第32話 天海悟
あの時の光景は、今でも覚えている。
部屋に鳴り響く怒声、テーブルに叩きつけられる離婚届。
私はされるがまま、それにサインをしてしまった。それで初めて、私は自分の不甲斐無さに気がついた。
でも、そこから頑張ったんだ、俺は。娘二人を押し付けられ、二人を養うために就職をした。妻ともよりを戻した。
そう、そのはずだ。そのはずなのだ。
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その空間一面は闇に包まれていた。
何も見えない、何も聞こえない。
その中を私は進む。
それは何故? そんなこと、私が聞きたい。
「うっ!」
鋭い痛みが脳を迸る。
俺は額を押さえ、地に膝をつく。
直後に、一つの映像が浮かんできた。
打撃音の後に、右拳に少し痛みが走る。
目の前には、頬を赤く腫らし、目に涙を溜めている瀬奈。その後ろで怯えている杏。
俺は首を振る。
こんな悪趣味な映像を振り払うために。
「?」
今のは、何だったのか。
単なる私の、妄想?
いや、しかし、直近で瀬奈に対して怒りを覚えた様なことは……
「クっ!!」
再び脳内がズキズキと痛みだす。
今度はその場面が、音声付きで再生された。
「黙れよニート!! お前のせいで、お前のせいで母さんは……! 何が門限だ! こんな時だけ父親面しやがって!」
「ウッ! 何しやがるてめぇ! おい、杏、離せよ! 千発ぐらいは殴らないと気が済まねぇ!」
「ああそうだよ、寝たよ。てめぇの百倍はイケてる男とな! 何か文句あっか?」
「てめぇ、母さんの気も知らないで!
ぶっ殺す!」
「今日、杏の小学校で授業参観があったの、知ってたか? 知るわけねぇよなあ、お前はもう私たちの親でも何でも無ぇし。まぁ、行ってたら行ってたで私はてめぇを、いや、そうしたら色々と面倒なことになるか。とにかく、もうこれ以上私たちには関わるな、クソが」
「ウ、オエ」
腹の底から、湧き上がってくるものがあった。
それは止まることを知らず、床に吐瀉物を吐てしまう。
何だこれは? これが本当にあの瀬奈か? 確かにあいつは思春期だ。でも、こんな……
いや、俺も何なんだ。感情的になって、殴って、おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしい。
そう、これは全て夢なんだ。
全て夢。何もかもが嘘。
だけど、あの映像は妙にリアルで……
考えても仕方無いだろ。瀬奈が、俺があんなことをするわけが無い。
「杏と瀬奈ほな、もう死んだんだよ!」
その時、この空間の奥深くから、少年の叫び声がした。声は反響し、私の耳に届く。
そんなことを、言った少年がいた。そいつは確か、ここに来て、それで、急にキレて……
いや、何を言っているんだ俺は。そんな奴はいない、俺の気のせいだ。
「お前が親として最低だったからな!」
違う! 俺は、親としての責務は果たしている。
確かに、一時期俺は最低だった、でも!
「いい加減認めろよ」
何を、クソ、何なんだ、この声は。脳内でガンガンと響いて……
「二人が生きているのは……」
やめろ、やめろ!
「お前の」
「やめろぉ!!!」
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「はぁ、はぁ」
ほら、やっぱり夢だ。
あんなことあるはずが無い。
さぁ、体を起こして、少し落ち着こう。
多分今日は疲れていたんだ。それであんな悪夢を……
って、何故私はあの夢を覚えている?
夢っていうものは大概朧げなものだ。
なのに、俺はそこで見たもの、聞いたものを、吐き気がするほど良く覚えている。
……偶々だ。気にすることは無い。
でも……
引っ掛かる。一体あの少年は?
「杏と瀬奈はな、もう死んだんだよ!」
馬鹿な。そんな訳が無い。
でも、喉に魚の小骨が刺さったかの様に、気になってしょうが無い。
知ってはいけない気がする。でも、この不安を拭うためには知るしか無い。しかし、これを知ってしまったらもう後戻りができないかもしれない。
「ふぅ、良し」
私は布団から起き上がり、部屋の明かりをつける。そして、肩を少し震わせながら、扉へと足を運んだ。
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杏の部屋の前。
ここには、就寝中の杏がいるはずだ。
確信というより、それは当たり前のこと。でも、今は杏が存在するという当たり前でさえ、信じることができなくなっている。
だから、確かめる。
起こしてしまったら悪いが、今は確認しなければ安心して床にも入れないと自分を説得し、ドアノブに触れる。
後は簡単だ。時計回りに回してから少し押せば、扉は開く。
それだけだ。その作業には十秒もかからない。
でも、俺の手は震えていた。
いや、全身が震えている。
娘の存在を疑う、そんな情けない自分のことが嫌いだ。こんなだから、一時期は妻に見限られたのだろう。
俺はドアノブを捻ろうとする。でも、手は一向に動かない。
少し手を捻るだけ、だけなのに、体はそれを必死で拒否している。
息が荒くなる。
まさか、疑っているのか、俺は?
ジッとしていられない。極度の緊張状態で、心臓がバクバクと言っている。
「はぁ、はぁ」
動け、動けってんだよチクチョウ!
何故動かん!
そんなに怖いのか?
大丈夫だ、そこには日常がある。
小学生だからって、最近買ってやった勉強机。その上にはドリルやら教科書やらが並んでいて、可愛らしいアニメキャラクターの文房具もあって。そして、ピンク柄のメルヘンチックな貯金箱がポツンと置いていて、縫いぐるみとかもあったりしてさ。
杏はさ、可愛い寝息を立てて、熟睡してるんだ。偶に寝言呟いたりして、よだれとかも垂らしているかもしれない。それでさ、おねしょとかもしちまうんだよ。変だろ、もう小学生なのに。そしたらさ、俺が父親としてしっかりと叱って、母さんが慰めて。
そうだ、棚の中にテスト用紙とかも隠してるかもしれない。小学生だからさ、結果の振るわなかったやつをクシャクシャにしてさ。それを見て、俺が隠すこと無いのにって呆れて、汚い字を見て頑張って書いたんだなって微笑ましくなってさ。
そういえば、杏の誕生日ってそろそろだよな? こう、デカいホールケーキを買って、母さんが杏の大好きなシチュー作って、瀬奈がなんだかんだプレゼントを買っていて、それを弄って、笑って、二人の成長を染み染みと感じて、悲しくなって、でも嬉しくなって、それで……
それで……
八月以降の予定が、何も思い浮かばない。
色々、あるはずだ。あるはずなのに。
記憶の箱からありったけをかき集めても、見つからない。
「っ!」
膝から崩れ落ちる。それと同時に、ドアノブからも手を離してしまった。
こうすることでしか、日常を守れない様な気がしたから。
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