第26話「撮らない理由」
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
篠目のアトリエは、海からまっすぐ吹き上げてくる風が通り抜ける三階建ての角。外壁は白く、階段の踊り場にだけ鉄が露出して黒い血管みたいに見える。ドアを開けると、まず匂いが来た。現像液の甘苦い残り香、インクジェットの熱、紙を焼くときにだけ立つ薄い焦げの粒。窓際の長机にはマット紙と半光沢紙が交互に積まれ、その上に細い刷毛、ブロア、グローブ、ルーペ、水平器。壁一面は額装されていないパネルで埋まり、いくつかは裏返しになっていた。
篠目は靴を脱がない。弓も脱がない。「ここは床が暗室みたいなもんだから」と彼は言って、天窓の角度を少し変える。曇天の光が斜めに滑り、壁の白が一段だけ冷えた。
「撮らない理由を、置いておく場所がいる」
彼はそう言って、壁の中央のパネルを一枚、上から外した。プラスチックレールのきしむ音が静かに落ちる。
表に返されたパネルは、**“空”**だった。画面中央に、肉眼では見落とすほどの細い軌跡。粉の流れ。
キャプションは控えめに貼ってある。〈石粉:戻す夜の呼気〉。
「写っていないものを撮る」
それが篠目の、ここ数年の答えだった。
弓はパネルの前で足を止める。あの夜、斎/齋の線が石に入った瞬間、照明がわずかに揺れ、粉が浮かび上がって呼気のように広がった。篠目がそこでシャッターを切らなかったのは、顔が視界の端に入っていたからだ。切れば、角度によっては誰かの輪郭が残る。残れば、要約の刃先で別の意味が生まれる。
「俺の炎上は、あれの逆だった」
篠目は壁の端からもう一枚、別のパネルを外した。こちらは表のまま重ねられていたが、上面に薄紙が掛けられている。薄紙をめくると、広場の一角。防砂シートの端、紙コップ、ペットボトル、落ちた名札。被写界深度は浅く、前景にひとりの手がある。指が一本、曲がっている。
「この手が誰の手か、俺は分かってた。遺族の手だ。掲載の前に本人に見せて同意をもらった。顔はない。名もない。配慮だと思った。
でも、切り出した一部が二次流通して、誰かが『この指輪、あの人のじゃない?』って言って実名を出した。要約は配慮だったはずが、切断になって、晒しになった。俺は撮影者だ。切り出したのは編集だ。でも、矢が最初に刺さったのは俺だった。撮るなって、言われた」
弓はうなずいた。
「あなたは、要約の反転を発明した」
「発明じゃない。撤退だよ」
「撤退が技術になってる。撮らないことを撮るって、逆手で工程にしたのはあなた」
篠目は頬骨を指で押し、少しだけ笑った。「俺の要約は空白を増やす。増やした空白が届くって信じられるときだけ、置く。顔は写さない。行為だけ写す」
アトリエの中央の作業台に、A2サイズのプリントが三枚並んでいる。
一枚目は、鑿の刃と石の隙。そこに落ちる粉の角。
二枚目は、無線レコーダーの赤い沈み。録音ボタンの周りに人差し指の脂が薄く残っている。
三枚目は、A票の押印秒。数字は見えない。見えるのは押されたのに凹まず、紙の繊維が立っている場所。秒が体で残る瞬間。
「31〜33話の山場は、顔じゃなくて工程を叩く。行為の列を並べて、重ねて、揃える。灯り、粉、押印、録音、供の音。どれも**“呼ばない”で在る。誰の顔も写さない」
「音は?」
「音は活字で置く**。波形も見せる。人が聞き取った迷いを秒で示せる形に。“音の行為”は写真よりも文章の領域が広い**」
弓は手帳の余白に、四角を縦に並べた。〈粉/押印/波形/札の角〉。四つの四角を一本の線で結び、上に〈“撮らない写真”〉と書く。
「四角の配列を記事の地図にする。読者が顔のないページを怖がらないよう、秒を入れて呼吸を作る。5:30/17:30/21:00の呼吸も紙面に刻む」
「三回・二回の拍は?」
「柱に隠して置く。写真の間隔で拍を作る。目が読むリズムに寄せる」
篠目は台の下から薄いファイルを取り出した。炎上の時の記録だ。スレッドの罵倒、謝罪文、社の見解、当事者との再会議の議事録。紙はどれもきちんと針金で閉じてあるが、角は少し潰れている。
「俺は**“配慮”って言葉が嫌いになった。配慮は自分の肩を叩くために使われやすい。要約は誰の肩も叩かない。切断するか、渡すか。渡すには橋がいる。写真に橋を生やすには、抜くしかなかった」
「要約を抜く**」
「要約を裏返して、“撮らない”で置く。欠落は欠落として掲示する。『削りました』と書く」
弓は笑った。「要約欄に**“削った工程”の明細を書く気か」
「書く。削った秒**、削った角度、削った顔。削った理由。削った責任」
「責任は秒に乗る」
「そう。“迷い秒”の列の隣に**“削除秒”を足す。記事には出さない場合も、俺らの側の台帳に残す。いつか問われたとき**、秒で答える」
窓の外で、雲がひとつ崩れて白い粉のように散った。弓はパネルの前に立ち、空の写真をもう一度見る。中央に薄く走る石粉。呼気。戻す夜の呼吸は、風と粉と秒でできている。
「これを見出しに据える。“写っていないもの”が本文の圧を減らす。減圧は読者に選択を返す」
「読者に返す?」
「顔を見せると判断が走る。顔は速い。粉は遅い。遅いものを置くと、判断は遅くなる。遅い正しさが間に合う余白を作れる」
篠目は両手を広げて、何かをそっと持ち上げるような動作をした。「遅い正しさは薄い。薄いものを持つには、広い手が要る。写真は手になる」
「文章は橋脚になる」
ふたりはしばらく黙り、天窓から落ちる光の角度が少しずつ変わるのを眺めていた。
机の端に置かれた小さな箱から、篠目がコンタクトシートを数枚取り出す。灯りの家の机、砂時計、A票の角、無線の蓋。どれも顔がない。
「“撮らない写真”で何を語るのか、見出しを決めよう」
弓はペンを走らせる。
〈1. 粉の列——戻す夜の呼気〉
〈2. 紙の角——押印秒の名乗り〉
〈3. 赤の沈み——録音ボタンの体温〉
〈4. 札の色——一秒で識別できない事故〉
〈5. 波形の谷——機械の迷い〉
〈6. 影——撮らない主体の影〉
「6は要る?」篠目が尋ねる。
「要る。撮らなかった結果として残る影。影はあなたの署名だ。顔を写さない署名」
篠目は頷き、パネルの配置図を描く。中央に粉、右上に角、左下に赤、左上に札、右下に波形、空白の対角線に影。
「31は粉を起点に工程を並べ、32で遺族の**“在る”を言葉で受け、33で行政の線と家の通路を重ねる。写真はどれも顔を写さない。行為だけ写す」
「キャプションは単位で書く。秒、拍、粒、角、温度」
「数字は最小で置く。読みが勝たないよう、読む人が置**き直せるように」
アトリエの扉が小さく鳴り、配達員が用紙の箱を置いて去った。“秒まで刻むモデル”と同じメーカーのロゴ。弓は箱の上部の入荷時刻に目を落とす。17:31。笑って篠目を見た。
「定時を一分過ぎた」
「秒が合ってるから問題ない」
ふたりは短く笑い、弓はすぐ真顔に戻る。「“撮らない理由”を紙にする。紙は重い。軽く見せると嘘が勝つ。重い紙で遅い正しさを支える」
篠目は壁の端から三枚目のパネルを外し、弓に背を向けてから振り返った。「俺には私が残ってる」
「炎上の夜?」
「炎上の後」
彼は短く呼吸を置く。
「遺族の人と会って、“あなたが要約したおかげで、私は顔を上げられない”って言われた。俺は**“要約は配慮だった”と言った。配慮は誰のため**?と聞かれた。俺のためじゃないかって。あの夜から俺は撮らないを選んで、撮るときは**“削除秒”を残すようになった。俺のためにじゃなく、俺が問われたときに秒で返**すために」
弓は首肯し、言葉を一つだけ置く。「ありがとう」
篠目は「まだ早い」と笑い、カッターの刃を新しいのに入れ替えた。パチンという軽い音が、室内の空気を少し固くする。
窓が暗くなり、ガラスの向こうで海が三回・二回。弓は手帳を閉じ、アトリエを出る前に壁の**“空”の写真にもう一度目をやった。写っていないものが、確かに在る**。戻すとは、写っていないを置く技術だ。呼ばないで在る。秒で支える。
夜、灯りの家。
扉の前で三回・ひと呼吸・二回。ノブを回す。机の上に薄い封筒が置かれていた。中にはグレーの小紙片。片結びの糸が一筋、紙の端に糊で止められている。
〈撮らない理由=“削除秒”の所在〉
裏にもう一行。
〈顔を写さない時間を、顔の代わりに置く〉
筆跡は震えていたが、線はまっすぐだ。弓は深く息を吸い、砂時計を一度だけひっくり返した。粒が落ちる音はしない。落ちるのは時間の影。影は署名。署名は責任。責任は秒に残る。
近況ノートの入力欄に、弓は今日の言葉を短く置いた。
〈“撮らない理由”を決めました。撮らない写真=行為の列。削除秒を台帳に残し、顔の代わりに時間を置きます。遅い正しさに、紙の厚みを〉
送信。21:30。画面が白に戻る。デスクから返ってきたのは「写真構成、攻めてるな。工程で殴ってる。よし」の一文。弓は笑って、アトリエで決めた四角の配列を脳内でなぞり直した。粉、角、赤、札、波形、影。31〜33話の山の骨が、写真と言葉の間で静かに立ち上がる。
帰路、フロントガラスに潮の粉。ワイパーが三回・二回で払う。弓は胸ポケットの名刺の裏を返し、次の頁に細く書く。
〈写っていないものに、名前を〉
句点は打たない。第三部は、顔ではなく行為を、名ではなく秒を、要約ではなく工程を、殴る。
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
※読了ありがとうございます。今回は**『撮らない理由』。篠目の炎上と撤退が技術へ変わる瞬間、“要約の反転”としての撮らない写真を設計しました。つづきが気になったら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで応援いただけると嬉しいです。あなたの一押しが、相良弓の定時とこの物語の秒**に、次のページをめくる力をくれます。
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