第2話 兵站の綻び
夜明け前に火鉢を起こす。湯気が立つ前の静けさは、数字に似ている。今日が何刻にどこへ傾くか、薄く輪郭が見える。
枡を置く音が連続して店に入ってきた。米問屋の使いが肩で息をしながら袋を降ろす。袋の口に押された印は「丹」。丹波の印だが、手触りの密度が足りない。枡を入れてみると、ぴたりと平にしたはずの表面が、少し沈む。糠が混じっている。
「このところ詰めが甘いね」と女将が笑いで包むと、使いは額の汗を袖で拭った。「詰めじゃない、詰まらんのだ。旦那衆が倉を開け渋る。上からの御用が重くてね」
「上って誰さ」
「誰でもないさ。誰でもないけど、皆、同じ方を向いてる」
使いは言い残し、肩を回して出ていった。枡の縁を指でなぞる。糠のざらつき。米は町を動かす血液で、詰まりは必ず別の場所で破れる。
昼前、鍛冶屋の若いのが釘の束を抱えて入ってきた。「湯を一杯」
掌を出したとき、皮膚の端に焼け跡が新しい。炉の火に顔を寄せる時間が長かったのだろう。俺が湯を置くと、若いのは釘を半分、帳場の脇にそっと置いた。
「それは?」
「納品のついでさ。梯子釘、急ぎで百束。名前は出せないって言うから、うちは受けたふりで貸しを作る」
「どこへ」
若いのは舌で唇を湿らせた。「寺方。……いや、寺に入る手前のどこか」
梯子釘。長物をしっかり噛む太い釘。足場。上に行く道具だ。俺は釘の重さを片手で持ち上げる。均一、雑音なし。最近の打ち。
午後、油屋の職人が二人、空の小樽を転がしていった。菜種油の匂いが路地に帯を作る。女将が目で問いかけると、職人は肩を竦めた。「寺々で法会が続くんだと。灯がいる」
「法会なら蝋でいいでしょうよ」
「蝋は足がつく。油は天気次第でにおいが消える」
においは消えない、と心の中でだけ返す。木と紙の建物に、油は道を示す。
帳場の合間を縫って、俺は外を歩いた。歩幅を固定し、通りの端から端まで何歩か数える。歩数は距離、息の上がりは勾配。雨戸の反射で太陽の角度を読む。寺の鐘の音は東より少し北に硬く響く。本能寺までの道、裏道、横町の抜け。女将に使いを頼まれるたびに、違う道を選び、時間を刻む。
河原の近くで、古着屋が半纏を紐で括って干していた。柄は火消し。紐は新しい。店主は「絵になるからよ」と笑ったが、汗の塩が白く残る袖を俺は見た。着て、動いて、すぐ干した。練習の汗だ。
夕方、常連の商人が再び現れた。袖口がわずかに膨らんでいる。紙が一枚。昨日と同じ、俺に控えを頼む合図だ。
巻紙は短い文を連ね、最後に小さな記号。先日とは違う符牒。気づく者だけが気づく、誰かの合図。地名、人名、数量。最後の行に「西二条」。そして別の紙片に、油一斗、釘五束、麻縄二十。
麻縄。梯子の横木を結ぶには足りず、引きに使うには多い。寺の塀を越えるには、重りが要る。重りは——人数だ。
「忘れな」
「忘れました」
商人は茶を飲み干すと、黙って出ていった。出ていく背中は、軽く浮いている。靴の底が地面を拒む歩き方。準備が整った者の足取りだ。
夜、路地の先で笛の音が短く鳴った。二度、三度。合図ではなく、試し吹き。笛の音は、音頭がないと長く保たない。誰かが人を集める役割を担い、声を出す前に息の具合を確かめた。
茶屋に戻ると、女将が湯を足しながら言った。「新吉、明日の明け方、湯を多めに。旅の人が増えるよ」
「どこへ行く旅ですか」
「知らない旅さ。誰も行き先を書かない旅」
奥の座敷で、連歌師が短い歌を置いていった。「乾ききし 町の軒先 風を待つ」
言葉は遊びで、空気は本気だった。
夜半、裏口から裏路地を抜け、本能寺の周囲を一度だけ回った。門の前の石はまだ冷たい。塀の外の地面に、細い擦り傷が幾筋も走っている。荷を下ろすときについた跡。新しい土は、爪で掻けばすぐに匂いを上げる。今夜、誰かがここに荷を置いた。木と油の匂いが重なり、風下に細く伸びる。
俺は門に手を触れなかった。触れれば、つい叩きたくなる。叩けば、目が集まる。観測者は、風のように通り過ぎるだけでいい。
戻り道、橋のたもとで、若い連絡役が膝に手を置いて息を整えていた。顔を上げた瞬間、目が合う。互いに何も言わない。彼は立ち、走り去った。足の運びが、もう怯えの段階を過ぎている。覚悟は、体に出る。
茶屋に戻ると、女将が灯を落としていた。「眠りな。明日はきっと忙しい」
「はい」
布団に背を落とし、呼吸を浅くする。耳が街を拾う。遠くの笑い声、戸の開閉、犬の爪音。どれもいつもの音に似ているのに、下に薄い緊張の膜がある。弦を張り替えたばかりの琵琶みたいに、触れずとも鳴りたがっている。
俺は目を閉じ、頭の中の地図を、最後に一度だけ組み直した。茶屋から本能寺までの三つの道。油の匂いが濃い路地。梯子釘を運ぶには広すぎ、隠れるには狭すぎる角。夜明けの卯の刻には、どの角でどんな影が伸びるか。
未来へは行けない。だから、明日の朝を待つ。
俺は介入しない。観る。数字のように、温度のように。
そして、覚える。燃え方、走り方、沈黙の仕方。
“空想”と笑われても、俺は見たと言うために。
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