第8話 私の夏服を選んでくれない?
夕暮れの街は、色とりどりのネオンと人々のざわめきで活気づいていた。
アーケード通りの喧騒を背に、
古本屋を後にした二人は、会社帰りのスーツ姿の大人たちや、さまざまな制服に身を包んだ同世代の若者たちに混じって、街の中心を進む。
「ねえ、蒼真くん! ちょっと寄り道しない? 私、行きたいところがあるの」
紅葉が横を向いて、弾けるような笑顔で提案した。彼女の瞳はキラキラと輝き、何か楽しい企みを抱えているかのようだった。
「寄り道? いいけど……どこ行くんだ?」
蒼真はバスで帰宅する予定でいたのだが、少々首をかしげつつ、彼女の勢いに流されるまま足を進めた。
紅葉には少し振り回されつつも、なぜか嫌ではなかった。
二人がたどり着いたのは、街のシンボルともいえる巨大なデパートだった。
ガラス張りのエントランスを抜けると、涼しい空調と華やかなディスプレイが二人を迎え入れる。
紅葉は迷わずエスカレーターに飛び乗り、蒼真の手を引いて五階へ向かった。
そこは、色とりどりの洋服が並ぶアパレル売り場。まるでファッションの迷宮に迷い込んだかのような光景に、蒼真は一瞬圧倒された。
「蒼真くん、こっちこっち!」
紅葉がニコニコと手を振って呼び寄せる。彼女の足取りは軽やかで、この売り場全体が彼女の遊び場のように見えた。
「こんなとこで何するんだ?」
蒼真が戸惑いながら尋ねると、紅葉はくるりと振り返り、彼の手をぎゅっと握った。
その勢いにたじろぎつつ、蒼真は彼女に引きずられるように売り場の奥へと進む。
「ね、蒼真くんにさ、私に似合う服を選んでほしいなって」
「え⁉ お、俺が? いや、ちょっと待て。俺、ファッションとか全然疎い方なんだけど」
蒼真は慌てて手を振った。
蒼真の普段の私服姿といえば、ジーンズに黒Tシャツ。あとは、せいぜいパーカーくらいだ。
服のセンスなんて皆無なのである。
そんな大役を急に振られても頭が真っ白になる。
だが、紅葉はそんな蒼真の困惑をまるで意に介さない。
紅葉は目をキラキラさせ、恋愛漫画のヒロインのような口調で続ける。
「いいじゃん! 恋愛の鉄則って、好きな人に服を選んでもらうことなの! ほら、来月から六月だし、夏っぽい感じのやつがいいな」
その言葉に、蒼真の頬がほんのり熱くなる。
好きな人、なんて言葉がさらっと出てくる紅葉のノリに、なんだかドキッとしてしまう。
紅葉の挑戦的な笑顔に押され、蒼真は目の前に広がる洋服の海に目を向けた。
ワンピース、ブラウス、ショートパンツ……どれも紅葉の明るい雰囲気に似合いそうで、どれを選べばいいのかさっぱりわからない。
蒼真の脳内は霧に包まれたようにモヤモヤしていた。
「夏服、か……」
ふと、蒼真の視線が一着の水色のサマードレスに留まった。軽やかな生地に、控えめな花柄が施されたデザイン。
紅葉の笑顔にぴったりな気がして、思わず見入ってしまう。すると、横から紅葉がひょいっと覗き込んできた。
「ほぉ~、蒼真くんってこういう系が好みな感じ? なかなかやるじゃん! これ、私に似合いそうって思ったんでしょ?」
「いや、ちょっと待て! まだ決めたわけじゃ――」
蒼真は慌てて否定したが、紅葉はすでにそのサマードレスを手に取っていた。
彼女は水色のサマードレスを自身の体に当てる。
「この水色、いい感じじゃない? 蒼真、どう思う?」
紅葉の声に、蒼真は少し考えてから口を開いた。
「うん、悪くないと思うけど。涼しげで、紅葉に合いそうかも?」
その言葉に、紅葉の顔がぱっと明るくなる。彼女はくすっと笑い、蒼真をからかうような口調で言った。
「へえ、蒼真って意外とセンスあるじゃん! なんか、プロのスタイリストみたい!」「それはちょっと大げさだよ……」
蒼真は照れ隠しに頬をかきながら、内心少しドキドキしていた。
紅葉の何気ない一言が、妙に心をくすぐる。彼女は水色のドレスを手に、スキップするように試着室へ向かった。
「じゃ、ちょっと着てみるから待ってて!」
「え、うん、わかった。でも、他の服はいいの?」
「うん、今はこの服でいいかな! 後は着てみてから考えるって感じで!」
紅葉の声は弾むようで、この瞬間を心から楽しんでいるようだった。
蒼真は試着室の前で待つ間、彼女の背中を見つめながら、なぜか胸がざわついた。
どんな服を着ても、紅葉はきっと眩しく映るだろう。
でも、結果として彼女が喜んでくれたのなら――それだけで、なんだか特別な気がした。
最近、紅葉と過ごす時間がどんどん増えていた。
元カノの朔菜との別れは、確かに蒼真の心に重い傷を残した。でも、紅葉と一緒にいると、その傷が少しずつ癒えていくようだった。
紅葉のちょっとオタクっぽい一面――アニメやゲームの話で熱く語り合う瞬間――は、蒼真に純粋な楽しさを思い出させてくれる。
しばらくして、試着室のカーテンが勢いよく開いた。
「蒼真くん、こっち! 見て見て!」
紅葉の声に、蒼真は慌てて振り返る。
そこには、水色のサマードレスをまとった紅葉が立っていた。
ふわりとしたスカートが彼女の動きに合わせて揺れる。
蒼真は一瞬、言葉を失って見とれてしまった。
「どう? 似合ってる?」
紅葉が少し照れながら、くるっと一回転してみせる。
蒼真は少しどもりながらも、素直に答えた。
「凄くいいよ。めっちゃ……似合ってると思うよ」
「ほんと⁉ やった! じゃあ、これに決定ね!」
紅葉は満面の笑みで頷き、試着室のカーテンを閉めて着替えに戻った。
やがて制服姿に戻った彼女は、サマードレスを手にレジへ向かったのだ。
買い物を終えた二人は、デパートを後にし、街中のバス停で別れた。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。こんな時間が、なんだかとても大切に思えた。
夜七時少し前。蒼真はバスを降り、自宅の玄関にたどり着いた。ドアを開けると、リビングから妹の
普段は少し無口な彼女だが、今日はどこか真剣な雰囲気を漂わせている。
「兄さん、ちょっと話したいことあるんだけど」
凛音の声はいつもより低く、どこか探るような響きがあった。
蒼真は少し身構えながら答えた。
「ん? なに、急に」
凛音は唇を軽く噛み、意を決したように口を開いた。
「兄さん、朔菜さんと別れたの?」
その言葉に、蒼真の心臓がドクンと跳ねた。妹の鋭い視線に、思わず目を伏せる。過去の記憶が、胸の奥でざわめき始めたのだ。
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