第2話 赤ん坊の音楽日記

 この子は――やっぱり少し変わっている。


 泣いていても、好きな曲を流すとピタリと泣き止み、じっとスピーカーを見つめる。

 何分でも飽きることなく、まるで音の奥を覗き込むように。

 逆に気に入らない曲だと、眉をしかめてまた泣き出す。

 赤ん坊に音楽の“好き嫌い”なんて、本当にあるものなのだろうか。


 そんな折、私は小さなトイピアノを買ってきた。

 鍵盤が二オクターブほどしかない、おもちゃのようなものだ。

 ただ叩いて遊んでくれればいい――そう思って。


 けれどこの子は違った。

 鍵盤を前に座らせると、すぐに音を探すように指を動かし始めた。

 流れていたお気に入りの曲を、そのまま弾き始めたのだ。

 驚いて見守る私の前で、音はただの音ではなく、確かに“メロディ”になっていく。


 少し目を離した隙には、なんと和音まで重ねていた。

 小さな手で低い音を添え、童謡に厚みを持たせている。

 赤ん坊の演奏だとは到底思えず、私は思わず息をのんだ。


 けれど、次の瞬間、この子の顔がすっと曇った。


 小さな手では、思うように音に届かない。

 人差し指を伸ばしても、もう一つ先の鍵盤には力が足りず届かない。

 親指と小指を目いっぱい広げても、まだ丸い手のひらではオクターブを押さえられない。

 指が鍵盤の上で空を切り、かすった音が鳴るたびに、眉をしかめる。


 さらに、高い音を出そうとして右へ進めば、すぐに鍵盤が尽きてしまう。

 低い音を探して左へ動いても、こちらもすぐに端にぶつかる。

 二オクターブの狭い音域では、この子の欲望を満たせないのだろう。


 何度も挑戦しては、思いどおりに動かない小さな手。

 苛立ちがその幼い顔にくっきりと浮かび、今にも泣き出しそうなくせに、目だけはまだ鍵盤を追い続けていた。


「……足りないのね、このピアノじゃ」


 私はぽつりとつぶやいた。

 まるで「もっと上まで、もっと下まで、もっと自由に手を広げたい」と訴えているかのようだったからだ。


 その夜、私は思った。

「この子には――本物に近い鍵盤を与えるべきかもしれない」


 小さな体で、どれだけの音を求めているのだろう。

 胸の奥に、ひそかな予感が生まれていた。

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