第9話 今日のリビングの空気は少しだけ重い…

 平日の夜、街は静寂に包まれていた。

 千葉蒼真ちば/そうまは疲れ切った体を引きずり、ようやく自宅の玄関にたどり着いた。


 ドアを開けると、温かなリビングの光が柔らかく漏れ出し、そこから妹の凛音りんねがひょっこりと顔を覗かせたのだ。

 妹の大きな瞳が、何か企みを秘めたようにキラキラと輝いている。


「兄さん、朔菜さくなさんと別れたの?」


 凛音の声は、静かな夜を切り裂く鋭い刃のようだった。

 蒼真は一瞬、動きを止めた。頭の中では古いゲーム機がエラー音を鳴らすかのように、思考がカクカクと乱れた。


「え⁉」


 驚愕で目を見開く蒼真に、凛音は小首を傾げる。


「だって、今日の放課後に朔菜さんが知らない男の人と一緒に歩いてたの見たから」


 その言葉は、蒼真の心に衝撃を与えた。

 心臓がドクンと大きく跳ね、頭の中は一瞬で真っ白になったのである。


「え、そ、そっか……まあ、そういうことも、ある、のかな……?」


 蒼真は言葉を濁し、なんとか誤魔化そうとするが、声は震え、言葉は空回りするばかり。

 凛音の視線は鋭く、逃げ場を塞ぐように蒼真を捉えていたのだ。


「あるって何? もしかして、昨日話してた、もし浮気されたらどうするって話題と関係あるの?」


 凛音の声には、探偵のような鋭い響きが混じっていた。

 昨日、軽い気持ちで交わした雑談が、こんな形で牙を剥いて返ってくるとは夢にも思わなかった。

 蒼真は言葉に詰まり、額にじんわりと汗が浮かぶ。


「いや、えっと、その……まあ、そういう、感じ?」


 言葉がまとまらず、蒼真はしどろもどろ。

 凛音はそんな兄をじーっと見つめ、眉をわずかに寄せた。

 妹の声には、ほのかに不満が滲む。


「兄さん、なんでそういう大事なことを私に話してくれなかったの?」


 そのストレートな問いかけに、蒼真は思わず息を飲んだ。


「いや、だってさ……凛音に心配かけたくなかったし、迷惑かなって……」


 蒼真は気まずそうに後ろ頭をかき、視線を床に落とした。

 すると、凛音の表情がピクリと動く。

 妹の声には、ほんの少しだけトゲが混じる。


「そういうの……私、嫌なの。隠し事しないで」


 その真っ直ぐな言葉は、蒼真の心をズキリと刺した。


「……ごめん、悪かったよ」


 蒼真はバツが悪そうに頭を下げた。

 言い訳なんて、妹の前では無力だ。

 凛音は頬を少し膨らませ、ふんと小さく鼻を鳴らした。


「それで、朔菜さんとは別れたってこと?」

「うん……まあ、そういうことになるね」


 蒼真の声は力なく、夜の静けさに溶け込むように重く沈んだ。


「……そっか」


 凛音はそっけない返事を返すと、つまらなそうにリビングへと戻っていく。その小さな背中を見送りながら、蒼真は大きく息をはいた。


 胸の内に渦巻くモヤモヤは霧のように晴れそうもない。

 蒼真は玄関で靴を脱ぎ、重い足取りで家の中へ移動する。だが、心の中はまだ嵐のようだった。

 凛音との気まずさ、自分の不器用さ、すべてが絡み合い、頭の中は荒れ狂う海のようだ。


 リビングに入ると、凛音はソファにちょこんと腰掛け、スマホをいじりながらクッキーを食べていた。

 ダイニングテーブルには、凛音が用意したらしいジューシーなハンバーグと色鮮やかなサラダが並んでいる。

 しかし、今日のリビングはどこか空気が重い。


「兄さん、早く食べなよ。冷めちゃうよ? 私はもう食べたから」


 凛音がチラリと蒼真を見ながら言う。

 さっきのトゲは消えていたが、どこかよそよそしい雰囲気が漂う。


「あ、うん、ありがとな。作ってくれて」


 蒼真は無理やり笑顔を貼り付け、感謝の言葉を口にして席に着いた。

 箸を持ち、ハンバーグを一口頬張るが、さっきの出来事が頭を離れず、味はどこかぼんやりとしていた。


 食事中、リビングには静寂が漂う。

 凛音はスマホに没頭し、蒼真は黙々と箸を動かす。カチャリと響く食器の音だけが、静かな空間に小さくこだまする。


「……兄さん?」


 突然、凛音の声が響いた。

 蒼真はハッとして顔を上げ、ソファに座っている妹を見た。


「な、なに?」

「でもさ……困ったことがあったら、私に相談してきてもいいからね。だって、私、兄さんと同じ学校に通ってるわけだし」


 凛音の言葉は、どこか優しく、でも力強かった。

 蒼真は一瞬言葉を失い、そっと微笑んだ。


「そ、そっか、うん。何かあったら相談するよ」


 その瞬間、二人の間にあった見えない壁が、ほんの少しだけ溶けた気がした。


 夜の静寂の中で、わずかに温かな空気が流れる。

 蒼真はハンバーグをもう一口頬張り、妹の作った料理の味を、ようやく少しだけ感じられたのだった。

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