第41話「墜落」

空気が、一瞬で薄くなった気がした。雪粒が斜めに切れ、風が谷の縁を撫でる。私は二人の間で何かが弾けるのを感じた。刃が、布が、そして足が交錯した。マルタの祈りは今や叫びになり、イヴァの目は──いつもと違うほどに尖っていた。




「やめて――!」


声を上げたのは私だった。だがその声は、二人の間に横たわる亀裂を埋めるには弱すぎた。マルタの手が短刀を振るった。イヴァはそれを受け流し、返す動作の反動で二人はさらに谷の縁へと追い詰められていく。




 瞬間、時間が厚く重くなった。イヴァとマルタが絡み合うようにぶつかり合う。マルタの袂がはためき、祈符が雪に散る。目の端で、短い絹の切れ端が風に翻り、谷の向こう側へ吸い寄せられていくのが見えた。




 咄嗟に、私は動いた。言葉ではなく、体が先に動いていた。誰に教わったわけでもない。心臓が喉元で鳴って、手が伸び、私はマルタの背中を押した。力は本能じみて粗かった。




 マルタの体が浮き、驚きの声が一瞬だけ空に引き裂かれる。彼女はバランスを失い、足が空を切った。時間はスローモーションのように伸び、雪煙が大きく舞い上がり、マルタの顔が一瞬こちらを見た。祈祷師の瞳に込められた怒りと哀しみが、私をまっすぐ突き刺した。




 そして――落ちた。布と祈符が風に踊り、雪が砕け散る音だけが谷に反響する。叫びは、すぐに小さく、やがて遠くなっていった。




 その場に残されたのは、突如現れた静寂と、胸を押し潰すような冷たさだった。自分の手の平を見た。震えている。息がまともに通らない。私は何をしたのか、はっきりと理解できなかった。ただ、目の前に広がる白が、あまりにも冷たかった。




 イヴァがこちらに向き直った。雪と髪と蝋の匂いが混ざる。彼女の顔は、私が知るどの表情とも違っていた。凍ったような静けさの中に、確かな決意があった。




「……ティナ」その声は震えていなかった。短く、呼びかけるだけだった。私はしがみつくように彼女を見る。胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。




 イヴァは私の手を取り、ぎゅっと握りしめる。手の中の温度が、雪の冷たさを少しだけ押し戻した。


「大丈夫、私がいる」彼女の言葉は、鎧のように硬く、しかしどこか甘かった。救いの約束か、それとも招きの合図か、区別がつかない。




 私は言葉を探す。弁解も、叫びも、祈りも出てこなかった。ただひとつだけ、胸の底から絞り出すように出たのは──「ごめん」でも「助けて」でもない、もっと原始的な声だった。「彼女を、失いたくない」




 それが真実だった。恐怖や後悔が瞬時に押し寄せると同時に、私の中で別の感情が確かに立ち上がった。イヴァを、今この手で守りたいという欲望。それは自己正当化の言葉を介する以前の、単純で暴力的な願いだった。




 イヴァは私の顔をじっと見つめた。長い静寂の後、彼女は小さく息を吐くと、低く言った。


「……選んだのね。じゃあ、最後まで一緒にやるわ」




 その言葉の意味を私は全部理解できないまま、頷いた。頷くことで、何かが完了したように感じた。罪を背負う決意とも、救いを選ぶ覚悟とも言える。白い世界のなかで、二人だけの輪郭が寄り添う。




 雪が私の肩に積もる。遠くからかすかに、雪をかき分ける音が聞こえるような気がした。意識の隙間に冷たい波が押し寄せ、視界がふっとぼやける。私の体は、どこかへ引かれていくように重たくなった。




 最後にイヴァの手の暖かさを感じた。彼女の指は固く、確実に私を掴んでいた。救いと罪が一つの熱のように混ざり、胸の中でぐちゃりと溶け合う。私はその熱に押し潰されるように、ゆっくりと視界を閉じた。




 世界は白に還り、音は遠のいた。私の体は、静かに沈んでいった。

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