逆行論文 ― 品川コウの不可視事件録 ―

蒼空

本能寺編

第1話 [本能寺編]前夜の街


本能寺は燃える。首は出ない。

そうと知っていて、俺は何もしない。

過去にだけ遡れる──2105年の逆行者、品川コウ。持ち帰れるのは体験と記憶だけ。論文にすれば「空想」と笑われる。けれど真実はいつも過去にある。だから行く。


天正十年六月二日へ向かう数日前の京は、油と紙と木が乾いた匂いで満ちていた。鐘が一打、ひと息遅れて鳴る──その一拍で世界は裏返る。俺の役目はただ観測すること。温度と角度と動線だけを、皮膚の下に刻む。救える誰かがいても、歴史の川に石は投げない。


油小路の角、小さな茶屋の暖簾が朝風に揺れる。算盤と筆が要る場所は、情報が集まる場所だ。俺はそこへ滑り込み、町の呼吸を測るつもりでいた。


「兄さん、働き口かい?」


そう声をかけてきたのは、油小路の角に暖簾を出す小さな茶屋の女将だ。俺は姿勢を低くして、笑ってみせた。


「帳場の手伝いなら、算盤は少し。字も書けます」


「へえ、字が書けるのはありがたいよ。名前は?」


「新吉と申します」


この時代の俺の名だ。短く、呼びやすく、消えやすい音。


茶屋は武家の出入りが多かった。外の空気は湿っていたが、店の中は乾いていた。干し草みたいに、よく燃える気配がする。壁の内側に塗られた油、磨かれた柱、張り替えたばかりの障子。数日観察するだけで、火の通り道はいくつも見つかった。


俺の仕事は帳場の端で釣り銭を数え、出入りの顔と声を覚えることだ。背の高い槍持ちが二人一組で来る日、茶櫃を背負った若い衆が西へ急ぐ夜、駕籠の簾の向こうで小さく咳をする誰か。噂は湯気と一緒に立ちのぼる。


「丹波の米が遅れてるってさ」「明智の所領はこの頃やたら静かだ」「いや、静かなのが怖いんだよ」


茶を出しながら、女将がこぼす。「米問屋の旦那、今朝はえらく機嫌が悪かったわ。御譜代様の御用が、ここんとこ重なってるんだと」


兵站の歪みは、町場の小言に顔を出す。俺は耳に引っかかった単語を、心の中の帳面に書き込んでいく。紙は使わない。持ち帰れないものに頼る癖は、とうに捨てた。


夜半、常連の商人がふっと俺に目をやった。「坊主、字が書けるんだったな。これ、手早く控えといてくれ」


差し出されたのは、細い巻紙。店先の明かりだけでは読みづらい。灯心の影が踊る。品書きの裏を借り、帳面の体裁に転記する。地名と数量、そして人名。別の行には、短い詫びと日付。詫びの相手の名は——読める。京にいる間に、何度も耳にした名だ。


書き終えて巻紙を返すと、商人は小さく頷いて袖にしまった。「今のを忘れな。忘れるのが商売だ」


「はい、忘れました」


忘れたふりをする技術だけは、長けている。俺は忘れない。忘れてはいけない。


その夜、茶屋の裏手の路地に、小走りの足音が続いた。二人。軽い草履と、もう一人は足袋の底が厚い。曲がり角で一瞬、灯りが顔を撫でる。若いのは使い、もう一人は旅支度に近い。二人とも、顔の筋肉が固い。誰かに見られることに慣れていない。


あとをつけるのは簡単だ。離れすぎず、近づきすぎず。雨樋の影、格子戸の隙間。彼らは裏長屋のさらに奥で立ち止まり、低く囁いた。


「——二日の卯の刻、間違いないのか」


「遅れはない。西の道に人を引く手筈。寺の内は、思ってるほど堅くない」


卯の刻。夜明け前。ふたりの声は震えていなかった。決めた者の声だ。彼らが去ったあと、狭い空に風が通った。屋根の縁で油の匂いが輪を描く。雨は降っていない。京の空気は、乾いていた。


翌日から、町はわずかに高ぶった。言葉に出さない高ぶりだ。大通りで粗末な槍が増え、古着屋の前に紐が張られ、火消しの半纏が軒に干される。女将は俺に言った。「蛭子さんとこへ湯を持ってって。ついでに豆腐一丁、裏の桶から取ってきな」


桶は軽かった。水が少ない。井戸端で、俺は吊瓶を二度落とした。水面の匂いが薄い。雨が遠いのだ。乾いた町は、火の準備ができている。


茶屋に戻ると、旅の坊主が遅い昼をすすっていた。旅装、質素な鉢。よく晴れた日の坊主は、旅人より旅人らしい。


「兄さん、この辺りに寺は多いのかい」


「ええ、少なくは」


「焼けたら、早いだろうな」


坊主は、あくまで世間話として言った。俺は微笑んで茶を足す。客は、時々ほんとうのことを言う。


この数日で、俺の中の座標が揃いはじめた。補給線のねじれ、人の出入り、空気の乾き、油の匂い。密書の行き先。夜明け前に起こること。俺がやるべきことはただ一つ——観ること。介入しないこと。手を伸ばせば、誰か一人くらい救えるのかもしれない。だが歴史は川で、俺は石ではない。石になってはいけない。


閉店後、女将が帳場の蝋燭をふっと吹き消した。「明日は早いよ。夜明けより前に湯を沸かす。町は、慌ただしくなるからね」


「はい」


「新吉。あんた、時々ずっと遠くを見てる顔をするね。ああいう顔は、長旅の人だけがするもんだよ」


「ええ。少し、遠いところから来ました」


言葉は真実で、意味は嘘だ。女将は笑って、暖簾を畳んだ。外に出ると、星がいくつか見えた。薄い雲の合間、白い点がかろうじて瞬く。火は酸素を食う。夜の空気は軽く、よく燃える。


俺は茶屋の裏口を閉め、背中で板戸の冷たさを受け止めた。掌を開いて、閉じる。何も持ち込まない。何も持ち帰れない。残るのは見たことだけだ。


“空想”と笑われても、俺は見た——そう言うためだけに、ここまで来た。

明け方、京は乾いた音で目を覚ますだろう。俺はその瞬間を、数字のように、温度のように、切り分けて記憶する。堂内の気流、梁と障子、畳の下で走る炎。

観測者は、祈らない。だが、息を止めるくらいはする。


遠くで、犬が一声吠えた。夜が傾いた。

前夜は、静かだ。静かなものは、よく燃える。

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