第4章 侵食する影

ある夕暮れ。

匡が工場から帰る途中、背後に気配を感じた。振り返ると、黒いスーツに身を包んだ男が数メートル後ろを歩いている。目が合った瞬間、男はにやりと笑い、道を曲がって姿を消した。


胸騒ぎを覚えた匡がアパートに急ぐと、玄関前に一枚の封筒が置かれていた。

拾い上げると、中にはメモ用紙。


「その血を、我々に譲れ。拒めば失うものが増えるだけだ」


血の気が引いた。

——やはり噂は広まっている。

——誰かが、蓮の存在を突き止めようとしている。


アパートに入ると、蓮が心配そうに立ち上がった。

「匡さん、どうしたの? 顔色が悪い」

「……なんでもない。今日は疲れただけだ」


封筒をポケットに押し込み、笑顔を作る。

だが、蓮は首を傾げた。

「嘘。隠しごと、してる」


その真っ直ぐな目に、匡の心は揺さぶられる。

守るための嘘なのに、彼はそれを見抜いてしまう。


匡は蓮を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「何があっても……絶対にお前を手放さない」


蓮は一瞬驚いた顔をし、それから安心したように微笑んだ。

「なら、信じる」


だがその裏で、影は確実に近づきつつあった。



数日後。

匡は工場へ向かう途中で、またも違和感を覚えた。

道の向こうで新聞を読んでいる男。曲がり角に停められた見慣れない黒い車。どこへ行っても、視線を感じる。


「……付けられてる」


そう確信した瞬間、冷たい汗が背中を伝った。


工場に着いても気は休まらない。作業員の一人が声をかけてきた。

「最近、変な連中が来てますよ。金属の買い付け業者を装って……でも、質問が妙に具体的で」


匡は思わず声を荒げた。

「何を話した!?」

「い、いえ……何も。怪しいと思って追い返しましたから」


胸の奥に重い鉄塊のような不安が沈む。

もう匿うだけでは足りない。蓮を守るためには、外の世界から切り離すしかない。


その夜。

アパートの窓から外を眺めると、街灯の下に人影が立っていた。煙草の火がちらりと光る。

まるで「見ているぞ」と告げるかのように。


「匡さん……」

背後から蓮の声。振り向くと、彼は心配そうに布団を握りしめていた。

「また外、誰かいるの?」


匡は迷った末、正直に頷いた。

「……ああ。でも大丈夫だ。俺が必ず守る」


蓮は少し震えながらも、その言葉に縋るように微笑んだ。

「俺は……匡さんがいればいい。それだけで」


匡はその笑顔に強く抱きしめ返す。

守らなければならない。

たとえ世界を敵に回しても。




夜更け。

匡は机に広げた地図の上に手を置き、じっと睨みつけていた。

監視の網は日ごとに狭まっている。

このままアパートにいれば、遅かれ早かれ蓮は奪われる。


「……ここじゃもう駄目だ」


小さく呟いた声を、背後から蓮が拾った。

「どこかへ、行くの?」


振り返ると、眠たげな瞳をした蓮が立っていた。

匡はため息をつき、正直に告げる。


「蓮。お前を安全な場所に移したい。人目の届かないところへ」

「逃げるってこと?」

「……そうだ」


しばし沈黙。

蓮は視線を落とし、やがてぽつりと呟いた。


「俺は、どこへでも行くよ。匡さんと一緒なら」


その言葉に胸が締めつけられる。

本当なら自由に生きてほしい。

だが彼は、自分に縋ることを選んでしまった。


匡は地図を畳み、蓮の肩に手を置いた。

「明日の夜、工場のトラックを使う。荷台に荷物を積むふりをして、お前を乗せる。郊外の山に、空き家があるんだ」

「……隠れ家、だね」

「そうだ。少なくとも、ここよりは安全だ」


蓮は少しだけ不安げに笑った。

「なんだか映画みたいだね。でも……俺、匡さんとなら大丈夫だと思う」


その笑みを見て、匡は決意を固めた。

——もう、後戻りはできない。


翌晩。

計画通り、匡は工場のトラックを整備し、荷台に毛布と食料を積み込んでいた。

蓮は助手席に小さく座り、緊張した面持ちで窓の外を見つめている。


「出発は深夜だ。街が眠りについた頃に動く」

「……うん」


その時だった。

工場のシャッターが激しく叩かれ、金属の響きが夜にこだまする。


「開けろ!」

「中にいるのは分かってるぞ!」


怒声と同時に、複数の足音が迫ってきた。

匡は咄嗟に蓮を抱き寄せ、工場の奥へと引きずり込む。


「……もう嗅ぎつけられたか」


外からバールでシャッターをこじ開ける音が響く。

金属が軋み、隙間から懐中電灯の光が差し込んだ。


「匡さん……」

蓮の声は震えていた。

匡は彼の肩を強く掴み、耳元で囁く。


「絶対に俺から離れるな」


やがてシャッターが半分ほどこじ開けられ、黒い服の男たちが雪崩れ込んでくる。

その視線は一斉に、蓮へと注がれていた。


「……やはり噂は本当だったか」

「その体を渡してもらおう」


匡の中で理性が吹き飛んだ。

「ふざけるな!」


工具棚から鉄パイプを掴み、侵入者に向かって振り下ろす。

火花のように激しい衝突音が工場に響き渡った。


蓮は叫んだ。

「匡さん!」


混乱の中、トラックのエンジンがまだかかっている。

逃げ道はひとつしかない——。


工場の床に金属音が響き渡る。

匡は鉄パイプを振るい、侵入者を必死に押し返していた。だが数が多すぎる。

一瞬でも隙を見せれば、蓮が連れ去られる。


「蓮! トラックに乗れ!」

「で、でも匡さんは――」

「いいから行け!」


蓮は涙目のまま頷き、助手席へ駆け込む。

その瞬間、背後から男が襲いかかった。


「逃がすか!」


匡は怒号とともに鉄パイプを振り抜き、相手の腕を弾き飛ばす。

すぐさま運転席に飛び込み、キーを捻った。


エンジンが唸りを上げる。

男たちが荷台にしがみつき、窓ガラスを叩き割ろうとする。


「しがみつけ、蓮!」


アクセルを踏み込むと、トラックは唸りを上げてシャッターを突き破った。

金属片が飛び散り、夜の街へ飛び出す。


後方には黒い車が数台、ヘッドライトを煌めかせながら追ってくる。

蓮は助手席で震えながらも、必死に匡の手を握った。


「匡さん……! 俺、邪魔になってない?」

「お前がいなきゃ、俺はとっくに終わってた!」


叫ぶ声がエンジン音にかき消される。

街を抜け、国道を疾走し、やがて山道へ。

舗装の途切れた闇の中へと、トラックは走り去っていった。


背後のヘッドライトが徐々に遠のいていく。

ようやく振り切ったと気づいた瞬間、二人は同時に深く息を吐いた。


「……匡さん」

「なんだ」

「俺、本当に……生きてていいのかな」


その問いに、匡は強くハンドルを握りしめ、断言した。

「いいんだ。絶対に、お前を誰にも渡さない」


蓮は安堵の涙をこぼしながら、匡の肩に頭を預けた。

トラックは闇に溶け込み、二人を新たな逃亡の旅へと導いていった。



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