第32話 天海悟

あの時の光景は、今でも覚えている。

部屋に鳴り響く怒声、テーブルに叩きつけられる離婚届。

私はされるがまま、それにサインをしてしまった。それで初めて、私は自分の不甲斐無さに気がついた。


でも、そこから頑張ったんだ、俺は。娘二人を押し付けられ、二人を養うために就職をした。妻ともよりを戻した。

そう、そのはずだ。そのはずなのだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


その空間一面は闇に包まれていた。

何も見えない、何も聞こえない。

その中を私は進む。

それは何故? そんなこと、私が聞きたい。


「うっ!」

鋭い痛みが脳を迸る。

俺は額を押さえ、地に膝をつく。


直後に、一つの映像が浮かんできた。


打撃音の後に、右拳に少し痛みが走る。

目の前には、頬を赤く腫らし、目に涙を溜めている瀬奈。その後ろで怯えている杏。



俺は首を振る。

こんな悪趣味な映像を振り払うために。


「?」

今のは、何だったのか。

単なる私の、妄想?

いや、しかし、直近で瀬奈に対して怒りを覚えた様なことは……


「クっ!!」


再び脳内がズキズキと痛みだす。

今度はその場面が、音声付きで再生された。


「黙れよニート!! お前のせいで、お前のせいで母さんは……! 何が門限だ! こんな時だけ父親面しやがって!」

「ウッ! 何しやがるてめぇ! おい、杏、離せよ! 千発ぐらいは殴らないと気が済まねぇ!」

「ああそうだよ、寝たよ。てめぇの百倍はイケてる男とな! 何か文句あっか?」

「てめぇ、母さんの気も知らないで! 

ぶっ殺す!」

「今日、杏の小学校で授業参観があったの、知ってたか? 知るわけねぇよなあ、お前はもう私たちの親でも何でも無ぇし。まぁ、行ってたら行ってたで私はてめぇを、いや、そうしたら色々と面倒なことになるか。とにかく、もうこれ以上私たちには関わるな、クソが」



「ウ、オエ」 

腹の底から、湧き上がってくるものがあった。

それは止まることを知らず、床に吐瀉物を吐てしまう。


何だこれは? これが本当にあの瀬奈か? 確かにあいつは思春期だ。でも、こんな……

いや、俺も何なんだ。感情的になって、殴って、おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしい。


そう、これは全て夢なんだ。

全て夢。何もかもが嘘。

だけど、あの映像は妙にリアルで……

考えても仕方無いだろ。瀬奈が、俺があんなことをするわけが無い。





「杏と瀬奈ほな、もう死んだんだよ!」


その時、この空間の奥深くから、少年の叫び声がした。声は反響し、私の耳に届く。

そんなことを、言った少年がいた。そいつは確か、ここに来て、それで、急にキレて……


いや、何を言っているんだ俺は。そんな奴はいない、俺の気のせいだ。


「お前が親として最低だったからな!」


違う! 俺は、親としての責務は果たしている。

確かに、一時期俺は最低だった、でも!


「いい加減認めろよ」


何を、クソ、何なんだ、この声は。脳内でガンガンと響いて……


「二人が生きているのは……」


やめろ、やめろ!


「お前の」





「やめろぉ!!!」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「はぁ、はぁ」

ほら、やっぱり夢だ。

あんなことあるはずが無い。

さぁ、体を起こして、少し落ち着こう。

多分今日は疲れていたんだ。それであんな悪夢を……

って、何故私はあの夢を覚えている?

夢っていうものは大概朧げなものだ。

なのに、俺はそこで見たもの、聞いたものを、吐き気がするほど良く覚えている。

……偶々だ。気にすることは無い。

でも……


引っ掛かる。一体あの少年は?


「杏と瀬奈はな、もう死んだんだよ!」


馬鹿な。そんな訳が無い。

でも、喉に魚の小骨が刺さったかの様に、気になってしょうが無い。

知ってはいけない気がする。でも、この不安を拭うためには知るしか無い。しかし、これを知ってしまったらもう後戻りができないかもしれない。


「ふぅ、良し」

私は布団から起き上がり、部屋の明かりをつける。そして、肩を少し震わせながら、扉へと足を運んだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


杏の部屋の前。

ここには、就寝中の杏がいるはずだ。

確信というより、それは当たり前のこと。でも、今は杏が存在するという当たり前でさえ、信じることができなくなっている。

だから、確かめる。

起こしてしまったら悪いが、今は確認しなければ安心して床にも入れないと自分を説得し、ドアノブに触れる。

後は簡単だ。時計回りに回してから少し押せば、扉は開く。

それだけだ。その作業には十秒もかからない。

でも、俺の手は震えていた。

いや、全身が震えている。

娘の存在を疑う、そんな情けない自分のことが嫌いだ。こんなだから、一時期は妻に見限られたのだろう。


俺はドアノブを捻ろうとする。でも、手は一向に動かない。

少し手を捻るだけ、だけなのに、体はそれを必死で拒否している。


息が荒くなる。

まさか、疑っているのか、俺は?

ジッとしていられない。極度の緊張状態で、心臓がバクバクと言っている。


「はぁ、はぁ」


動け、動けってんだよチクチョウ!

何故動かん!

そんなに怖いのか?

大丈夫だ、そこには日常がある。


小学生だからって、最近買ってやった勉強机。その上にはドリルやら教科書やらが並んでいて、可愛らしいアニメキャラクターの文房具もあって。そして、ピンク柄のメルヘンチックな貯金箱がポツンと置いていて、縫いぐるみとかもあったりしてさ。

杏はさ、可愛い寝息を立てて、熟睡してるんだ。偶に寝言呟いたりして、よだれとかも垂らしているかもしれない。それでさ、おねしょとかもしちまうんだよ。変だろ、もう小学生なのに。そしたらさ、俺が父親としてしっかりと叱って、母さんが慰めて。

そうだ、棚の中にテスト用紙とかも隠してるかもしれない。小学生だからさ、結果の振るわなかったやつをクシャクシャにしてさ。それを見て、俺が隠すこと無いのにって呆れて、汚い字を見て頑張って書いたんだなって微笑ましくなってさ。

そういえば、杏の誕生日ってそろそろだよな? こう、デカいホールケーキを買って、母さんが杏の大好きなシチュー作って、瀬奈がなんだかんだプレゼントを買っていて、それを弄って、笑って、二人の成長を染み染みと感じて、悲しくなって、でも嬉しくなって、それで……


それで……


八月以降の予定が、何も思い浮かばない。

色々、あるはずだ。あるはずなのに。

記憶の箱からありったけをかき集めても、見つからない。

「っ!」

膝から崩れ落ちる。それと同時に、ドアノブからも手を離してしまった。


こうすることでしか、日常を守れない様な気がしたから。

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