第3話 家庭で育つ音楽
トイピアノでは満足できない様子を見て、私は試しに電子キーボードを買ってみた。
フルサイズの鍵盤が並んでいるけれど、音もタッチも軽い、初心者向けのものだ。
補助金のおかげで暮らしには余裕がある。男の子を産んだ家には国から手厚い支援があるのだから、こういう買い物に迷う必要はなかった。
座らせてみると、この子はすぐに指を動かし、童謡をなぞるように弾き始めた。
トイピアノのときよりも音が広がり、表情は嬉しそうに輝いている。
もちろん、小さな手ではオクターブに届かない。
親指と小指を目いっぱい広げても、まだ丸い手のひらでは鍵盤の幅を押さえきれない。
それでも諦めることなく、何度も挑戦し、器用に音を拾っていく姿に、私は胸が熱くなった。
――やっぱりこの子には「本物に近い楽器」が必要だったのだ。
それからの日々、家の中は小さな演奏会のようになった。
テレビから流れるCMソング。ラジオのジングル。
一度聴いただけで、この子はすぐに鍵盤に向かい、同じ旋律を奏でてしまう。
しかも、ただのメロディではなく、自然と和音を添えて。
「好きな曲」だけでなく、「初めて聴いた曲」まで正確に再現してしまう。
私はただ呆然としながら、鍵盤を見つめ続ける小さな背中を見守った。
やがて、親戚や近所の人が遊びに来たときのこと。
私は軽い気持ちで「この子、ピアノが弾けるのよ」と鍵盤に座らせてみた。
童謡の一節を奏でると、大人たちは一斉に目を見開き、驚きと歓声が上がった。
「まあ! 本当に弾いてるのね」
「まだこんなに小さいのに」
けれど、その反応はどこか軽いものだった。
「すごい」「珍しい」――それだけで終わってしまう。
その中に、近所の女の子――雪がいた。
母親に連れられてきたらしく、少し後ろの方からじっと見ている。
この子がふと奏でた一曲に、雪が小さく「……あ、その曲好き」と呟いた。
それを耳にしたのか、この子は嬉しそうに同じ曲を何度も弾き直した。
今度は少しテンポを落として、ゆったりと。
次は逆にリズミカルに弾いて、まるで踊るように。
そしてサビの部分だけを何度も繰り返して、笑顔で鍵盤を叩いた。
雪の目はますます輝き、夢中で聴いているようだった。
――大人たちの「すごい」よりも。
――その子の「好き」の一言の方が、この子にはよほど大切に響いているように見えた。
私は不思議な確信を覚えた。
この子の才能を本当に理解してくれる存在は、案外こんなふうに、同じ年頃の子どもなのかもしれない。
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