第40話「谷の縁」
風が一挙に鋭くなった。雪粒が斜めに走り、冷たい刃のように顔を叩く。
谷の縁に立った三人の影が、白の大地に黒い切れ込みを作る。マルタの祈祷の声はもう呪文というより宣告に聞こえ、イヴァの白い髪は乱れ、瞳は暗い光を放っていた。
「ここで終わるのよ、イヴァ」マルタの声は震えていない。
短刀の柄を握る手には、祈符が幾重にも巻かれている。
彼女は刃を空に向けて、ゆっくりと地に突き出した。儀式めいた所作は、雪原の沈黙をさらに沈める効果を持っていた。
イヴァは一歩も引かなかった。
彼女の姿勢は狩りのときのように低くて鋭く、まるで獲物を見る眼差しだった。
「あなたには分からない」と低く言い放つ。
言葉の端に諦観と、どこか冷たい蔑みが混じっていた。
言葉は痕跡も残さずに砕け、次に来たのは音そのものだった。
マルタが短刀を振るい、イヴァがそれをかわす。
金属音と、雪を踏む固い足音。
二人の身体がぶつかりあうたび、谷底に向かって空気が震える。
イヴァの動きは、人のものとは違う。
腕の振りは素早く、がっしりとした力が芯にある。
マルタは祈祷で防ごうとするが、実体の拳は容赦なく打ち込まれる。
刃が空を掠め、布が裂ける。
どちらが先に堪えるか、それだけが争点になっていった。
私はただ立ち尽くしていた。
胸の中の何かが、熱を帯びてくるのを感じる。
ルークの顔、血の匂い、蝋の白さ——それらがぐるぐると回り、焦点になって一つの形を作った。
恐怖は消えない。だが、それ以上に強いものがしなやかに立ち上がるのを感じた。
――彼女を、失いたくない。
マルタが再び刃を振るう。
イヴァはその腕をかいくぐり、肩を入れた。
身体がぶつかる。雪が四方に飛び散り、二人はもつれ合って谷の縁に近づいていった。
私はその距離が縮まるのを、息をするのも忘れて見ていた。
「やめて!」
私の声はどこか掠れていたが、二人には届かない。
イヴァの目の奥に、かつて見たことのある熱が走る。
彼女は必死に身を守り、同時に何かを守るように立っている。
マルタは祈りを呪文のように繰り返しながら、刃を振るう手に震えが混じる。
怒りと悲しみがその動作に付着している。
接触が一瞬途切れたとき、私は悟った。
ここで黙って見ていることはできない。
もしイヴァが倒れるなら、私の中で何かが最後に砕け散る。
理屈はもはや意味を持たない。
罪と真実と、裁きと救いは交錯するが、今、私の中で最も大きな声はただひとつだった。
咄嗟に、私は前に出た。
雪が膝を打ち、冷たさが皮膚を刺す。
心臓は耳の奥で暴れる。
イヴァとマルタの間に入り、腕を伸ばす。手は震え、唇は動かなかった。
行為は本能だった。
誰に教わったわけでもなく、ただ体が――私が――反応した。
その瞬間、世界がスローモーションになった気がした。
刃の光、祈りの言葉、イヴァの瞳の僅かな揺らぎ。
私の手がどちらかを留めるのか、あるいは結果を決定づけるのか。
谷の縁はすぐそこだ。
雪が柔らかく、誘惑のように沈む。
息が切れ、思考が途切れる直前、私はただ一つのことだけを確かめた。
――失いたくない。
そして、私の体は、咄嗟の行動へと滑り出した。
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