第2話「雪の牙の噂」
朝、薬草小屋の窓を叩く雪の音で目が覚めた。
昨夜からずっと降り続けているせいで、外は真っ白な煙のようだった。
火を小さくしながら、私は乾燥させた薬草を乳鉢に落とし、すり潰す。
咳止めと傷薬を作るだけの、いつもの仕事。
手元だけ見ていれば、世界に変化なんてないみたいだ。
戸口がどん、と荒っぽく開いた。
冷気が流れ込み、吹雪の匂いと一緒に村人の声が飛び込んできた。
「ティナ、聞いたか? まただよ、北側の納屋のヤギがやられた!」
いつも落ち着いた年長の男まで、子どもみたいに目を見開いている。
私は乳棒を止め、顔だけを上げた。
「……また、ですか」
そう言った声は、思ったより冷たかったかもしれない。
心臓がわずかに跳ねているのに、指先は薬草の粉で白くなったままだ。
私が席を立つ前に、別の女が続ける。
「獣の噛み跡だって。まるで……狼みたいな」
「いや、足跡が大きすぎるってよ」
「でもこの季節に狼なんて、山を下りてくるはずないだろ」
人の噂話は雪より早く、どんどん形を変えて小屋に積もっていく。
私は薬草を包みに移し替えながら、聞いていないふりをした。
けれど内側で、かすかなざわめきが広がる。
狼、足跡、噛み跡──頭のどこかで別の言葉と結び付いて、ゆっくり沈んでいく。
「祈祷師さまの護符、まだあるかしら」
「あるとも。落ち着け、皆」
そのとき、背後の雪煙を割って現れたのはイェナだった。
深緑の外套の裾に雪をつけ、胸には麻紐で束ねた小さな護符を下げている。
彼女は村人ひとりひとりに護符を手渡し、低い声で祝詞を唱えた。
声には落ち着きがあり、村人たちの肩が順々に下りていくのが見えた。
私は包みを置いて、イェナに向き直った。
「おはようございます、イェナさん」
「ティナ。薬草の準備、助かるよ。傷人が出たときのために、しっかり作っておきな」
視線は私にだけやさしい。
だが、その横で同じように護符を受け取るイヴァの姿に、彼女の目は触れなかった。
……いや、ほんの一瞬だけ見て、すぐ逸らした。
まるで炎に触れたみたいに。
イヴァは白い髪を指先で払って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「相変わらず人気ないな、私」
「……気のせいでしょう」
私は答えながら、イヴァの黒い瞳を見た。
氷より深い色の奥に、なにか泳いでいる気がする。
雪の反射でそう見えるだけだ──と、自分に言い聞かせた。
マルタは護符を配り終えると、祈るように手を組み、短く息を吐いた。
「皆、今夜は外に出るな。獣は近い」
その声に村人たちは頷き、散っていった。
戸口の外は吹雪で真っ白だ。
狼の足跡なんて、すぐに隠れてしまうだろう。
イヴァが私の横に立ち、わざと小声で囁く。
「ねえティナ。狼って案外、人間に似てると思わない?」
「……どういう意味」
「気をつけないと、どっちがどっちかわからなくなるってこと」
そう言って笑った顔は、冗談とも本気ともつかない。
私は胸の奥のざわつきを無視するように、薬草の包みを棚に戻した。
吹雪の向こうに、雪原が続いている。
世界は白いのに、どこかで血の匂いがするような気がした。
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