間章7:鬼頭 政
紙が降る音は軽いのにな。胸に落ちると重たい。しんしん、と冷える。
わしはあの白い雪を、手の甲で払っても払っても、指の皺に残る粉だけは取れんかった。
安井の兄ちゃん。あの笑い方や。あの瞬間の顔、ずっと焼き付いとる。
世話焼きは損や、言いながら、いざとなったら前に出る。ああいうの、弱いねん。胸の奥をドンと蹴られる。
ラムネの栓を抜いたら、ぷしゅ、と鳴った。
泡がこぼれて、床の漂白臭に混じる。すっぱい匂いと甘い匂い。変な取り合わせや。
瓶をそっと置いた。供えるみたいに。
うまい棒は、もう噛み砕けへんかった。歯に当たる感触が、ひどく空っぽや。
藤広。お前の目、わしは見逃さん。
震えてる。分かる。人は怖い。怖いときの手は滑る。足も止まる。そこまではええ。
問題は、その震えの奥や。指先が数えてる。逃げ道、順番、誰を楯にするか。
あの白い霧の中、お前は一歩、引いた。ほんの一歩。
誰も気づかんと思たか。
わしは見た。
安井が前に出る直前、お前の靴底が音を消したのを。すっ、と。
言い訳はいらん。状況判断や、家族がおるや、正しい言葉はいくらでも並ぶ。
けどな、胸のどこかに冷たい計算機が入っとる。
それを、わしは信用せん。
信用せん、言うたからといって捨てるわけやない。
戦にゃ役がある。臆病は臆病の役目を果たせる。
逃げ場を見つける。後ろを守る。最悪の線で止める。
それができるなら、ええ。
ただし一つ。
他人の背中を踏み台にすんな。
背を押すんやったら、自分の足で押せ。
手ぇ離すなら、最初から掴むな。
それだけは守れ。守らんのやったら、わしが叩く。
たかしは危なっかしい。足がもつれる音がデカい。ずしゃー、どたーん、毎回それや。
けど、前を向く。泣きそうな顔で、前を向く。
ゆめは芯が強い。声が短い。短いのに通る。
ゆうじは光で道を作る。迷うくせに、最後は前に置く。
この三人の真ん中に、わしはいる。勝手にそう決めた。
世話は性や。誰かを拾って、拭いて、背中をどついて、立たせる。
それが楽で、それが面倒で、それがやめられん。
紙吹雪を踏むと、くしゃ、と鳴る。
その音に混じって、スマホが微かに震えた気がした。気のせいやろうが、わしは振り返らん。
前を見る。
階段は濡れて、滑りやすい。
わしは手すりを拭く。袖で。誰も見とらんけど、ええ。
落ちるやつがいたら、掴む。掴んで引き上げる。引き上げて怒鳴る。
「足元見ぃ。息合わせぇ。置いていかん」
それだけや。
藤広。お前を置いてはいかん。
だから、睨み続ける。
お前の手が誰かの背中に伸びたら、わしの手がその手首を叩く。
お前の足が一歩、悪い方へ滑ったら、わしの足が前に出る。
それを分かった上で、ついて来い。
逃げるなら今や。階段の前で引き返せ。
戻る道は、もう無いけどな。
ラムネの瓶が空や。
うまい棒はポケットで粉になっとる。
それでええ。
甘いもんは先に食うた。残ったのは、苦い方や。
苦い方を噛み砕いて、次へ行く。
わしはそういう生き方しか知らん。
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