第5話--隠すことと見せること--

昼休みの終わりに体育の授業があるせいで、彩は朝からそわそわしていた。

制服の下に身につけた黒いチョーカーが、いつもより肌に張り付いているように感じる。

特別なものではないはずなのに、まるで体の一部になってしまったかのようだ。


体育館へ向かう廊下は、秋の風が窓から入り込んで少し冷たい。

友達の結が隣を歩きながら話しかけてくるが、彩は上の空で適当に相づちを打つ。

その様子に結は不思議そうに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。


更衣室に入ると、クラスメイトたちの笑い声や着替えの気配が一気に狭い空間を満たした。

彩はロッカーを開けながら、首に巻かれたチョーカーを指先でそっと押さえる。

――見られたくない。

その一心で、体操服を取り出す手がわずかに震えた。


「彩ちゃん、着替え遅くない?」

結の声が背後から飛んできて、彩は思わずびくりと肩を跳ねさせた。

慌ててシャツを脱ごうとしたとき、隣にいた生徒がちらりと彩の首元を見た。

一瞬だけだが、その視線がチョーカーに止まったように感じて、心臓が跳ね上がる。


「なにそれ? ネックレス?」

クラスメイトのひとりが軽い調子で尋ねてきた。

彩はとっさに笑ってごまかす。

「ちょっと前から気に入ってて、外せないだけ」

そう言いながら、慌てて体操服を被ってしまう。

相手は「へえ」と軽く返しただけで、それ以上は深掘りしなかった。


だがその瞬間、視線の端に凛の姿を捉えた。

凛は少し離れた場所で着替えていたが、彩のやり取りを見ていたらしく、ほんの一瞬だけ目が揺れた。

それは驚きとも不安ともつかない、微細な動きだった。

すぐに凛はいつもの無表情に戻り、何事もなかったかのように体操服の袖を通していた。


(いまの……凛、動揺してた? いや、そんなはずないか…)


授業中も彩は集中できず、ボールを追いかける友達の声や体育館に響く足音が遠くに

感じられ、意識の大半は首元にあった。

その冷たさが、まるで誰かに見張られているかのように感じられた。


体育の授業も6限目の授業もおわり。

放課後になると、彩は心の奥で覚悟を決めていた。

また凛に呼び出される気がしていたからだ。

案の定、教室を出ようとしたとき、凛の低い声が背中に届いた。


「今日も屋上に来て」


振り返ると、凛は教室の扉の前に立っていた。

他のクラスメイトに聞かれないよう、声は小さい。

彩は無言で頷き、カバンを手に屋上へ向かった。


夕陽が校舎を赤く染めるころ、屋上のドアを押し開けると、凛はフェンスにもたれかかって空を見上げていた。

その姿は、どこか物語の一場面のように静かで、絵のようだった。


「……今日のお願い、聞いてくれる?」

凛は彩が近づくと、ゆっくりと顔を向けた。

声はいつも通り冷たかったが、その目の奥にはわずかなためらいが見えた気がした。


「うん。何?」

彩は緊張しながら答えた。


凛はしばし彩を見つめ、それから視線を彩の胸元へと落とした。

「制服のシャツの上のボタンを……二つ、外して。チョーカーを見せてほしい」


彩は一瞬、言葉を失った。

夕陽に染まる空気が一層熱く感じられる。

「ど、どうしてそんな……」


「理由は聞かないで」

凛は短く遮った。

その声には、いつもの無機質さがあったが、どこか必死さも含まれていた。


彩は迷った。

恥ずかしさと、なぜか期待にも似た感情が入り混じる。

けれど、ここで断れば何かが壊れてしまう気がして、ゆっくりと指先を動かした。

ボタンがひとつ、またひとつ外れるたびに、胸の鼓動が速くなる。

秋の風が開いたシャツの隙間をすり抜け、チョーカーの黒い帯を際立たせた。


凛は目を逸らさず、黙ってその様子を見つめていた。

視線が首元に触れるたび、彩は胸の奥が熱くなるのを感じた。

風の音だけが二人の間を通り抜ける。


「……それでいい」

ようやく凛が言った。

その声はかすかに掠れていた。

「ありがとう」


それだけ言うと、凛は視線を空へと戻した。

彩は思わず問いかけたくなったが、その雰囲気に呑まれて言葉を飲み込んだ。


日が沈みかけたころ、二人は屋上を後にした。

階段を降りる途中、彩は小さくため息をついた。

恥ずかしかったはずなのに、どこか満たされたような気持ちが残っている。


(どうしてこんな気持ちになるんだろう)


廊下を歩くとき、ふと昼間の着替えのときのことを思い出す。

クラスメイトに気づかれそうになった恐怖と、凛の一瞬の動揺。

あのとき確かに、凛の表情が揺れた。


それがなぜなのか、彩にはわからない。

けれど、胸の奥のざわめきは、昼よりもずっと大きくなっていた。


帰り道、夕暮れの風が制服のシャツの隙間から入り込む。

彩はそっとボタンを留め直しながら、チョーカーに指を触れた。

冷たさがまだ残っていて、まるで凛の視線のように離れてくれない。


この一週間で、何かが確実に変わり始めている。

それが何なのか、まだ彩は知らない。

ただ、次にどんなお願いをされるのかを思うだけで、胸の鼓動が静まらなかった。

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