第30話--日常の境界線--

朝の空気はまだ冬の冷たさを残していた。

凛の家の窓から差し込む光が、少しずつ私の頬を照らしていく。


隣では、凛がまだ静かに眠っていた。

昨日の夜のことが、まるで夢のように感じられた。

温もりの中で、何か大切なものを確かめ合った気がしていた。


「……もう朝か。」

小さく呟いて起き上がると、凛が目を開けた。


「おはよう、彩。」

寝起きの声は少しかすれていたけど、柔らかい響きだった。


「おはよう、凛。……よく眠れた?」


「うん。彩が隣にいたから、なんか安心した。」


そう言って、凛は布団から手を伸ばし、私の指先を軽く触れた。

ほんの一瞬の仕草だったけれど、昨日の夜と同じぬくもりを感じた。



「ねえ、朝ごはんどうする?」


「パンでいい?」


「うん、手伝う。」


二人でトーストを焼き、紅茶を淹れた。

前に聞いたことのある言葉が自然と出てきた。


「紅茶、レモンティー、それともお茶?」


彩は少し笑って、「レモンティー」と答えた。

私も微笑み返す。

どこか、それだけで十分に幸せだった。


食卓の上で、二人の湯気が重なっていく。

まるで外の寒さなんて存在しないように感じられた。



登校の時間が近づくと、彩は鞄を持ちながら少し躊躇した。


「……一緒に行こっか。」


凛がそう言ったとき、胸の奥が少しだけ高鳴った。

昨日の夜の延長線上みたいで、どこか嬉しかった。


「うん。」


外に出ると、冬の風が頬を撫でた。

並んで歩く足音が、凛の家の前の道に小さく響く。


最初は言葉が少なかった。

でも、時々彩が「寒いね」と言うと、凛が「手、冷たいでしょ」と小さく呟いた。

それだけで、心の距離はもう十分に近かった。



学校が近づくにつれて、通学路に人の気配が増えていく。

冬の朝独特の白い吐息が、あちこちに浮かんでいた。


そして、校門の前で声がした。


「――あれ? 凛ちゃん、彩?」


声の方を振り向くと、黒田 澪と望月 結、小野寺 翠がいた。

それぞれ、少し驚いたような顔をしていた。


澪が一歩前に出て、少し笑いながら言った。

「なんで二人で一緒に登校してるの……?」


その問いに、彩の心臓が一瞬だけ強く跳ねた。


昨日の夜――同じ布団の中で感じた温もり。

思い出すだけで、顔が少し熱くなる。


「……たまたま会ってね。それで一緒に来たんだ。」


自分でも驚くほど自然に、そう口にできた。

けれど心の中では、“たまたま”なんかじゃないとわかっていた。


すると、凛がすぐに言葉を続けた。

「そうです。」


冷たく、短く。

まるで私の言葉に壁を作るように。


その一言に、澪も結も翠も一瞬だけ言葉を失った。

沈黙が少し流れて、結が笑ってごまかすように言った。


「そっか。珍しいね、二人が一緒なんて。」


「うん、ちょっと意外だった。」と翠も続ける。


澪は少しだけ、凛を見つめてから口を開いた。

「……久しぶりに見るけど、凛ちゃん、ちょっと雰囲気変わったね。」


「そう?」

凛は淡々と返す。


でも彩には、その声の奥に微かな緊張が混じっているのが分かった。



教室に入ると、朝のざわめきが戻ってきた。

冬休み明けの初日。

みんなが友人と笑い合う中、私は自分の席に座り、

まだ温もりの残る自分の指先を見つめた。


隣を見ると、凛は無表情で本を開いていた。

いつもと変わらない顔。

だけど――その指先には、彩が見覚えのあるチョーカーが巻かれていた。


(……それ、まだつけてるんだ。)


そう思うと、胸が少しだけ締めつけられた。

昨日の夜の言葉が頭をよぎる。


――「私は、凛から離れないよ。」


本当に、あの言葉の意味を理解していたのだろうか。

自分は凛を安心させたつもりで、

逆に自分の心が、離れられなくなっているのかもしれない。



一方で凛も、教室の窓の外に目をやりながら思っていた。


(どうして、あの時あんな冷たい言い方をしたんだろう。)


ただ、隣にいてほしかっただけ。

でも、他人の前で「特別」に見られることが怖かった。


私にとって“特別”はいつも失う予感と隣り合わせだった。

だから、彩との距離をほんの少し戻した。

たったそれだけで、胸の奥が苦しくなった。


机の上で、チョーカーの金具が小さく鳴った。

それを指先でそっと押さえながら、思った。


――私は、また彩を遠ざけようとしてる。


その気づきが、誰にも見せられない痛みになっていく。



放課後。

私は友達に声をかけられても、どこか上の空だった。

結が「なんか今日、凛ちゃん冷たくなかった?」と言い、

翠も「ちょっとピリピリしてたよね」と続けた。


「……そんなこと、ないよ。」

私は笑ってごまかした。


でも胸の奥で、答えのない不安が静かに揺れていた。


――昨日までの温もりと、今の距離。

たった一晩で変わってしまったのは、どちらの心なのだろう。


冬の夕陽が窓から差し込み、

私の髪に淡い光を落としていく。


その影の中で、小さく息をついた。

「……わたし、どうしたらいいんだろう。」


その声は、誰にも届かず消えていった。

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