第9話
ばあちゃんは、急須の蓋をそっと戻し、湯飲みに緑茶を注いだ。「杜の町」茶の渋みのある深い香りが立ちこめる。
覚悟を決めた僕は、ばあちゃんに神殿を貸してくれないか? と頼んだ。ばあちゃんは僕をじっと見た。
「そう言ってくるのを待っていたんじゃよ」
お茶をひと口飲み終えると、黙って立ち上がり隣の部屋へ向かった。しばらくして戻ってきたばあちゃんの手には、桐の箱が抱えられていた。
僕の目の前にそれを静かに置くと、「開ける時が来た」とでも言うかのように深く頷いた。
恐る恐る蓋を開けた。すると、淡い白の装束が、丁寧に畳まれて入っていた。
「これは?」
「昔、交神者が着ていた装束じゃ。男性の者が現れるまで、預かっていた」
僕はその装束を、両手でそっと持ち上げた。神主さんが、神様にお仕えをする時に身に付ける衣装だ。ほんのりとお香の匂いが漂った。代々、大切に受け継いできたのだろう。
僕は、装束の重みを、ゆっくりと胸に引き寄せた。これまでの「交神者」や依頼者の想いが詰まっているようだった。
「依頼主の深沢さんの話を聞いたんだ。妹を思う気持ちに動かされた。僕はもう、迷ってない」
「明生に任せる。継ぐべき人じゃよ」
ばあちゃんは、曇りのない顔で僕に託してくれた。
僕にできることは「神様の声を写すこと」ではなく、「人と人の想いを繋ぐこと」だ。時代が変わって、方法が変わっても、「会えなくなった人から言葉を届ける」役割は変わらない。
僕は、部屋に戻って静かに装束に袖を通した。柔らかく、でもどこかシャキッとした質感が体を包む。神聖な気持ちになる。
鏡に映った自分が、別人のように見えた。
装束を身に付けた僕は、ばあちゃんから鍵を受け取り、充電をしておいたPCを抱えて歩き出した。慣れない足袋と草履は気持ちを引き締めてくれた。
夜風が心地良い。遠くからも、近くからも、無数なる蛙の声がマントラのように迫ってくる。
朱色の大きな鳥居の前で身を正し、深々と二拝し「交信者として後を継いだ、天野明生です」と名乗った。
深呼吸をして、境内に入る。これまでに感じたことのないピリッとした空気感に、責任の重さを感じる。でも僕には、負けない意志がある。
神殿の中は、昼間の暑さが嘘のようにひんやりとしていた。
正面の神坐かみくらには、先日と同じように榊さかきと、木の棒に紙垂しでと呼ばれる紙を挟んだ御幣ごへいが供えられ、その中央には丸い大きな鏡が祀られている。僕は、神坐の正面に正座をし、畳に手を付いて深々と二拝した。
そして、神坐の端に置かれた号鼓ごうこの前に立つ。バチを両手に持つと、一拍ずつ力強く響かせる。ダン・ダン・ダダン、太鼓のリズムは徐々に速くなり、辺りには神聖な空気が立ちこめた。畳の間に移動すると、おもむろに座卓の上に配したPCの前に座す。
二拝二拍手一拝をしてからキーボードに指を置いた。目を閉じた瞬間、窓もドアも締め切っているのに風が吹いた。前方が眩しく輝き出した。神坐かみくらに光が降り注いでいるのだろう。
そして、僕の指は勝手に動き始める。目を開けようとすると指は止まる。開けようとしても眩しすぎて開けられない。目を閉じようとすると指は何かの指令を受け取っているかのように再び動く。ならば僕は、指が止まるまで待とうと思った。目を閉じたまま、浮かんで来るのは、祥子さんと亜未さんの幼い頃の様子だった。
「もしかして、これは『交神者』になっている瞬間なのかもしれない」
頭によぎったところで自動筆記は終了した。外から聞こえる湿った低音のマントラは、一瞬鳴り止んで、再び始まった。
ほの暗い明かりの中で、PCに記された文章を読むと、我ながら驚く内容が記されていた。亜未さんの言葉が、僕を通して綴られているようだった。
翌朝、祥子さんと真帆先輩に、五國神社の境内まで来てもらうことにした。鳥の声だけが響く、まだ誰もいない境内で、僕は二人を待っていた。
静寂の中に、参道の玉砂利を踏む音が聞こえた。二人が境内に到着したのだろう。
「明生、ありがとう」
そう言って、真帆先輩が微笑んだ。僕はまだ何も伝えていないのに……。隣にいる祥子さんは、どこか緊張しているようだった。二人とも、いつもとは少し様子が違って見えた。
「では、どうぞ神殿の方へお入りください」
二人を神坐に面した畳の間に案内すると、奥の部屋で装束に着替えをした。装束姿で静かに歩いて行くと、真帆先輩も、祥子さんも驚いた様子だったが、神妙な面持ちのままだった。
僕が正面に正座をすると、二人も正座に改めた。
「こちらが亜未さんからのお手紙です」
両手で手紙を差し出した。
「僕が考えた内容ではありません。昨夜、自動筆記が起こったのです」
「自動筆記?」
真帆先輩は、小さく叫んだ。
「僕が目をつむっている時だけ、指が勝手に動いて文字をタイピングしてくれるのです」
「それって、神様からの御神託だ」
真帆先輩は、目を大きく見開いて僕の顔をまじまじと眺めた。
祥子さんは、封を開けて静かに手紙を読んでいる。次第にその瞳には涙が溜まり、こらえきれずにその雫はぽろぽろと流れていった。
「亜未、私のこと、こんなに考えてくれていたなんて......。気付かなかったの。ありがとう......」
読み終わると、涙に濡れた手紙を真帆先輩に渡した。真帆先輩は、大切そうに受け取ると信じられないといった表情で読み進めている。二人の気持ちが、手紙を読みながら静かに変化しているのが伝わってきた。二人のあたたかい感情が、僕にも流れてきた。
***
祥子ねえへ
姉ちゃん、あの頃私は、死の恐怖を前に、自分を保つことができなかった。だから、姉ちゃんを悲しませてるってわかっても、自分をコントロールすることもできなかった。わがままな私で、ごめん。
自分がやりたいことができる体ではなかったの。姉ちゃんがよく作ってくれた、ふわとろオムライスを食べたい、幼い頃、家族でよく出掛けた「虹の島遊園地」で、姉ちゃんとコーヒーカップに乗りたいって言っても、それは既に叶わない夢だった。だから、姉ちゃんを避けてた。
だって、こんなことを話したら、姉ちゃんはなんとかして叶えてくれようとするでしょ? でもそれが「叶わないと知る絶望」を味わって欲しくなかった。
姉ちゃんに言ってなかった「やりたかったこと」、彼氏を作って、デートして、年頃の女の子がするようなこと、いっぱいしたかった。でも、私の顔は赤い発疹で蝶の文様のように腫れてしまった。それが一番、悲しかった。
だから姉ちゃんにあの時、言ったんだよ。「私のことは忘れてもいい。だけど、私の分まで生きて、お願い」って。あの時、記者になりたかったって言った夢を、姉ちゃんは叶えてくれた。私もうれしい。
今、姉ちゃんの隣にいる人は、ぶっきらぼうで、不器用で、気難しい人に見えるかもしれない。でも姉ちゃんは、その人の本当の姿を知ってる。繊細で、心の優しい人。姉ちゃんは、その人と一緒にいると気が楽なんだね!
だから、私を気遣って一生独身でいようなんて思うのはやめて。その人と幸せになってくれたらいいなって思ってる。
私はいつも姉ちゃんのこと見守っているからね。
亜未
***
真帆先輩と祥子さんは、照れくさそうに見つめ合った。
「祥子さん、俺と結婚してくれないか」
真帆先輩は、神坐の前で突然、プロポーズをした。
祥子さんは、はにかんだ笑顔を浮かべて大きく頷いた。
「わかった。真帆くんを幸せにしてあげる」
僕がいることも忘れて、二人は誓いのキスをした。見ていられなかったから、二拝二拍手して、神様にお礼を言った。そしてもう一度拝んだ。
どこか照れ臭くて、でも、嬉しかった。
二拍手の音で、ようやく僕がいることを思い出した様子だ。
「明生さん、手紙でも、昨日の話でも伝えてないことがたくさん返事に書かれていた。いただいた返事は『亜未の言葉』だってわかる」
「明生、『神様』の方の『交神者』になったってわけだな」
真帆先輩は、驚きと歓びの混じった笑顔で僕を見た。
「自分でも信じられないんだ......。何が起こったのかわからない」
説明できない出来事の中で、ひとつだけ言えることがあった。
「真帆先輩と祥子さんのおかげなんだ。僕を『交神者』にしてくれたのは」
真帆先輩は、こらえきれない想いが溢れたように近づいて、そっと両手を僕の肩に沿えて、頭を下げた。
「ありがとう......。亜未の言葉を祥子に届けてくれて」
嗚咽している様子が、腕の震えから伝わってきた。
「どうしても届けたくなって、そのおかげで覚悟が決まりました」
そのとき、ばあちゃんが勢いよく扉を開けて入ってきた。驚いて振り返ると、肩で息をしながら僕たちを見つめている。
「明生、初任務は大成功じゃったようだね。今な、病院から連絡があったんじゃよ。じいちゃんが危篤じゃ。一緒に病院へ行ってくれんか?」
「じいちゃんが......危篤?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。じいちゃんは、きっと回復すると信じていた。そう信じていたのに......。胸の奥が、ふいに締めつけられるように痛んだ。
真帆先輩の優しい眼差しが、今にも崩れそうな心をかろうじて支えてくれた。
「明生、こんな時にごめん......」
病院へ行く前に、どうしても今、伝えたいことがあると真帆先輩が切り出した。
「明生からの返事は、『亜未さんの言葉』だった。だから、この町がやってることは『本物』だ」
ばあちゃんは安堵の表情を浮かべた。
「だから、『杜の町』を守るために約束してくれない? 『交神者』の仕組みは町の人だけの秘密にした方がいい。誰が手紙を書いてるか、わからない方が『ゼロ番地のポスト』の信頼度が上がる」
ばあちゃんは僕達に近寄って、真帆先輩の手を握った。
「あんた、やっぱりいい人だね。だから取材を受けたんだよ」
「それが、その......。カメラはほとんど回してなかったんです」
「そうじゃろうと思うとった」
ばあちゃんは、愉快そうに笑った。真帆先輩は照れ臭そうだった。
「私が体験談を書きます」
祥子さんが笑顔で答えると、ばあちゃんは「それで充分じゃよ」と言いながら祥子さんの背中をさすった。「初穂料はオンラインでも受付できるんじゃよ」ちゃっかり説明までしていた。
二人が「杜の町」に来てくれたことは、僕だけじゃなくて、町のためにもなっている。巡り合わせの縁を感じた。真帆先輩との溝もいつの間にか溶けてなくなっていた。
せっかく打ち解けた真帆先輩と別れるのは名残惜しく、連絡先の交換をした。
「それじゃあ、先輩、すいません。先に失礼します」
「おう、じいちゃんとこにすぐに行ってやれ」
「わかりました。またお二人で遊びに来てくださいよ」
「もちろん」
真帆先輩も祥子さんも、穏やかな笑顔を浮かべていた。
僕とばあちゃんは、大急ぎで軽トラに乗って、病院に駆けつけた。集中治療室のベッドの上にいたじいちゃんは、随分小さくなっているように感じた。そのくらい、何年も会っていなかった......。
じいちゃんは、親戚に囲まれて目を閉じていた。呼びかけても無反応だったじいちゃんが、突然、薄く目を開いた。
「なあ、明生……。じいちゃんが詫びてたって言ってくれんかあ、父ちゃんに」
つぶやいた言葉は思いも寄らないものだった。死を目前にして、昔のことを詫びたいと願っている。
「わかったよ、じいちゃん」
「澄子......。お前さんも、詫びてくれんか......」
ばあちゃんは難しい顔をしていた。
「謝ってくれたら父さんは、きっと前に進める」
僕は、思い切って口にした。するとばあちゃんの表情は少し和らいだ。僕も父さんに伝えたいことがある。
「そうじゃねえ、いつまでも意地を張っていても仕方がないわい。じいちゃんと明生の頼みじゃから」
「ばあちゃん、ありが......」
じいちゃんは、そのまま息を引き取った。
その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
集中治療室のモニターの乾いた音だけが、静かに響いていた。
僕は、心の中でそっと呟いた。
じいちゃん、ありがとう。
「杜の町」には、
きっと「相性」のようなものがある。
母さんや、父さんのように
町を離れていく人もいれば
僕のように招かれる者もいる。
それでこの町は、
役割や機密性を守ってきたのかもしれない。
僕に「バイトだ」って気軽に頼んできた母......。
短時間で時給がいいなんて言っていたけど
本当に託したかったのは、
トウモロコシの収穫ではない。
きっと僕に「この町の仕組みの跡継ぎ」として
期待をしていたんだろう。
「杜の町」を離れた者にも町への愛着が残っている。
今になってわかる。
──母は、ばあちゃんのことを赦していたんだ。
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