第4話--夕暮れの朗読--

昼休みが終わり、午後の授業が始まっても、彩はノートに書く文字をたびたび間違えた。

意識が授業から離れているのは自覚している。原因は、首に触れる細い黒いチョーカーだ。

その冷たい感触が、授業中でも意識の端に絡みついて離れない。


窓際の席から見える空は、もう少しで茜色に染まりそうだった。

次の放課後に、また凛と会うのか――そう考えるだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。


「宮沢さん、ノート貸してくれる?」

隣の席の望月 結が軽く肩を叩いた。

彩は慌てて顔を上げ、ノートを差し出しながら「ごめん、ちょっと書き損じちゃって」と

苦笑する。

結は首を傾げながらも特に何も言わず、授業に戻っていった。


そのやり取りのあと、彩は無意識に首に触れた。

結は何も気づいていないはず。でも、このチョーカーは普通のアクセサリーには見えない。

もしも誰かに理由を問われたら、うまく答えられる自信はない。


チャイムが鳴り、放課後になった。

教科書を閉じ、机を整えていると、不意に低い声が後ろから届いた。


「……今日も、屋上に来て」


彩は振り向いた。そこには凛が立っていた。

教室のざわめきの中でも、その一言はしっかりと耳に届いた。

凛の表情はいつも通り冷ややかで、誰にでも見せるクラスメイトの顔だ。

けれど、彩に向けた視線だけはほんのわずかに柔らかかった。


「わかった」

彩は短く答え、心の鼓動を押さえながらカバンを持ち上げた。


教室のドアを開け廊下に出ると不安と緊張が押し寄せてきた。

ゆっくり深呼吸をして屋上に続く廊下を辿り、屋上に続くドアを押し開けると、冷たい秋の風が頬をなでた。


夕陽が空を朱色に染め、フェンスの影が長く伸びている。

その風景の中で、凛はフェンスにもたれ、手に一冊の文庫本を持っていた。


「遅かったね」

振り返りもせずに凛が言う。


「ごめん、ちょっと荷物を整理してて」

彩は笑いながら近づいたが、心の奥は少し緊張していた。


凛は文庫本を軽く持ち上げ、彩に視線を向ける。

「今日は、これを読んでほしい」


「……私が?」

意外なお願いに彩は目を瞬かせた。


「そう。週に一度だけのお願い、今日の分」

凛は淡々と告げた。その口調は冷たいけれど、どこか頼るような響きがあった。


彩は戸惑いながらも本を受け取った。

ページを開くと、古びた紙の匂いが微かに立ち上る。

タイトルは知っているけれど、最後まで読んだことはない物語だった。


「ここから、このページまで」

凛が指差した箇所を確認し、彩は深呼吸をして読み始めた。


最初は少し声が震えた。

でも、夕暮れの風に背中を押されるようにして、次第に落ち着いた声が出せるようになる。

自分の声が屋上の空気の中でやわらかく響くのを、彩は意識しながら読み続けた。


凛はベンチに腰を下ろし、目を閉じて耳を傾けていた。

その横顔は普段の無表情よりもずっと穏やかで、光に照らされる睫毛の影が細く揺れている。


彩はページをめくりながら、ふと考えた。

――こんなふうに本を読む時間を、彼女は誰かと共有したことがあるのだろうか。

そして、自分にそれを求めてくれた理由は何だろう。


チョーカーが首に冷たく触れるたびに、その疑問は強まる。

でも、声に出して聞くことはできなかった。


最後の段落を読み終え、彩はそっと本を閉じた。

「……ここまで、だね」


凛はゆっくり目を開け、短く「ありがとう」と呟いた。

その声は不思議と柔らかく、夕暮れの空気に溶けるようだった。


「どうして私に朗読を?」

彩はつい口にしてしまった。

凛は少しだけ目を細めてから、答えにならない言葉を返した。


「誰かの声で聞きたかっただけ。特に理由はないよ」


その言い方はいつもの冷たさに戻っていた。

けれど、ほんの一瞬だけ見せた優しい表情が、彩の胸に残って離れなかった。


次第に日が沈み、空が少し暗い群青に変わるころ、二人は屋上を後にした。

階段を降りる途中、彩は無意識にチョーカーに触れた。

冷たさが指先を包み、どこか安心するような、不安になるような感覚を覚える。


「来週は、もう少し違うお願いをするかもしれない」

凛が前を向いたまま、ふいに言った。


「……違うお願い?」

彩は足を止めかけたが、結局何も聞き返さずに歩を進めた。


二人の間に会話はそれ以上なく、足音だけが階段に響いた。

けれど、彩の胸の中では小さなざわめきが消えないままだった。

そのざわめきが、この放課後の秘密をさらに深いものへと変えていく予感がした。

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