間章8:ゆめ

白い紙片が、まだ髪に貼りついている。指でつまむ。しっとり。ぺたり。

息を整える。胸を上下させて、数える。四拍吸って、四拍吐く。音は最小限。足音、瓶の転がる音、遠くの空調のうなり——全部を背後に置く。


藤広。

視線が泳ぐ。汗が目尻に溜まる。言葉の前に喉が鳴る。漂白剤のボトルを握る手が、必要な瞬間に少しだけ遅れる。

さっきの一掃。泡が広がったとき、私の位置を見なかった。真正面の敵よりも、たかしと鬼頭の間の空白を見ていた。

安全を考えた? 違う。安全なら声を出す。合図をくれる。彼は黙った。計算が先に来た。損益の天秤を、あの一瞬で回した。

計算できるのは悪くない。むしろ欲しい資質。だが、黙って計算する者は、肝心なところでこちらの足をすくう。


さっきの同期。私は呼吸を合わせた。彼も合わせた。合わせた上で、次に備えて距離を取った。

距離の取り方がきれい過ぎる。生存率を上げるフォーム。仲間の死角に入らない位置。正しい。正しいけれど、信用はしない。

信用は、私の中で二段階。手を伸ばすか、刃を止めるか。今の彼は、刃を止めるには至らない。手は伸ばす。落ちそうなら掴む。だが背中は預けない。


ボトルの口、閉め直す音。キュッ。

藤広の手元を見た。握力はある。震えは制御できている。漂白剤の濃度、噴霧角、拡散速度。全部わかっている顔だ。

だから怖い。知っていて黙る人間は強い。強いから、ずれるときが致命。こちらの崩れに気づいても、言わない可能性がある。家族がいる。帰る動機が固い。固さは人を狭くする。


私が守るのは、まずたかし。次に、今ここで動いている仲間。順番は変えない。

鬼頭は見たとおり。口が先に出る。出た言葉が腹の底と一致する。信用はできる。雑だが読みやすい。

藤広は違う。言葉と腹の距離がある。距離があること自体はいい。問題は、その距離を他人に測らせない点。


階段の上から風。さらさら。紙片が舞う。

たかしの背中が、さっきより少しだけ広く見える。揺れているけど、前を向いている。

私は横に立つ。肩が触れない距離。何かあればすぐ引き寄せる間合い。

藤広の位置を、目の端で固定する。逃げ道と射線、二本。どちらにも私の手が届くように。届かない位置には置かない。


言っておくべきことは、いつか言う。今ではない。

今は進む。

靴底を拭う。きゅっ、と鳴る。

上で何が待っていようと、呼吸は合わせる。命は合わせない。こちらの選択は、こちらで持つ。

それが私の役目。

それが、ここでの私。

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