同時に無限に遠い存在のように感じられた。

僕はない頭を絞って、さらなる口実を作ろうとした。

ゴキブリのように瞬間的に高まるIQ。


「もしかして、バスの定期なくしたんじゃない?」


我ながら苦しい理由だった。でも他に思いつかなかった。


「あるわよ、ほら、定期」


彼女はスカートのポケットから、

薄い紙のバス定期券を取り出して見せた。

少し折れ曲がっていて、端の部分が擦り切れている。

路線名の活字は少し薄れて、頻繁に使われていることを示していた。

彼女の手は、僕が想像したよりも確かで、でもどこか儚げだった。

僕はその定期券の皺に、自分にはない日常の重みを見た。

ミステリアスな、彼女。

どんな会話をしても、針の穴に糸を通し損ねたような気持ちになる。

彼女は淋しそうな表情をする。

僕は頭が真っ白になりそうになるんだ、

ふわふわと身体が浮いてしまう。

それは億劫なほどに始末におえない、魅了だと思う。


「海を眺めていたかったから、眺めていただけ。

歩いて帰りたいだけよ」


そんな彼女の隣を僕は歩いた。

彼女の歩くペースはゆっくりだった。

急いでいるようには見えない。

むしろ、できるだけ時間をかけて帰りたいような、

そんな印象を受けた。

彼女は一瞬微笑んだような気がする。

たちまち互いに混じり合ってしまう、油と水。

木々が揺れている。互いに身を寄せ、

何か言葉を交わしているみたいに、種子が落ち、葉が落ちる。

道の両側には街路樹が植えられていて、

プラタナスの大きな葉が風に揺れていた。

時々、枯れた葉が一枚二枚と舞い落ちてくる。

街灯がまばらに設置されていて、

その下を通り過ぎる時だけ、二人の影が地面に長く伸び、

道の表面にインクで描かれたように浮かび上がる。

通りでは夕飯の支度をする匂いが漏れ、

誰かの窓からは古いラジオのジャズがかすかに聴こえる。

舗道を踏む靴の音、鞄の金具がかすかに揺れる音、

遠くで閉まるシャッターの音、

その一つ一つが、二人の静かな行進のリズムになった。

鏡の中の人物が消えて、

それがあぶり出しのように闇の中に浮かび上がる。


古い木造の家の格子窓には障子紙の端が少し裂けていて、

新しいコンクリートのアパートのベランダには洗濯物が四角く揺れている。

こうした古さと新しさの混在は、この港町の歴史。

遠くから運ばれた素材、海上交易で流通した色合い、

戦後に建てられた集合住宅の冷たいライン・・・・・・。


彼女の家はここから随分遠い。

僕等は暮れかかった道をいつまでも歩いた。

一番遠い星まで届く溜息のように、

チョコレートの色刷り絵のような景色の中を、

僕等は一言も話さなかった。

歩きながら、僕は彼女の横顔をちらちらと盗み見ていた。

街灯の光が当たる瞬間、その整った鼻筋や、

長い睫毛の影がくっきりと浮かび上がる。

でも彼女は終始、前を向いて歩いていた。

まるで何か大切なことを考えているような、そんな表情だった。

三十分ほど歩いて、住宅街に入った。

古い木造の家と、新しいアパートが混在している地域だった。

彼女は小さな角の家の前で立ち止まった。


「ここ」


短くそう言って、彼女は僕の方を見た。

その瞳に、微かに感謝の気持ちが込められているような気がした。


「また、明日」


僕がそう言うと、彼女は小さく頷いて、家の中に消えていった。

でも、その時から、僕の心はなお一層惹かれた。

そのまま何処か遠い空の果てまでゆくように、

砂の上を自転車で走るような焦り。

犬の毛の生え変わりが近づき、台風が来る。

そうした細かな現象が彼女の影と結びついて、

僕の日常は少し世界を横断したようになった。


   

―――



  *


時折交わされる彼女の瞳の中に、

親しみがこもり始めたと思うようになったのは。

それから二週間ほど経った頃だった。

僕は毎日のように、放課後に海辺を訪れるようになった。

最初の数日は彼女の姿を見つけることが出来なかったが、

(むしろ意図的に避けられていたという可能性もあったが、)

四日目の夕方、また同じ場所に彼女が座っているのを見つけた。

今度は迷わずに声をかけた。


「こんにちは」


彼女は振り返って、僕を見た。

その表情に、微かに安堵のようなものが浮かんだような気がした。


「また来たのね」

「散歩のコースだからね」


嘘だった。僕の家からここまでは、

わざわざ遠回りをしなければ来れない場所だった。

でも彼女はそれを咎めるようなことは言わなかった。

それは認識にすぎず、

一歩間違えば、罵詈雑言の癇癪玉になるかも知れないのに、

そうだ、人間同士の通路、社会的距離、公衆的距離と言ったって、

自分の都合で開いたり閉じたりする、扉。

意図を透かしてみれば、

悲しみの為に構築された城のようにだって見えなくはない。

それでも一際明るくて暗い日暮れ前の光線が射しこむ。

彼女を想う僕の心がそう勝手に受け止めていた・・・・・・。


少しずつ、彼女との時間が増えていった。

最初は十分程度だった会話が、三十分、一時間と長くなっていく。

内容は他愛もないことが多かった。

学校のこと、天気のこと、海の向こうに見える船のこと。

でも、彼女が自分のことを話すことは、ほとんどなかった。

僕が見る限り、学校での彼女の生活には、一切の変化はなく、

安全や調和の影は屯していた。

そこには必然的に一方の捨象があり、

それは壁の割れ目の地図みたいに思えた。

そんな一挙手一投足に、僕の神経は耐え難いほど緊張した。

学校では、僕は彼女との関係を隠そうとしていた。

というより、関係と呼べるほどのものがあるかどうかも分からなかった。

放課後に少し話をするだけ。それ以上でも、それ以下でもない。

でも、同級生たちの観察眼は鋭かった。


「最近、彼女と話してない?」


休み時間に、隣の席の田中が小声で聞いてきた。

田中は中学の時からの友達で、僕のことをよく知っている。


「別に、普通に」


僕は曖昧に答えた。

のぼせ上がってる、有頂天だ、というのも変だったし。


「あいつ、ちょっと変わってるよな」


田中はそう言って、彼女の方をちらりと見た。

彼女はいつものように、窓際の席で本を読んでいた。


「変わってるって、どういう意味?」

「なんか、近寄りがたいっていうか。

クラスの女子も、あんまり彼女とは話さないし」


確かに、僕が見る限り、彼女と親しく話している女子はいなかった。

休み時間になっても、一人で本を読んでいることが多い。

昼食も一人で食べている。


「でも、頭いいよな。国語の授業の時の発表とか、すごくよく考えてるし」

「うん、そうだな」


それは本当だった。

彼女の授業中の発言は、いつも的確で、深い洞察に満ちていた。

でも、それが逆に他の生徒たちとの距離を作っているような気もした。

とんちんかんなことを繰り返すにつれて、僕が彼女のことを好きだという噂は、

友達の耳にも入るようになったらしい。

陰湿な会話を始めるお伽噺みたいなものだ。

ある日の放課後、僕が教室で荷物をまとめていると、

親友の佐々木が近づいてきた。

佐々木とは小学校からの付き合いで、

お互いの家を行き来するほど親しかった。


「お前、あの女と付き合ってるのか」


佐々木の声は低く、周りに聞こえないように配慮されていた。

けれど、神経性の刺は隠しきれるものではない。


「付き合ってはいない」


僕は正直に答えた。

ならやめておけ、と鸚鵡返しに言った。


「待てよ、なんだよその言い方。

お前が決めることじゃないだろ」


僕の声が少し大きくなった。

佐々木は慌てて周りを見回してから、僕の腕を掴んだ。


「外で話そう」


校舎の裏、誰もいない場所で、佐々木は口を開いた。


「あいつは男を知っている」


何か言い返そうとしたが、舌の付け根に力が入るばかりで、

まるで言葉にならなかった。

言葉は細かく、鋭く、芒の裂け葉のようになってゆく。

蛇口の水を締めたあと、重くすぼまりながら、白い雫をふしだらに垂らす。


「そしていまのおばさんの家の旦那が、

あいつに手を出しているっていうもっぱらの噂だ」


その瞬間、僕の頭の中で何かが切れた。

その、そらぞらしい言い方。

レッテルやラベルをつけて差別をする言い方。

カッときた僕は、頬を殴っていた。

殴ったな、とは言わなかった。

佐々木は好戦的ではないが、無抵抗主義ではない。

佐々木は頬を押さえて、僕を見つめていた。

その瞳に怒りはなく、むしろ心配そうな表情があった。


「どうしてそんな汚い話をするんだ!」


僕の声は震えていた。

殴られるとわかっていて、言ったのは察しがつく。

むしろ、怒らせることで気持ちを推しはかろうとしていた。

そんな、瞳をしていた。

本当にどうでもよかったらこんな言い方はしないし、

わざわざ人目を避けて校舎裏で話をしたりはしない。

佐々木の心配はわかりながら、

叩き潰された紙風船のような感じ。

彼は僕の幼馴染であり、親友だった。


「お前が傷つくにしても、傷が小さく済むように、と思ってな。

別にお前が誰を好きになろうが、それがどんな女だろうが関係ない、

けれど、聞こえてくる噂もそうだが、

肝心の彼女についての情報は一切分からない」


当たり前だ。

彼女に友達らしい友達はいないのだから。


「俺は一筋縄ではいかない女だと思う。

いい悪いとか、美人だとか不細工だと言っているんじゃない、

これは一筋縄ではいかない女だと言っているんだ。

そのことで絶対に後悔するなよ」


佐々木の言葉は、静かだった。

アドバイスとしては正しかった。

その夜、僕は佐々木の家を訪れた。

彼のおふくろさんが作った肉まんを一緒に食べながら、

僕等はあっという間に和解した。

怒りなどという感情はとうに磨滅し去っていて、

今は少しの痕跡さえ見られない。

喧嘩など、そもそもしていなかった。

けれど、ちょっとぎこちないものがあって、

それをオリジナルカクテルと称した、

缶コーヒーとコーラと青汁の混ぜ物で癒した。


心配してくれたんだよな、すまなかったな、ありがとう、

という言葉が照れくさくて言えない僕のような人間は、

そうすることしか出来なかった。

頑固さ、不器用さ―――は、未熟であるとは知りながら、

その弱い感情が友情のようなものだと思っていた。

佐々木の部屋は六畳ほどの和室で、

古い学習机と本棚が置かれていた。

壁には中学時代のサッカー部の集合写真が貼られている。

畳の上に座布団を敷いて、僕等は向かい合って座った。

そしてここぞとばかりに秘蔵のエロ本を見せ合い、

おふくろさんの夜食をいただきながら、一緒に映画を観た。

友情というのはいつもエロと食事と映画と相場は決まっている。

映画を観ながら、お前好きな奴いんのかよ、みたいなことを聞いた。

その夜見た映画は『スタンド・バイ・ミー』だった。

佐々木が借りてきたDVDで、もう何度も見た作品だったが、

何故かその夜は特別に心に響いた。

四人の少年が線路を歩いて死体を探しに行く物語。

友情と、成長と、失われていくものたちの話。

『マイ・フレンド・フォーエバー』も悪くない映画だが、

高校生ともなればこっぱずかしくてチョイスできない。

どちらがいいというのでもない。

映画というのは年齢や立場や状況というのも反映される。


本当の友達というのは家族みたいなものだ。

僕もやっぱり逆の立場だったら同じことをしたかも知れない。

映画が終わった後、佐々木の母親が夜食を持ってきてくれた。

とりあえず高校生の息子なんていう生き物、

食欲のある化け物ないしは大魔神と思っていて、

これでもかと胃袋に攻撃を仕掛けてくる。

温かいおうどんと、手作りのおにぎり。

佐々木の母親は、いつも僕にも優しくしてくれた。


「勉強、大変でしょう。たまにはゆっくりしなさい」


そう言って、微笑んでくれる。


「彼女のこと、本当に好きなのか?」


おうどんとおにぎりを胃袋へ入れた後、佐々木が改めて聞いてきた。

今度は非難の調子ではなく、

純粋に友達として心配してくれているのが分かった。


「分からない。でも、放っておけないんだ」

「何で?」

「何でって言われても―――何か、

一人で抱え込んでいるような気がして」


佐々木は黙って頷いた。

そして、しばらく考え込んでから口を開いた。


「お前がそう思うなら、俺は何も言わない。

でも、気をつけろよ。噂が本当かどうかは分からないけど、

火のないところに煙は立たない。

もし本当にそうなら俺やお前ごときじゃ、

よっぽど覚悟決めないと厳しい相手だ」

「クラスで一番人気の佐藤さんなら?」

「あんなのイケメンとか、スポーツ万能超人じゃないと無理だろ」

「変なところは陰キャ思想いれてくんのな」

「けど、したいようにしたらいいさ。

俺がイルカを好きになって一緒にショーに出たいって言ったら?」

「見に行くよ、最前席でビーチボールを投げる」



―――噂さ、と僕は思った。

噂なんて、根も葉もないものが多い。

けれどもその波瀾の予告は僕の胸を圧迫した、

蛸のように貪婪な無数の吸盤が黝く声を潜めていた。

それでも仰け反って大人を見上げる子供のように、

周囲が、少しずつ、遊園地から都会へと変わってゆく。


  *



僕はやっぱり彼女がいた場所へと放課後、足を向けていた。

十月に入って、海風がだんだん冷たくなってきた。

夕方の六時を過ぎると、もう薄暗くなり始める。

街灯がちらほらと点き始める時間に、僕は海辺の崖に向かった。

ガードレールの向こうの崖に、彼女は座っていた。

今日は薄手のカーディガンを羽織っていて、

膝の上に鞄を抱えるようにして座っている。

スカートを抑えたり、前髪に手をあてたりしていた。

全身の筋肉の一つ一つが強張るのを感じながら、

神秘的な雰囲気をまき散らしながら、

生殖の幻覚が、動物のように蠢き、彼女を狙っていた。


―――そんなこと、本当に関係ない、

と自分に向かって言った。

その端正な言葉にどれほどの力があるのかなど、

ちゃんとわかりながら・・・・・・。


「寒くない?」


僕が声をかけると、彼女は振り返った。

風に嬲られて夜目にあやしい身振りをつくす、

その頬が少し赤くなっているのが見えた。

風のせいかも知れない、寒さのせいかも知れない。


でも心の中では、薄幸そうな彼女、

自分を粗末にする破滅的な彼女・・・・・・。


他人の数奇な運命に野次馬的な好奇心をそそられたりはしない、

でも、認めよう、濡れた靴下のような、

みじめったらしい、じゅくじゅくした、生理的な感覚を。


「大丈夫」


短い返事だったが、その声に親しみが込められているのを感じた。

僕は安心して、彼女の隣に座った。

秋が終わった海の風は冷たかったけれど、いつまでも僕たちは座っていた。

でもそういう大人にも子供にもなりきれない痛みだけが、

自分の動作や、生き方や考え方を確かめさせてくれる。

海の向こうに見える小さな島に、灯台の光が点滅していた。

規則正しく、三秒に一度、白い光が闇を切り裂く。

その光が海面に反射して、長い光の道を作っている。

それは指のように形の悪い黒い影を、好きになるようなことかも知れない。

欺こうとするもの、騙そうとするものへの懐疑、

どれほどの言葉を費やしても現実は変えられない。


「あなた、毎日ここに来るのね」


彼女は初めて、自分から話しかけてきた。


「何か、落ち着くんだよ」

「私もよ」


彼女の横顔を見ると、いつもの憂いを帯びた表情の奥に、

何か違うものがあるような気がした。

安堵、と言うのだろうか。

共犯者的な。

それとも、諦めのようなものだろうか。

似たもの同士、同じ穴のむじな、ということだろう、か。

人を好きになるという人間的な行為の中で、

条理に合わぬ衝動が僕を支配している。

全身の毛穴が一斉に開いたような緊張を感じた。


「学校、どう?」


僕が聞くと、彼女は少し考えてから答えた。


「別に。つまらないけど」

「友達は?」

「いない」


きっぱりとした口調だった。

でも、それを悲しんでいるようには見えなかった。

むしろ、当然のことのように受け止めているような。


「何故?」

「私、変わってるから」


彼女は小さく笑った。でもその笑みには、自嘲的な響きがあった。

でも親友からの言葉ははっきりと僕に自覚させた、

イルカショーへはホットドッグとコーラだ。

多分、佐々木の言っていることは間違っていない、正しい。

彼女から漂うのは、大人びたものだが、

同時に手に負えない類の成熟がある。

けれど、あのことでよかったことが一つだけある。

その時から彼女への気持ちはより強いものになった、ということだ。

佐々木の忠告は、逆に僕の心を彼女に向かわせた。

何か秘密を抱えているのかも知れない。

でもそれが何であろうと、僕には関係なかった。

いや、むしろその秘密こそが、

彼女をより魅力的に見せているような気がした。



僕たちはいつもその場所で出会った。

自分が遠く、小さく、はるかなものに感じるための、

そういう訓練でもしているような場所で、身を逸らせては、

僕は彼女を眼球の裏や、頭蓋骨の裏、咽喉の奥へと焼き付けようとした。

十月の終わり、台風が接近していた日があった。

空は低く垂れ込めた雲に覆われ、海は普段よりもずっと荒れていた。

白い泡を立てて、波が崖にぶつかる音が激しく響いている。

鳥が啄み、魚は鰓や鰭をぶつけ、

風は―――盲目のナイフで、身体の奥をすりぬけてゆく・・。


その日も彼女は崖に座っていた。でも、いつもより早い時間だった。

まだ午後四時頃で、空はどんよりと曇っているものの、

明るさは残っていた。


「また来てたの?」


僕が声をかけると、彼女はいつもより長い時間、僕を見つめていた。

彼女は魔術師なんだ、沈黙に呪文をかけてしまう。


「あなたもね」

「君はここが好きなんだね」


間抜けな発言というのは、いつも言い終わったあと、後悔する。

開いたマンホールの隙間から、鼠が飛び出してくるようなものだ。

一体これまで、彼女の何を見てきたのかと、問い詰められるのに等しい。


―――ただ、自分にとって、

彼女がいるこの場所が好きだったから・・・。


「好きじゃないわ、他に行くところがないだけ」


その時の彼女の横顔は、砂の上の材木みたいに、

あるいは胃袋が死を消化するように、とても物悲しく見えた。

風が強くなって、彼女の髪が激しく舞っていた。

カーディガンの裾もぱたぱたと音を立てている。

こんな天気の日に、何故ここにいるのだろう。

僕は左右に揺れ、蜘蛛の巣を作ったような嫌な気分がした。

それでも彼女は、いつもよりなお、美しく見えた。

水分を失った岩肌の貝のようであっても、

それゆえに凛としたものが残った。


沈黙で喋っているこの広い海に、

彼女は匂いのいい花をつけ、月を愛撫し、

前髪を揺らしながら美しく俯腑いて―――いる・・。


「家に帰らなくて大丈夫?」


僕が心配そうに聞くと、彼女は首を横に振った。


「別に、誰も待ってないから」


その言葉に、何か深い意味があるような気がした。

でも、それ以上聞くことは出来なかった。

その強い印象は僕の餓えのようなもので、

感覚よりも肉体の方に先に現れてきた。


  *


十一月に入って、もう海風は本格的に冷たくなっていた。

でも、僕等は相変わらず崖の上で時を過ごしていた。


「ねえあなたにとってあたしは何?

どういう存在?」


ある日、突然彼女がそんなことを聞いてきた。

それは―――嘘偽りない、告白を意味していた。

これまで告白同前のことをしておきながら、

周囲にこれでもかとアピールしておきながら、それでも、逡巡した。

夕暮れの空は、薄紫とオレンジが混ざり合った色をしていた。

海の向こうに小さく見える島の影が、

まるで水墨画のように淡く霞んでいる。

濃藍の水晶の波。

鴎が数羽、風に煽られながらも必死に飛んでいた。

世界が一斉に立ち上がったように感じられた、

鳥が無造作に枝に止まって剥製になる。化石になる、

長い長い旅を終える。僕は―――僕は・・・。


彼女の瞳が、僕をじっと見つめていた。

海風が髪を乱すのも構わず、真っ直ぐにこちらを射抜くような眼差しだった。

その瞳の奥に、何か切実なものが宿っているのが分かった。

期待と、不安と、諦めのような感情が、複雑に絡み合っている。

彼女の瞳が、暗い宝石のように僕をじっと捕らえていた。

僕の心臓は胸郭を破ろうとするほどに打ち、手のひらには汗がにじんだ。

この瞬間を、僕は僕はどれほど待ち望んでいただろう。

けれど、いざそれが現実となると、

言葉は喉の奥で鉛のように重く、出てこなかった。



「突然そう言われると困るけど、

僕の好きな人、

これからも―――いい友達でありたい」




―――自分自身を他の責任、他の態度に、

置き換えようとする卑怯な曖昧な言葉。

それは蜥蜴のように気味悪くへばりついた、僕の劣等感。

何故そんな言葉を口にしてしまったのか、

自分でも分からなかった。

その場面を思い焦がれていたはず、

いつかは正直に口しなければならないと心に決めていたはず。

何度もリハーサルをし、準備を進めてきたはず。

けど、肝心の本番で僕は本心を避けた。

本当は好きだと言いたかった。

君を愛していると言いたかった。

もう何も隠す必要はない。

誤魔化す必要はないんだ。

でも、佐々木の言葉が頭をよぎり、

彼女の抱えているかもしれない秘密のことが頭をよぎり、

気付けば最も卑怯で無責任な答えを選んでいた。




それまで見たことがないほど、彼女の表情が激変した。

瞳に怒りが宿り、頬が紅潮し、唇が小刻みに震えている。


「あなた、あたしのこと知らないから、

そう言うのよ」


彼女の声は、いつもの静かなトーンとはまったく違っていた。

僕は彼女の素顔に触れていた。

感情を抑えきれないような、切羽詰まったような響きがそこにあった。

僕は彼女の素顔、抑えきれない感情の噴出に触れてしまった。


「知ってるさ」


でもその一瞬、心が汚れた。空虚だった。無知だった。

―――知っていても、知らないふりをしていても、

そんなこと、子供の僕には・・・・・・。



彼女は薄笑いを浮かべていた。

オレンジの切り口のようにも見えた。

嘘の、生々しい実用性に耐えられないがために、形の整った、

そういう見世物の芯が必要なのだ。

星が消え、天が裂けようとしているように感じられる僕に、

暗き炎のごとき無表情な言葉というのを聞いた。





「火事で両親が死んでおばさんに引き取られて―――」


僕は慌てて首を横に振った。

そんな悲しい話は聞きたくなかった。でも彼女は構わず続けた。

彼女はおそらくいままでで一番強い調子の声を出した。

学校でもそんな声を出すところなんて、

一度もなかったかも知れない。それはある程度、自分で出したり、

引っこめたりできる性質のものだけれど、

彼女に関して、それはまったく当てはまらなかった。

導火線に火が点き、爆弾まで届いたのだ。


「―――でも、そんなの嘘よ」


その言葉は、僕の視界を狭めた。

親友の言葉が―――甦ってくる、オーバーラップしてくる。

それは投げ網のように、僕の細胞に襲い掛かった。

毒のある花粉のように悪意の微粒子が身体中が散乱する。


「あたしの母さんは男を作って家を出たの、

それでノイローゼになった父さんは、家に火をつけて、

小さなあたしと心中しようとしたの、父さんは死んだ、

葬式にも母さんは帰ってこなかった、本当よ」


彼女の声は震えていた。

でも、その中に嘘はないように思えた。

あまりにも生々しく、あまりにも具体的で、

作り話とは思えない迫力があった。

嘘ではないのだろう、言葉のはしばしに感情的な動きがある。

それを努めて抑え込んで話しているという印象があった。

そこにはきっと嘘も虚飾もない。

虫の音の雨のように、地の底からわきたつ存在感。


「私は三歳だった。火事の時のことは覚えてない。

でも、その後のことは覚えてる。

おばさんの家に連れて行かれて、そこで・・・・・・」


彼女は言葉を切った。そして、深く息を吸ってから、

再び口を開いた。


「だからおじさんが言うの、お前は世界から必要とされていない人間なんだ、

母親はお前よりも男のことを考え、

父親はお前よりも自分のことを考えた、

そういうお前は、男に抱かれるために、

生まれているようなものだ、お前は娼婦だって——」





う?



僕の奥歯は噛み締めていなければ、ガタガタいってしまったかも知れない。

その言葉は汚い大人の世界を垣間見させ、

そしてその言葉は頭痛と吐き気の見世物を、眼蓋にちらつかせた。

石の壁のような夜の闇に囲まれながら、陽炎のようにちらつく彼女の身の上。


怒りが込み上げてきた。

そのおじさんという男に対する、激しい怒りが。

三歳の子供に、そんなことを言う大人がいるなんて。

そんなことをする大人がいるなんて・・・・・・。


「悲しいわ、いまぐらい―――、

大人ならこんなことにはならなかったのに・・・・・・・」




―――



「小さなあたしは、親のように信じていたおじさんの言いなりに・・・・・・」


僕は吐いてしまいそうだった、彼女にではない、そのおじさんに、である。

欲望を満たすためだけに、そんなつまらない嘘をついて、


―――彼女を傷つけて・・・。


ぽとん、と一滴の油彩だけで、僕の心の水面に漆黒が満ちる。

そこで微妙な神経を他人行儀に見つめる。

無限に広がった闇の中を歩いているような気がする。

彼女の話は続いた。小学校に上がる前から始まったという、

その男からの性的な虐待。これは愛情の表現だと言われて、

それを信じていた幼い彼女。

小学校に上がって、他の子供たちと接するようになって、

自分の置かれた状況が異常だということに少しずつ気づいていく過程。

でも、逃げ場はなかった。

母親はいない、父親は死んでいる、他に頼る人もいない。



「そして気がついた時は、もう取り返しもつかない、

どうにでもなればいいのよ・・・・・・」


彼女は悲しい、悲しいけれど、

その美しさの理由が今ようやくわかった気がした。

電車がビルディングに直撃するような、

あるいはバスが舗道へと人を轢き殺すような、

やぶれかぶれ、破壊衝動・・・・・・。



―――それは彼女が一人だけ、

大人の世界の空気を身にまとっていたからだ。

森を迷う仔羊のいる昼の残像が垣間見せた、

電車の切っては走る窓の風景を想像させた。

背伸びではない、醜さにも通じる、無用で独特な、

人は誰しも必ずそこへと辿り着く、疲れや戸惑いを伴った、

もっと過酷な大人の論理・・・・・・。


優しさなんかない、気持ち悪いことがいっぱいある、

大人にも子供にもなれない、連中・・・・・・。


彼女の美しさの裏にあったのは、そういう痛みだったのだ。

傷つけられ、汚されながらも、それでもどこかに純粋さを保とうとする、

そんな必死の努力が彼女を美しく見せていたのかもしれない。


「ねえ、あなたに贈り物をしたいの、眼を瞑って―――」


突然、彼女がそんなことを言った。

その瞳に、諦めと決意が同時に宿っているのが見えた。

いわれるがまま、なすがまま、眼を瞑った。

彼女が唇を重ねた。

それは僕にとって初めてのキスだった。

彼女の唇は冷たく、少し塩辛い味がした。

海風のせいかもしれない。キスは短く、ほんの数秒のことだった。

でも、その間に僕の心臓は何十回も鼓動したような気がした。

眼を開けると、彼女が泣いているのがわかった。

そこには中間の表情や曖昧さのようなものが一つもなかった。

透明な涙が、頬を伝って落ちていく。

その涙は美しく、同時に痛々しかった。

僕は諦めようとしている、拒まれようとしている自分を感じた。

軽蔑とは違う、もっと根深いもの。

ひびわれて、いまにも下地が見えてしまいそうな、

何者にもなれない恥ずべき自分を感じた。

歴史や権力のことを思った。

これまで本当のところ、僕はそういうものに従ってきた。


「そんな眼であたしを見ないで」


彼女の声は絞り出すようだった。

僕は鈍感だ。どうしてもっと、彼女の心に触れないのだろう。




―――


「あたしの心はあなただけを見ていたのよ」



  *


彼女が崖へと走っていくのが見えた。

冷たい戦慄が走った、僕は条件反射で動いた、間に合え、

崖に吸い込まれる手前で、手を伸ばして、繋ぎ止めた。

その瞬間のことは、今でもスローモーションのように鮮明に覚えている。

彼女が立ち上がって、崖の方へ向かった時、

僕は何が起こるかすぐに理解した。

そして、考えるより早く身体が動いていた。

彼女の手首を掴んだ瞬間、僕の身体は前のめりになって、

一緒に落ちそうになった。

でも、何とか踏ん張って、彼女を引き寄せることができた。

息が上がった、めいめい勝手な方向に遣る瀬無く、砂埃が上がった、

僕は肘を擦り剥いていた。

仰向けに横たわっていた。でも、よく間に合った、心の底からそう思った。

彼女は肩を落としていた。

二人とも地面に倒れ込んで、しばらくの間、荒い息をついていた。

僕の肘から血が出ていたが、痛みは感じなかった。

ただ、彼女が無事だったことに安堵していた。


「やめろよ」


僕がそう言うと、彼女は僕を見つめた。


「やめろよって何よ」


その声には、怒りと悲しみが混じっていた。

僕にはきっと彼女に何も言う権利はない。ただ・・・・・・。


「―――街を出よう、お願いだ、

そんな人でなしの家に帰らないでくれ。僕と結婚しよう、

僕は、両親に頭を下げて、せめて高校生活まで一緒に住めるように言う」


その言葉は、僕自身でも驚くほど自然に口から出てきた。

計画していたわけでも、考えていたわけでもない。

でも、それが僕の本心だった。

けれど、楔のようにはまっているのは数分前の言葉。

彼女の眼が、痛かった。

身じろぎできない。

彼女は僕の言葉を読み取った、この凍り付いた絶壁で。

ロマンティックな物言いごときで、

どうにかできるようなちゃちな秤ごとではない。

それに僕は十七歳で、彼女も同じ十七歳。

結婚なんてできるはずがない。

経済力もない、社会的地位もない。

でも、その時の僕には、そんなことはどうでもよかった。

次第に感覚を失ってしまいそうになる寒さに、

もう一度火を点けることはできるだろうか?

いや、やらなくてはいけない。何としてでも。

彼女は助けを求めていた、だから僕に期待していた。



―――取り返しのつかないことがある、

これが、人生なんだ・・・。


しばらくの沈黙があった。海の音だけが響いている。

波が崖にぶつかる音、風が草を揺らす音、遠くから聞こえる車の音。

しかしそこには、咳払いをする隙間さえなかった。


「―――ごめんよ、僕は意気地なしなんだ、

君がそう言ってくれるまで、僕は君のことを大切にしたい、

傷つけたくない、それでも守りたいとか綺麗ごとを並べてたんだ、

君の噂を聞いて真偽を確かめる勇気もなくて、

ただ何とか綺麗に、綺麗にしようとしてきたんだ」


僕は自分の不甲斐なさを認めていた。


「・・・・・・」


彼女は黙って聞いていた。


「―――強くなるよ、でもこれだけは、言わせてくれ、

君が汚いんじゃない、汚いのはそのおじさんの方だ。だから―――」





「君の美しい心を僕にくれ、

そしてそれをこれから僕に守らせてほしい」



、肯いてくれるまで、

ここから一歩も動かない。

彼女の瞳を見つめながら、僕は続けた。


「君が経験したことは、君の責任じゃない。君は被害者だ。

でも、これから先のことは変えられる。一緒にやり直そう」


風が強くなって、彼女の髪が舞い上がった。

その髪に夕日が当たって、金色に輝いて見えた。


「・・・・・・うん」







  *



僕等は日が暮れるまで、崖の上で抱き締めあっていた。

極度の孤独も皮膚の接触のなかで安らぎに変わった。

傍目から見れば男女の営みどころか、不格好なコアラの模倣とか、

するめいかみたいに見えただろうけれど、

だってそれは間違っている形をしているような気がしたし、

見覚えのあるものでもこんな風に近付くと別のものに思えてくる。

彼女の細い手足は、光の角度によって血管が浮き出し、

半透明の彫刻のように見えた。

抱き寄せれば骨の輪郭が掌に伝わるほど華奢で、崩れてしまいそうだった。

けれども、その壊れやすい肉体の奥に、

不可視の強い意志が宿っているのを確かに感じた。

心臓の端正な響きも、本物だった。

その息詰まりそうな切なさを今ちゃんと掴まえておきたかった。

空は完全に暗くなって、星が見え始めていた。

街の明かりがあるため、それほど多くの星は見えないが、

それでも何個かの明るい星が瞬いている。


「寒くない?」


僕が聞くと、彼女は首を横に振って、頬をすり寄せた。


「温かい」


そう言って、彼女は僕の胸に顔を埋めた。

その声は、波間に流されそうなほど弱々しくも、

確かな響きで僕の胸に沈んだ。

―――家に彼女を連れて帰ると、両親はビックリしていた。

僕の家は、海から徒歩で二十分ほどの住宅街にある。

築三十年ほどの二階建ての一軒家で、

小さな庭には母が丹精込めて育てている花が植えられている。

玄関を開けると、夕食の準備をしている母の声が聞こえてきた。


「お帰りなさい、遅かったのね」


母が台所から顔を出した時、

僕の隣に立っている彼女を見て、驚いたような表情を見せた。


「あの、お邪魔します」


彼女が小さく頭を下げた。

女の気配もなかったのに、突然家に連れてくる、

その上結婚すると言う。否、のたまう。

僕は彼女を傷つけない最善の努力を払いながら事情を説明した。

居間に座って、僕は両親に現在の状況を説明した。

もちろん、すべてを詳細に話したわけではない。

でも、彼女が虐待を受けていること、家に帰れない状況にあること、

僕が彼女を守りたいと思っていることは伝えた。

父は市役所の福祉課で働いていて、

こうしたケースを扱った経験があった。

母は元小学校教師で、子供の心理についてよく理解していた。

両親は、戸惑っていたけれど、僕の決意や、彼女の境遇を憐れんで、


「お前のしたいようにするといい」と言ってくれた。


根っこは優しく、正義感があるから、そう言ってくれると思っていた。

とはいえ、父は深刻な表情で僕を見つめていた。

もしかしたら、同情を恋愛と勘違いしているとか、

若い身の上で苦労をしょい込むのは思った以上に大変だぞとか、

そんな紋切り型なことを思っているのかも知れない。


「私は一度しか聞かない、本当にその覚悟があるんだな、

一か月後、半年後、一年後、やっぱり駄目だったではすまないんだぞ、

お前それを分かっていて言っているんだな? 私はその時は、

親子の縁を切り、彼女を養子として引き取って育てる、

これはそれぐらいのことなんだ、考え直すならいまだぞ、

他の方法だってないわけじゃない。

それでも選ぶというんだな?」


彼女が崖の下に吸い込まれるかもと思った時の恐怖に比べたら、

彼女と一緒に過ごすこと、傍にいることは本当にマシに想えた。

その場に流されて覚悟しているわけじゃない。

でも本当の覚悟は行為によって示すしかない。

僕は彼女の眼を見て、手をつないでから、父の眼を見つめた。


「はい」


父はなお問い詰める。

考えてみるとこんな風に向かい合うのは人生で初めてだという気がした。


「彼女を守るということは、簡単なことじゃない。

お前はまだ高校生だ。経済力もない。それでも責任を持てるのか?」


僕は迷わず答えた。


「持てます。これまでの自分は息子であり、学生でした。

けれど、これからは仕事をする社会人であり、大人になるつもりです。

もし許してもらえるなら、卒業までの間、

僕と彼女を助けて下さい」

「助けるさ、親子だからな。でも、これからはお前を甘やかしたり、

優しくすることはない。社会は本当に厳しい、

でも、努力し続ければ何だって出来るさ」


母は彼女の方を向いて、優しく微笑んだ。


「辛かったでしょうね」


その一言で、彼女の目に涙が浮かんだ。

おそらく、大人からそんな風に言われたのは初めてだったのだろう。

彼女はずっと俯いていた。

彼女のここを立ち去りたい気持ちは容易に察しがついた。

どのような理由があったって、見ず知らずの家に、

お世話になりたい人間なんていない。




「僕は君のことが好きなんだ、だからどうか、

迷惑だなんて思わないでくれ。父さんや母さんだって、

悪い人じゃない、君の心に血が通っている扱いをしてくれる」


僕が彼女の肩に手を置くと、両親が優しく微笑んだ。


「ここをあなたの家のように思っていいのよ」

と母は言った。


家庭のありとあらゆる権限というのは大抵母親にある。

ただ、夕食の母親の料理のメニューが、二三品増えていたことを、

僕は見逃さなかった。

あと、彼女へのスキンシップが多く、ほっといたら頭を撫でそうだった。

父親が、パンツの上にズボンを穿いたことも、僕は見逃さなかった。

あと、背筋をピンとしていた。

その夜の夕食は、普段より豪華だった。

母が急いで作った天ぷらや、父が近所のスーパーで買ってきた刺身。

彼女は最初、遠慮して小さく「いただきます」と言ったが、

母が優しく言った。


「遠慮しないで、沢山食べなさい、

あなたはこれから私達の娘になるのだから」

と言うと、少しずつ箸を進めるようになった。

ただ、そういう大小様々のかがり火は彼女をまぶしがらせ、

困惑させ、けれど、優しい気持ちにさせたのだろう。

食事の後、母は彼女を二階の客間に案内した。

普段は物置になっている部屋だったが、急いで片付けて、

布団を敷いてくれた。


「何か必要なものがあったら、遠慮しないで言ってちょうだい」


母のその言葉に、彼女は深く頭を下げた。

僕はその日の夜、彼女がお風呂に入った直後に、

父と一緒に彼女の家へ行った。

彼女の家は、一度行ったことがあり、

何度かその目前まで見送ったことがあり、

よく知っていた。古い木造の平屋建てだった。

庭は草が伸び放題で、家の周りにはゴミが散乱している。

玄関の電球は切れていて、薄暗い。

これが子供を育てている家かと思うと、ユニセフや、

難民キャンプの話を思い出し、

自分の境遇がいかに恵まれてきたのかと思った。

玄関のチャイムを鳴らすと、中年の男性が出てきた。

酒の匂いがして、Tシャツにはシミが付いている。

この男が彼女をと思うと、怒りが込み上げてきた。

玄関に出てきた瞬間に、彼女のおじさんをガツンと殴った。

僕の拳が男の頬を捉えた瞬間、鈍い音がした。

男はよろめいて、壁に手をついた。

やり返そうとしたところを―――。


「刑法第百七十七条 強制性交等罪が適用される」と父は言った。


父親は市役所に勤めていた。法律的な知識もあるし、

こうしたケースの対応にも慣れていた。

彼女のおじさんは青くなって、蛙のように跪いた。


「社会的信用も、人間性も否定される。

当たり前だ、あなたはそれほどのことをしたのだ、

このことがどういう意味を持つか、おわかりでしょうね」


父の声は冷静だったが、そこには強い怒りが込められていた。

もしかしたら殴った僕よりも、はるかに強い怒りを感じていたかも知れない。

世の中には様々な犯罪がある。

けれど、無力な子供に対する性的暴力など言語道断だ。

人倫にも悖る。畜生道だ。

男は震え声で謝罪を続けた。でも、それが心からの反省なのか、

ただ罰を恐れているだけなのかは分からなかった。

僕は人間の内部に蛆虫がひしめき合っている想像をした。


「とりあえず彼女をこちらの家で当分の間、

預かるつもりです、今日は帰ります、住所はこちらに、

それでは失礼」

と言って父は僕の肩を掴んで歩かせた。

もう一発殴りたいという気持ちがあったが、それはもはや、

弁えというのを知らなすぎる。

帰り道、父にいきなり殴る奴があるか、と怒られた。

怒られたけれど、父は笑っていた。


「気持ちは分かる。

でも、暴力で解決できることと、できないことがある」


昔の父親は、口より手が出るタイプだったとそれとなく、

母から聞いている。女を殴るタイプではなかったけれど、

喧嘩っ早くて、停学も喰らったことがあると聞いている。


「どんなに腹が立っても、もう一度話せ、

暴力に訴えるのも一つの手だが、人生に傷がつく」

「もう、ついてる。取り返しがつかないほどにだ」


父だって本当に我慢できなくなれば殴るだろう。

しかしそれでも、感情に流されるわけにはいかなかったのだろう。


「世の中にはどうしようもない屑がいる。私も知っている。

もはや暴力で対抗するしかない相手もいる。だが、相手がヤクザや、

政治家や、警察官だったらどうする。録音機の準備をしているか、

スマホで撮影させる手筈は整えているか。

お前のそういう真っ直ぐな性格は、嫌いじゃない。

だが、お前は殴った時、彼女のことを考えていたか?」


それは、詐術だった。


「法秩序というのは絶対だ、まず、話せ」


けれど、父は笑うでもなく怒るでもなく、はにかんでいた。

十七歳のケツの青いガキに言う台詞ではないし、

言えた手前かと、思っているのかも知れない。

だが同時に、父の実際的な世界観の片鱗を僕は垣間見た。

それから父は言った。


「たとえば、もし私が彼女にお前の大学費用をそっくりそのまま、

彼女に差し出そう、そう言ったら諦めるか、

なんだったら彼女が結婚できる年齢まで育てた上で、

相手まで探そうじゃないか、そう言ったらお前どうするんだ?

たかだか暴力を一つ収めるぐらい簡単なことじゃないか?」


無茶苦茶な取引を持ちかけてくる。

詐術だ、と思った。


「いいか、物事はそんなに単純じゃない」


亀のごとく首を広い肩の上にすげ込んだようにしながら、睥睨し、

この時ぐらい父というのが、

実は様々な立場で生きているのだと気付いたことはない。

あと、父の言ったことは、残念ながら、当たった。



  *



次の日、彼女のおじさんが僕の家にやって来て、

玄関前で土下座し、示談金を寄越してきた。

朝の八時頃、玄関のチャイムが鳴った。

母が出てみると、昨夜の男が膝をついて頭を下げていた。

手には封筒を持っている。


「昨日は申し訳ありませんでした。どうか、これで・・・・・・」


保守的で醜悪な人間の皮を被った動物の姿。

それは、彼女の父親の保険金だったのかも知れない。

封筒の中には現金で百万円が入っていた。

多いとも少ないともいえないが、

彼女の父親が亡くなった時の生命保険金の一部だろうと父は推測した。

だが、そんなこれっぽっちのはした金で、

人の人生を滅茶苦茶にした償いになるのか。

彼女は、お金を受取り、もう二度とここには来ないでと言った。

彼女はその封筒をじっと見つめていた。そして、小さく頷いた。


「受け取ります」


受取らないという方法もあったに違いない。

けれども、彼女はこれから僕の家で当分の間生活する、

また僕がこれからずっと彼女の傍にいるという保証もない、

そう考えたら、そのお金は受け取らないわけにはいかなかったのだろう。


崖の前でのやりとりが、思い起こされ、

そしてまた父親のやくざな取引が、思い出され、

それでも、もう誰にも傷つけさせない、これからちゃんと守るよと、

少女漫画のヒーローみたいなことを言った。


透明な陽炎を抱いているみたいな、

この希薄な現実感覚・・・・・・。

物事は好転しているのだろうか、

暗転したのだろう―――か。


でも、僕は自分の小指を切り落して、彼女に差し出したい気がした。

過去と未来を切り落す今という現在という平面の一枚の紙の展望に、

僕はまだ歩き方のレクチャーをされているような気がした。

僕は夏の終わりの入道雲や、向日葵や、

風のないあの海に誓えばいいのだろう―――か。

でもそんなもの次々と叩き伏せられてしまうに違いなかった。

自分の言葉がどれほど頼りないか知りながら、それでも、

元気づけるために、明るくするために、

僕はたくさんの嘘をついたと思う。

未来を明るくしたかった、すべての光を束ねた、

安らぎの棲家にするための小さな約束。

澄んだ渓流のように作為のない自然な、嘘。

いつか、その嘘の一つ一つを、本当に変えていきたいと思った。



  *


彼女は、もう学校へは行かなかった。

学校はもう彼女にとって無用の長物であり、

隣人の仮面の場でしかなかった。

そこでは彼女が縛り付けられて、型に押し込まれてしまう。

制服の襟元やロッカーの埃や、斜めに折れた出席簿の角、

そうした細かな規定が、

彼女の肌にチクチク刺さると分かったからだろう。

彼女は人生の選択を始めた。

彼女が学校を辞めることを決めた時、僕は複雑な気持ちだった。

一緒に教室にいることはもうないのだ。

でも、彼女にとってはそれが最良の選択だということも理解していた。

彼女が行かないなら僕も学校へは行きたくなかったけれど、

卒業証書は欲しかった。

高校を卒業しなければ、

まともな就職はできないという学歴の考え方があり、

これは最低限の保険なのだ。

彼女を支えるためには、僕が働く必要があった。

彼女は母親にお願いして内職をし、そのお金を両親に渡した。

両親は受け取りを拒否したけれど、最終的に受け取った。

受取りながらも、お前の通帳に入れておく、と言った。

彼女が選んだ内職は、小さな電子部品の組み立て作業だった。


彼女は小さな作業台に向かい、ルーペを覗き込みながら電子部品を扱った。

指先には微細な震えがあり、ピンセットの金属は掌の油に反射する。

小さなプラスチック袋から取り出されるのは、

チップ抵抗、ミニチュアコンデンサ、青い被覆の細い電線、

そして透明なフラックスの瓶。

基板のパッドにひとつずつ部品を置き、

半田ごてで溶かした金属の小さな水玉を接合点に落とす。

半田の匂いは甘く香ばしく、

フラックスの蒸気はいつの間にか彼女の髪に付着してしまう。

指先はやがて薄い皮膚の膜を作り、爪の先は微かに黒ずんだ。

彼女は一つ組み立てるごとに五円の報酬を手にする。

その五円を並べると、机の端に小さな光の列ができる。

八時間働いて二千円。

数字は冷たく、しかしその数字で、

家の食卓に並ぶひと皿ができるのだという現実は、

彼女の背骨を真っ直ぐにした。


僕でさえ、内職、小遣い稼ぎと分かっていても、

この企業側の人件費としての評価には悪意しか感じなかった。

在宅・非正規・代替可能ということでも、

こんなの経済的に正しくない。

でも外に出たくない、誰にも会いたくない、でも何かをしていたい、

そうした心理と結びつけることで、

報酬の低さが逆に彼女の孤独や強さを際立たせる。

彼女は、単価が一円上がったことを、

「ちょっとしたご褒美みたい」と言って笑った。

その笑顔の奥には、

一円の重さを知っている人間だけが持つ、

静かな誇りと疲れがあった。

彼女は文句を言わずに続けることの意味はあった。

それを僕が証明していかなければならない。


彼女は家事全般を習った。

母から料理や掃除、洗濯の方法を教わった。

最初はぎこちなかったが、持ち前の集中力で、あっという間に上達した。

元々頭がいいのだ。

特に料理の腕は、すぐに僕を上回るレベルになった。

狭い台所の換気扇が回る音、コンロの炎が跳ねる時の小さな光、

食卓のランプに映る湯気の輪郭。

彼女はようやく海の静物画の景色から離れようとしていた。

その曇った硝子窓の向こうに見えるものに、生活や、人や、

自分というものを懸命に作ろうとしていた。

小説の登場人物のようにけして楽ではなかった。

彼女はそれを自分に課すことで日々の糧を見つけようとした。

時々、夜中に彼女がうなされているのが聞こえた。

隣の部屋にいても分かるほど、激しく身体を震わせていることがあった。

そんな時、僕は部屋の前でただ立ち尽くすことしかできなかった。

でも、少しずつ、彼女の表情に明るさが戻ってきた。

笑顔を見せることも多くなった。

それは作り笑いではなく、心からの笑顔だった


卒業証書を貰う前に、父親の口利きで、工場の仕事が決まった。

地元の自動車部品工場。父親の友人が管理職をしていて、

高校生でも雇ってくれることになった。給料は月十五万円。

残業代で二十万を超える。

十五万は最低保証の飼い殺しの金額だ。

工場の朝は時間カードを押す金属音で始まる。

ラインの先には無数のベルトコンベア、プレス機の脈動、

潤滑油の匂い、そして蛍光灯の白が目に突き刺さる。

僕は朝七時から夜七時まで、立ちっぱなしで部品を検査した。

ひとつのベアリングの表面を触れて回転を確かめ、

寸法ゲージに通すたびに小さな合格音を胸に刻んだ。

手は油で黒くなり、掌には微かなマメができ、

夜には背中の筋が悲鳴を上げた。

失敗すれば監督の怒声が工場内に反響し、

昼休みの弁当箱には急いで詰めた冷えたご飯が残った。

休めない仕事だが、若い僕には無理が利いた。

それでも決して多くはないお金だが、

二人で生活していくには十分だった。

僕は働いた、アパートを借りて彼女に一緒に住んだ。

両親は困ったら援助でも何でも言ってこいといったが、

ここで甘えるのは違う。正念場だ。

男になる時だ。

アパートは築二十年の木造二階建て。六畳のワンルームで、

風呂とトイレは共同。決して快適とは言えなかったが、

二人だけの空間があることが何より嬉しかった。

工場の仕事は厳しかった。

失敗もした。怒られて反省したまま暗い気持ちで敷居を跨いだこともある。

眠れない日もあった。病気をした日もあった。

あまりの自分の不甲斐なさに涙が堪えられない日もあった。

でも、彼女のために頑張ろうという気持ちが僕を支えていた。

彼女の内職風景を思い出して、

自分の頬を打って気持ちを奮い立たせたこともある。


彼女も近所のコンビニでアルバイトを始めた。

夜の時間帯で、時給も少し高い。

でも、深夜に一人で働くのは危険だった。僕は毎日、迎えに行った。

数年後に仕事を辞める間に資格をいくつか取り、

また違う会社へ就職した。もっと給料が欲しかった。

そのためには死に物狂いで勉強するしかなかった。

夜間の専門学校に通った。

教室の蛍光灯の下で配線図の細かい線を追い、

導線の色別コードを覚え、

電工ドライバーで端子を締めるその確かな手つき。

試験前には絶縁抵抗計でケーブルの絶縁を測り、

テスターで電流・電圧を確認する練習を夜遅くまで繰り返した。

電気工事士一級の資格を取った。

それから転職して、電気工事会社に就職した。

作業服のポケットに、折り畳んだ資格証のコピーを入れていた。

それは、過去を塗り替えるための小さな盾。

その小さな盾を入れたパスケースの中に、

彼女の写真を入れた。

給料は月二十五万円になった。

引き換えに、夜勤や休日出勤がちょこちょこあるが、

手当はありがたいし、給料は毎年上がってゆく。

代償はあった。

彼女の口元に浮かんだ薄い陰りを見て、僕は胸が詰まった。

籍を入れただけの恋人同前の二人は、

一緒にいられることが何よりも大切だった。

でもそれで、関係がぐっと煮詰まる。

そして彼女のお腹には新しい命が宿っていた。

彼女が妊娠したのは、僕が二十二歳の時だった。

彼女は匂いに敏感になり、好物だった魚の匂いですら嫌悪を覚えた。

缶コーヒーの香り、排気ガス、夜コンビニの揚げ物の匂い。

すべてが彼女を追い詰めた。僕は台所で白粥を炊き、薄い昆布だしをとり、

彼女が受け付ける食事だけを作ってやる日々を送った。

つわりがひどくて、コンビニのアルバイトを辞めざるを得なくなった。

彼女にとって仕事は僕に負担をかけないもので、

いざとなったら一人で生きていくためのものだった。

手つかずの百万円が入った通帳。


「大丈夫かな」


彼女が不安そうに言った。


「大丈夫だよ。僕が頑張るから」


でも、実際には不安だった。

匂い袋を隠しているような憩いの想いのある、憂鬱。

センチメンタル。挫折しそうな心の迷い。

子供を育てるのにはお金がかかる。今の給料で足りるだろうか。

両親のことを思い出し、あんな温かい家庭を作れるだろうかとも思った。

でも賽は投げられた。

僕はもう十七歳の、ふらふらくさくさしたガキじゃない。

彼女の期待を裏切って、自分の気持ちにも嘘をつくようなガキじゃない。

彼女だってそうだ。

彼女の境遇を考えれば、トラウマから完全に回復するという保証はない、

PTSD、解離性障害、様々な精神的な後遺症が残る可能性は十分ある。

でも彼女は変わろうとした。

これからだって一歩間違えば、

経済的困窮、育児ストレス、価値観の相違など、

愛だけでは解決できない問題が山積みになることもある。

重い蜂の巣箱のような、空洞、物思いに満ちた、ほどろの闇。

強くなるしかない。

水底の底に座っているような気持ちで、

あの崖の場所へ彼女と海を眺めに行った。

美しい心を守らせてほしいと言った気障な言葉を思い出すしかない。

波は海藻や貝殻や、遠い国からの砂を飾って、

またゆっくりと穏やかな夕風の中を戻ってゆく。

パスケースの写真は三人の家族の写真になる。

何を恐れることがある?

何度もやり直せばいい、繰り返し繰り返してすりきれてしまえばいい。

いつか、別の景色が見える。

僕はその笑顔にゆっくりと吸い取られ、消えていく、

そこで自分の夢を忘れた、けれども自由が残った。

親友の佐々木とはたまに酒を飲み、映画を観る。

大学を卒業して就職だ、

でも僕等の関係は変わらないんじゃないかと思う。

しかし子供が生まれると、僕の生活は一変した。

夜泣きで眠れない日が続いた。

でも、小さな手が僕の指を握る瞬間、すべての疲れが吹き飛んだ。

昔、僕には夢があった。

でも、今はそんなことはどうでもよかった。

家族を守ることが、僕の最大の目標になり、それが僕の人生だった。

かたく口を噤んで、過去のことを喋らないでいるだろう、

何もしなければ、どうなっていただろう、

擦れ違っては次第に距離を拡げていく人と人の中で、

それでもお互いが寄り添う人生がある、


彼女は過去のことを話すことはほとんどなくなった。

時々、夢にうなされることはあったが、それも次第に減っていった。

俗論と偏見のなかではつまらないものだと思う、

でもそんな平凡な人生を心の底から愛そうと本当に思った。

生活は、他人から見れば平凡で、何の変哲もないものだった。

朝起きて、仕事に行って、夜帰ってくる。

休日は公園で子供と遊び、夜は三人で夕食を食べる。

年に二度は旅行へ行く。

彫塑のごときその平凡さの中に、深い幸せがあった。

数年後に娘は小学生になり、活発で明るい少女に育った。

彼女の過去を知る由もなく、

ただ愛情深い両親に育てられた普通の子供だ。

僕は電気工事会社の現場監督になり、

彼女も近所の保育園でパートタイムで働いている。

決して裕福ではないが、三人で支え合って生きている。

佐々木が結婚した。祝儀袋に五万いれたら、

お前いれすぎだよと四万返された。

そのタイミングで、

「そろそろ日頃のお礼もかねて、結婚式挙げるべきじゃないいの?」

とか言われて、結婚記念日にサプライズを立てている。

海は今日も広く、静かに波を打っている。

鴎が飛び、船が通り、夕陽が海を染める。

変わらない風景の中で、僕等だけが変わっていく。

それでいい、と思う。

でもそんな平凡な人生を心の底から愛そうと本当に思ったのだ、



   

―――

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海は広い かもめ7440 @kamome7440

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