第5話 初演──歓喜の歌《アンセム》

ウィーン。1824年5月7日。

ケルントナートーア劇場のホールは、市民と貴族でごった返していた。

「難聴の巨匠が新作を発表する」という噂は火のように広がり、あらゆる人々が集まっていた。


楽団員は緊張の面持ちで楽器を構えている。


「先生、本当にこの譜面通りにやるんですか?」

「そうだ!」

「“ブレイクダウン”って……どういうことなんです?」

「ここで一度止め、聴衆に息を詰めさせるのだ!そして、静寂の後に嵐を呼び起こす!そういうことだ!」

「この“ドロップ”ってのは……爆発音のことですか?」

「ここで一気にフォルティッシモまで駆け上がるのだ!全楽器で雷鳴のように打ち鳴らせ!」


ざわざわする団員たちを前に、ベートーヴェンは指揮台へ立った。

耳は聞こえない。だが、胸と骨に昨夜の教会の轟音がまだ残っている。

彼の足は自然と四つ打ちを踏み始めた。ドン・ドン・ドン・ドン。


「よいか!」

彼は団員に向かって叫んだ。

「お前たちは今から音を鳴らすのではない。世界を震わせるのだ!」


観客はざわめいた。老人は扇子を畳み、若者は期待に目を輝かせる。

誰もが知らなかった。今夜、音楽の歴史がひっくり返ることを。


──序奏


静かに始まった弦の和音。

しかし、どこかで床板が震えている。観客は顔を見合わせる。

「……なにか地鳴りが?」

「いや、音楽だ!」


ベートーヴェンは振り返りもせず、タクトを振り下ろす。

その瞬間、ティンパニが炸裂した。

ドォォン!

客席が揺れ、ワインのグラスが小刻みに踊る。


「“ドロップ”だ!」と楽団員たちが顔を見合わせる。

「今だ!一斉に行け!」


──合唱の導入


やがて舞台袖から市民の合唱隊が現れた。

弟子たちは青ざめて囁く。

「先生!本当にオーケストラに合唱を入れるのですか!?前代未聞です!」


ベートーヴェンは振り返り、炎のような瞳で一喝した。

「お前は聞かなかったのか! あのスウェーデンの青年は“Wake Me Up”と歌い、市民を熱狂の渦に巻き込んだのだぞ!」


弟子は思わず背筋を伸ばし、「は、はい!」と答えた。


合唱が始まる。

「Freude! Freude!」

その声は、アヴィーチーの歌を思わせる温もりを帯び、聴衆を包み込んだ。


──熱狂


観客は立ち上がり、思わずリズムに合わせて足を踏み鳴らした。

貴族の令嬢がスカートを翻して踊り、老人が杖を振り回して跳ねる。

神父は頭を抱えたが、次の瞬間には両手を広げて歌っていた。


「ドロップ!」

ベートーヴェンがタクトを振り下ろす。

ドォォン!

会場全体が揺れ、歓声が爆発する。


「ブラボー!」「アンコールだ!」

群衆の叫びが嵐のように押し寄せた。

ベートーヴェンは耳ではなく、胸と骨でそれを受け止めた。


彼は汗に濡れた額を拭い、天を仰いだ。

見えるはずのない二人の姿が、そこにあった。

スクリレックスは親指を立て、アヴィーチーは穏やかに微笑んでいた。


ベートーヴェンは心の中で呟いた。

——少しは、おぬしたちに近づけただろうか。


タクトが最後に振り下ろされると、ホールは嵐のような拍手に包まれた。

交響曲第九番。

その裏には、誰も知らぬ奇跡の邂逅があった。

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