鏡写しから生まれた生命 - キラリティから対称性の破れまで

伽墨

対称性は美しい。だが……

左手と右手を並べてみよう。たしかによく似ている。しかし両者は、どうやっても同じ向きに重ね合わせることはできない。

「いやいや、手のひらと手のひらを合わせれば重なるだろう」と思うかもしれない。だが、よく観察してほしい。手のひら同士を合わせているのでは、表と裏が逆だ。では手のひらの向きを合わせてみてほしい。すると、片方では親指が外側に来るのに、もう片方では内側に回り込んでしまう。つまり、表と裏が逆なのだ。


もっとわかりやすく説明してみよう。ここで、右利き用の野球のグローブを思い出してほしい。これは左手にはめるために作られている。そこに右手を差し込もうとしても、どうしてもしっくりこない。そもそもはまらないのである。


この「見た目は同じようでいて、重ね合わせられない関係」を、科学ではキラリティ(chirality)と呼ぶ。



右手と左手が一つずつあるように、分子の世界でも右型と左型が1:1で存在して当然、と思うかもしれない。実際、実験室で合成すると多くの場合はそうなる。これをラセミ体と呼ぶ。


しかし自然界は違う。生命をつくるアミノ酸はすべて「左手型(L型)」に統一されている。この徹底した偏りがあったからこそ、タンパク質は精密な立体構造を組み上げ、酵素や筋肉といった高度な仕組みを実現できた。もし右と左が混じっていたら、この整然とした“分子機械”は生まれなかっただろう。


DNAも同じだ。DNAに代表されるらせん構造にも、右巻きと左巻きという違いがある。これも、先ほどの右手と左手を重ね合わせるのと同じで、右巻きと左巻きは決して一致しない。DNAの場合、その骨格をつくる糖──デオキシリボース──が「右手型(D型)」に固定されているため、自然に右巻きの二重らせんが安定する。つまり、私たちの遺伝子は、分子レベルで“右利き”を選んでいるのである。



とはいえ、DNAは「右巻きの二重らせん」だけではない。条件によっては左巻きのZ型構造になったり、部分的に三重らせんや四重らせんをとることもある。特に四重らせん(G-quadruplex)は遺伝子制御やがん研究で注目されている。私たちが「教科書の二重らせん」と思い込んでいるDNAは、実は自在に形を変える“分子折り紙”なのだ。


ところで、このDNAという言葉は、科学以外の場でもよく使われる。「創業者のDNAが受け継がれている」といった表現だ。しかし考えてみてほしい。実際のDNAは、徹底的に偏った分子である。糖は右手型しかない。らせんの巻く向きもだいたい右巻きだ。公平になど決してならないのだ。

そう思うと、この比喩は妙に気になる。「創業者のDNA」とはつまり「思想がだいぶ偏っている」ということなのだろうか? 私はこの言葉を聞くたびに、ちょっと疑り深く笑ってしまうのである。



生命の偏りは、実験室でも再現できる。1990年代、日本の化学者・硤合憲三らが発見した硤合不斉自己触媒反応(Soai反応)では、最初にほんのわずかな差しかなくても、自己触媒反応の連鎖を通じて一気に拡大し、最終的にはほぼ一方の型に染まってしまう。微小な揺らぎが、世界を塗り替えるのである。


また高分子化学の研究では、分子鎖が自ららせんをとり、外部からのわずかな刺激で右巻きか左巻きかが決まることがある。いったん方向が定まれば、雪崩のように全体が巻き込まれる。生命の秩序が芽生えるプロセスを思わせる現象だ。



私にはまったく理解できない領域の話ではあるが、物理学でも「対称性の破れ」は大きなテーマだ。磁石のN極とS極も、電子スピンの上向きと下向きも、本来は対称であるはずが、一斉に偏りをもつことで現れる。素粒子物理学では、宇宙そのものが「対称性の破れ」から生まれたとも言われる。


完全な対称性は美しい。しかし動かない。そこからの逸脱こそが、秩序を、変化を、そして生命を生む。



右手と左手──これほど身近な鏡像異性体の差が、我々人類を含むあらゆる生命の基礎となっている。

世界はほんの小さな偏りを拡大し、そこから複雑で豊かな“いのち”を育んできた。

私たちはみな、鏡の中で裏返された手から始まった、宇宙の“偏り”の子孫なのである。

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鏡写しから生まれた生命 - キラリティから対称性の破れまで 伽墨 @omoitsukiwokakuyo

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