第5章 逃亡と隠れ家
夜明け前。
トラックは舗装の途切れた山道を軋みながら登っていった。
森に囲まれた細い道を抜けると、ぽつんと古びた木造の一軒家が姿を現した。
「……ここが?」
助手席の蓮が、不安げに首を傾げる。
「俺の父親が昔、狩猟の拠点にしてた小屋だ。今は誰も使ってない。外の連中も、ここまでは探しに来ないだろう」
匡はエンジンを切り、静まり返った空気の中で深呼吸をした。
ようやく追手の気配から解放されたのだ。
中に入ると、埃と木の匂いが漂っていた。
蓮は窓辺に手をかざし、差し込む朝の光を眩しそうに見つめる。
「なんだか、秘密基地みたいだね」
「まあ、似たようなもんだ」
匡は毛布を広げ、最低限の寝床を整えた。
食料や水は工場から持ち出した分で数日は保つ。
何より大切なのは、ここで蓮を安全に隠すことだった。
蓮は小屋の中を歩き回り、埃まみれのテーブルを指でなぞった。
「俺、ここなら平気かもしれない。誰も来ないし……匡さんと二人きりだし」
その笑顔はかすかに震えていた。
安心と同時に、孤独と恐怖が彼を飲み込んでいるのだろう。
匡は蓮の肩を抱き寄せ、静かに答えた。
「もう大丈夫だ。ここから先は、俺たちの場所だ」
外の森がざわめき、まるで二人を覆い隠すように風が吹き抜けた。
森に囲まれた小屋での暮らしが始まった。
蓮は朝になると外に出て、近くの小川で水を汲み、火を焚いて湯を沸かす。
匡は小屋の補強をし、食料を節約しながら調理した。
ふたりの間に流れる時間は、外界から切り離された静かなものだった。
追われる恐怖が完全に消えたわけではないが、互いの存在がその不安を和らげていた。
ある昼下がり。
蓮は窓辺で陽だまりに座り、ぼんやりと森を眺めていた。
匡が薪を割る音だけが響く。
「……こうしてると、不思議だよね」
「何がだ?」
蓮は振り返り、少し照れくさそうに笑った。
「俺たち、まるで家族みたいだなって」
匡の胸に何かが突き刺さった。
その言葉は甘美で、同時に痛みを伴う。
——自分は彼を救っているのか、それとも利用しているだけなのか。
「そうかもしれないな」
努めて穏やかに返すと、蓮は安心したように目を細めた。
夕暮れ。
焚き火を囲んで、二人は缶詰を分け合った。
蓮は火の赤い光に照らされながら、囁くように言う。
「匡さん……もし、いつか俺がいらなくなったら、捨ててもいいから」
「バカ言うな!」
匡は思わず声を荒げた。
「お前を捨てるくらいなら、俺が全部失っても構わない」
蓮は驚いたように目を見開き、やがて泣きそうな笑みを浮かべた。
「……ありがとう。そう言ってもらえるだけで、生きててよかったって思える」
小屋の外では、森が夜の闇に沈み始めていた。
その静けさの裏に、まだ知らぬ影が潜んでいることに、二人は気づいていなかった。
その夜。
小屋の灯りを落とし、蓮は匡の隣で毛布に包まって眠っていた。
規則正しい寝息が、狭い部屋の中に穏やかに響く。
匡は眠れず、静かに窓辺に立った。
外には月明かりに照らされた森が広がっている。
鳥や獣の声が途絶え、不自然な沈黙があたりを支配していた。
「……?」
ふいに、木々の間で何かが動いた。
人影のような黒い塊が、一瞬だけ月光を遮った気がする。
心臓が跳ね上がり、匡は窓を閉めて蓮の傍に戻った。
蓮は寝返りを打ち、かすかに匡の名を呼ぶ。
「……匡さん……」
「大丈夫だ。俺がいる」
そう囁きながらも、匡の背中に冷たい汗が流れる。
ただの見間違いかもしれない。
だが、追っ手の網は確実に広がっているはずだ。
翌朝。
蓮が水を汲みに小川へ行こうとすると、匡は慌てて制止した。
「今日は俺が行く。外には出るな」
「え……でも」
「いいから」
蓮は不安げに頷いた。
その瞳は、まるで鳥籠に閉じ込められた小鳥のようだった。
匡は彼を守るために言ったはずだった。
だがその言葉が、蓮をさらに孤立させていくことに気づいていた。
森の奥から、カラスの鳴き声が響いた。
それはただの自然の音にすぎないのに、匡には警告のように聞こえた。
日が暮れると、森の闇はいっそう濃くなった。
小屋の中は焚き火の赤い明かりだけが揺れ、二人の影を壁に映し出している。
匡はじっと耳を澄ませていた。
森の奥で、昼間から続く不穏な気配がまだ消えていない。
それを悟らせまいと、努めて普段通りに振る舞おうとするが、蓮の視線が彼を射抜く。
「……匡さん。俺に隠してること、あるよね?」
匡は思わず言葉を詰まらせた。
蓮は焚き火を見つめたまま、声を震わせて続ける。
「最近ずっと、俺を外に出さない。夜になると怖い顔して窓を見てる……。
ねえ、本当は追ってきてるんでしょ? 俺が……あの血のせいで」
匡は拳を握りしめた。
否定したい。けれど嘘を重ねれば、彼との間にある唯一の信頼まで壊れてしまう。
「……そうだ。奴らは諦めちゃいない。森の中で、何度も影を見た」
蓮の顔から血の気が引いた。
だが、やがて小さく笑った。
「やっぱり……でも、正直に言ってくれて嬉しい」
沈黙の中、蓮は匡の方を向いた。
その瞳は涙で濡れているのに、揺るぎない光を宿していた。
「俺、怖いよ。逃げ続けるのも、自分のせいで匡さんを危険に巻き込んでるのも……全部。
でもね、それ以上に――匡さんがそばにいてくれるなら、生きていたい」
匡の胸が熱くなった。
彼を利用している罪悪感も、血の秘密に縛られる運命も、この瞬間だけは霞んでいく。
「……蓮。お前が望む限り、俺は絶対にそばを離れない」
二人は火の粉が舞う小屋の中で、互いの温もりを確かめるように抱き合った。
外の森では、風がざわめき、獣じみた気配がさらに近づいていた。
深夜。
焚き火が消え、森は闇に沈んでいた。
蓮は匡の腕の中で眠りについていたが、匡は目を閉じられずにいた。
耳を澄ますと、規則的でない音が混じっている。
——乾いた枝が踏み折られる音。
——落ち葉を擦る靴底の感触。
(来たか……)
匡は息を殺し、そっと蓮を起こさないように毛布を掛け直す。
壁際に置いていた鉄パイプを手に取り、窓辺へとにじり寄った。
外は真っ暗だが、月明かりの下でわずかに動く影が見えた。
数人分。
森の木々の間をゆっくりと、しかし確実に小屋へと近づいてくる。
(あいつら……ここを突き止めやがった)
匡の喉が渇く。
だが、戦わなければ蓮は奪われる。
その瞬間、背後で蓮が小さな声を漏らした。
「……匡さん?」
匡は慌てて振り返り、指を唇に当てた。
「静かにしろ。奴らが来た」
蓮の瞳が恐怖で揺れる。
だがすぐに彼は匡の手を握り返し、小さく頷いた。
「一緒に……いる」
外から、低く押し殺した声が聞こえた。
「中にいるのは分かってる……逃がさないぞ」
小屋の扉がきしむ。
森の沈黙を破って、忍び寄る足音がはっきりと近づいてきた。
匡は鉄パイプを握り締め、蓮を背に庇った。
――運命の夜が、始まろうとしていた。
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