第36話--彩に抱く気持ちを胸に--

春の陽射しが柔らかく校舎に差し込む季節、私は放課後の校舎を出て、

一人で歩きながら心の中で彩のことを考えていた。


冬休み明けに交わした冷たい言葉から距離ができて以来、何度か彩に会おうと提案して

みたこともあった。


「今日、屋上で会えない?」

「明日、少し話せる?」


しかし、そのたびに彩は、塾がある、友達と遊ぶ予定がある、と断ってきた。

私はその言葉に、一瞬胸が沈むものの、すぐに冷静を装い、自分の気持ちを押し殺した。

だが、押し殺したはずの心は、放課後の一人歩きのたびに、

彩の存在に引き寄せられていく。


その日、私はふと、本屋に立ち寄ることにした。

文庫本の新刊コーナーを見て、今の自分の気持ちにぴったり合う本はないかと探したい――ただそれだけの理由だった。

ページをめくり、表紙を眺め、手に取っては元に戻す。文字を読みながらも、頭の中は

彩のことでいっぱいだった。


――彩は、今、何をしているのだろう。


店内の奥に入ったとき、視界の端に見覚えのある後ろ姿を捉えた。

彩だ――参考書の棚の前に立ち、真剣な顔で本を選んでいる。

まだ春だというのに、受験のことを考えているのか、私は心の中で感嘆する。

彩は、努力家で、人に気を遣う子だ。


冬休みに彩が私に言った言葉が、鮮明に思い出される。


――「大丈夫だよ。私は、凛から離れないよ。」


その言葉の温かさと安心感が、冬の寒さの中でも私の胸に深く刻まれていた。

なのに、自分は彩のそばにいない。距離を作ったことで、彩に「裏切った」と

感じさせてしまったのではないか――その思いが、胸を強く締め付ける。


彩に話しかけたい。

しかし、声をかけた瞬間、避けられてしまったらどうしよう。

私の心は迷いと不安で揺れる。


彩が、私に気づいた。

目が合った瞬間、彩は微かに驚いたように視線を合わせるが、特に何かを買うこともなく、そのまま本屋を後にしようとしている。

その瞬間、凛の胸に強い焦燥感が走る。


――嫌だ……彩は、私の傍にいなきゃいけない。

――彩は、私だけを見ていたらいい。


頭では理性が働く。彩には自由がある、彩は自分の意思で行動していい、

そう頭では分かっている。


だが、胸の奥では、自分勝手な想いでいっぱいだった。彩に自分だけを見ていてほしい、

彩を独占したい、彩の笑顔も涙も、すべて自分だけのものにしたい。

――そんな、邪な欲望が渦巻く。


心の奥で泣きたいほどの切なさと、自分の非情さを自覚しながらも、私は走り出した。

店の出口までの距離が、数秒で凛の決意を決定づけた。


――彩、待って……


冷たい風が頬をかすめ、髪を揺らす。私は息を整え、目の前にいる彩に向かって駆け寄る。

彩は振り返るが、その視線に一瞬だけ戸惑いが見える。


「彩!」


凛の声が街中に響く。

彩は一瞬立ち止まるが、何も言わずに今にも少しだけ進もうとする歩みを

私は躊躇わずに、彩の手首をそっと、しっかりと握る。


その瞬間、彩の目にほんのわずかの驚きが浮かぶ。

私は、手首を握ったまま視線を彩に向け、声を少し震わせながら言う。


「……ずっと、待ってた。彩、逃げないで……お願い」


私の手のひらに伝わる温かさ、握られる力の強さに、心臓が早鐘のように打つ。

凛の目は真剣で、どこか切なさと痛みを含んでいた。

その視線が、凛の全ての想いを語っていた。


私は少し言葉を失う。

でも、そのまま手首を握り返すことはせず、凛の目をじっと見つめる。


私は、彩が自分を見ていることを確認すると、胸の奥で少し安心する。


「ごめん……私は……」


彩の言葉を待たずに、私は自分の想いを口にする。


「彩、私、邪な気持ちかもしれないだけど、私は……私のそばに彩がいてほしい。

彩は私だけを、私だけを見ていてほしい。お願い……」


私は一瞬、その言葉の重みに戸惑いながらも、凛の目の奥にある真剣さ、後悔、

そして切実さを感じ取る。


自分の胸に湧き上がる感情と、凛の言葉が混ざり合い、胸が熱くなる。


――逃げたい、でも……


私の中で揺れる感情が、凛の手首を握る力に呼応する。


凛は心の奥にある、どれほどわがままでも独占的でも、私への想いが本物であることを

信じれるほど伝えようとしてくれている。

そしてその信念を、この一瞬に全て託したのだった。


風が私たちの間を吹き込み、二人の間の時間を静かに流していく。

文庫本も参考書も、周囲の雑音も、何もかもが二人の間では遠く、ただ凛と私の存在だけが現実だった。


凛に手首を握られた私は、言葉を失いながらも、心の奥で揺れている想いに気づく。

そして、凛の真剣な視線と握る手の温かさが、私の胸に新たな決意を芽生えさせるのを

感じるのだった。

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