第2話 パソコンの場合

 朝、スマホのアラーム音と液晶の光で目を覚ます。結局俺はあの後、クローゼットの中で一夜を過ごすことにした。寝具類が全て擬人化してしまったため、いつものようにベッドの上で寝ることが出来なかったからだ。クローゼットの中に仕舞ってあった、擬人化しなかった服たちをフローリングの床に適当に敷いて、ひとまずの眠りについた。シャツやタオルを何枚も重ねて、かつ身体の上には掛け布団代わりに大きめの上着を羽織っていたとはいえ、やはり布団に比べれば肌寒い。秋の深まる長い夜の中、身が震えて何度も目が覚めてしまった。閉ざされたクローゼット扉の向こうにいるであろう彼女たちに、否応無しに意識が向く。彼女たちの温もりを想像して、現状の自分の温度に満足できなくなる。でも、彼女たちと一緒の空間で寝るなんて絶対無理!色々な意味で耐えられない!!たとえ俺が童貞であったとしても、である。いや、今それは関係ないか。

なんてことを思いながら、目覚ましのアラームを切る。目が覚めるとすぐにスマホの画面をつけて、現在時刻を確認する。やや寝不足で重い瞼も、スマホの明かりをしばらく見つめていると、不思議と冴えてくる。起き抜けの頭で、そういえば昨日はスマホの画面を見たまま寝落ちしたな、なんてことをぼんやりと思い出す。スマホの画面が開く。なんとなくインターネットのアイコンを触ると、例のウェブサイトが目に飛び込んできた。


ここには、死にたいと思ったあなたを助けるためのことがたくさん書いてあります。用法用量は守って読んでくださいね!

でまず初めにお伝えしたいことは、大事なこととして──────

───

1つ目に、


昨日からの続きを読もうとして、思考がストップする。

朝からあの画面を見る気にはなれなかった。インターネットアプリを一旦閉じて、スマホの画面を暗くする。何も映さなくなったスマホの画面から目を離し、クローゼットの中へと視線を向ける。真っ暗な空間に、スマホとは違う、一筋の明るい線が見えた。もうすぐ冬になるから日照時間も短くなってきているが、朝を迎えて外もだいぶ明るくなってきたみたいだ。手を伸ばして、クローゼットの扉に手をかける。体が動き始めると頭が勝手にまた思考を再開させる。あー、今日は大学、一限から授業だったな。

……待てよ、果たしてこの扉を開けて良いものか。体が一時停止する。

どういうわけか、昨日夜大学から帰ってきたら、アパートの部屋の中にある家具たちが女の子に擬人化していた。彼女たちは俺の欲求を満たすために擬人化したというが、現状部屋の中に女性が多すぎて、このままでは俺は普段通りの生活を平常心で送れそうにない。彼女たちにすぐに元の家具の姿に戻ってほしいと願ったが、彼女たちは俺の願いを叶えるまで元の姿に戻るつもりはないらしい。……それではなんだか言っていることと矛盾している気がするのだけれど。まあしかし、女の子が沢山居たとしても、ここは俺の部屋だということに変わりはない。それに、もしかしたら疲れて、大学から帰ってすぐに変な夢を見ていただけなのかもしれない。そう思いながら、どこか祈るように、確認するようにクローゼットの扉を、そーっと開ける。

 カーテンから注がれる朝日。窓の外からさえずる、さわやかで慎ましい鳥の鳴き声。そして、部屋の中に広がる珈琲とトーストのいい香り。

「「「おはよう!ユウト!!!」」」

なめくじのようにクローゼットからのっそりと這い出ようとする俺を、可愛さとはつらつな声で、見目麗しい方々が迎えてくれる。

「夢じゃ、なかったのか……」

 クローゼットからのっそりと這い出て、一夜にしてバキバキに固まった身体をほぐしていると、昨日玄関で迎えてくれたポニーテールに桃色のエプロン姿の女の子がプレートに載った朝食を持ってきた。

「……昨日は食べてもらえなかったから。お腹すいてるでしょ、良かったら食べて」

 あぁ、そういえば。昨日はゴタゴタしていて、結局夜ご飯を食べ損ねていた。……まあ、普段からそんなに食べない方ではあるのだけれど。目の前に立つ彼女の姿と台詞から、きっと昨夜もこうして食事を準備していたことが予想できた。

「……ごめん」

ありがとう。

「いただきます」

そう言って、食卓に向かう。とはいっても机も擬人化しているから、朝食の載ったプレートを床に直置きしているのだけれど。まあ、いいか。プレートの上には焼きたてのトーストが1枚あって、マーガリンがたっぷり塗られている。横の皿の上には目玉焼きとベーコンがあって、野菜も少し添えられている。結構ガッツリした朝ごはんだな。普段俺は朝ごはんを、大学の授業前に適当に済ませている。こうしたちゃんとした朝ごはんは久しぶりだ。量が多い上に、湯気と香ってくる強いマーガリンの油の匂いで胸焼けしそうだ。まあ食べられなくはないけれど、何よりつらいのは、こんなに沢山の人間に、特に異性に囲まれていると、とても食べにくい。視線が気になって、食が思うように進まない。

思えば、大学でもそうだった。入学当初は購買横に学食があるからと聞いて、どんなものがあるのかなと覗きに行ってみた。けれど、昼時のその場所は当然といえばそうなのだけれど、食事をしにきた他の学生たちがうるさすぎて、それ以降足を向ける気になれなかった。

キッチンが用意してくれた朝ごはんを目の前にして、朝から嫌なことを思い出してしまった。今日は1限から講義があるから、朝食にあまり時間をかけるわけにはいかない。トーストや卵、サラダをやや焦りながら口元に放り込んでいく。食パンのカリッと焼けた部分が喉に引っかかって、思わず咽せた。

「げほっ……」

「大変!飲み物。持ってくるね」

キッチンは慌ててマグカップに入った飲み物を持ってきてくれた。それは、温かい珈琲だった。何も映さない漆黒の水面が、俺の思考を迎え入れるようにゆったりと揺れている。

「淹れてたのに、お盆に載せるの忘れちゃってた。これ、ユウトの好きな飲み物、なんでしょ?」

ポニーテールのキッチンさんはぎこちなく笑う。昨日のパソコンが見せていた妖艶な笑顔とはまた違った魅力がある。

珈琲を喉に一口流し込んで、朝食の続きをとる。……しかし、複数の視線は未だ周囲から俺の方へと向けられている。ちらり、と周りに座る女性たち、擬人化した家具たちに視線を送る。掛け布団、敷き布団、毛布の寝具3人は仲良くベッドフレームに腰掛けている。本棚は壁際に座ったまま。机さんは部屋の真ん中で四つん這いになっている。あの姿のままで彼女に机代わりになってもらう訳にはいかないよな……少しその姿は想像してしまったけれど。

そしてパソコンは、朝食を食べる俺の隣に座って、笑顔で俺のことを見ている。正直、パソコンの視線が1番熱烈だ。

「そんなに人が食べているところをまじまじ見ないでくれよ」

「すいません。ご飯を食べているユウトさんのことを見るのが嬉しくて、つい」

仕方ないな……。元に戻ってと言ってもなんやかんやで聞いてもらえない位だから、見ていでくれと言っても暖簾に腕押しだろう。もうあまり言わないことにしよう。

いやしかし、こうして簡単ながら朝食ができるってことは、トースターを兼ねる電子レンジやポットは擬人化せずに済んだってことなのかな。トーストとハムエッグの残りを口の中に放り込み、舌に残るやや濃いめのマーガリンと卵黄とでぬるついた唾液の感触を感じながら、甲斐甲斐しくいろんな女の子たちが俺の部屋の中で家事をこなす様子を眺める。昨日パソコンにざっと説明してもらったとはいえ、パッと見、誰がどの家具・家電の擬人化なのかはよく分からない。昨日のパソコンの説明を思い出しながら彼女たちを見ている限りでは、元々の家具・家電の役割に近い行動を今のところしているようだ。例えば、さっき朝食を持ってきてくれたポニーテールの彼女はシンク・IH コンロなどを合わせた、いわゆるカウンターキッチンの擬人化で、料理全般を担当してくれているそうだ。台所に向かってみると、キッチンの他に、クールな顔つきをした女性が買い置きの飲み物、冷凍食品に囲まれている。食材の顔ぶれを見るに……もしかして、冷蔵庫まで擬人化してるのか……。

「って、食材!冷凍食品は溶けちゃうでしょ!!」

あやうく手に持っていた、空いた皿とマグカップの載ったプレートを取り落としそうになる。

「大丈夫ですよ、ユウトさん。冷蔵庫さんのそばにいれば、溶けることはありません」

パソコンは俺の持っていたプレートを支えながら、何でもないという風にしている。

「あ、そうなの……」

「そうそう。だから気にしないで朝食を続けてちょうだいね〜」

冷蔵庫のクールな表情に反して、ゆったりと飄々とした返事が台所スペースの方から返ってくる。とりあえずの問題はないようで、一方では山積みのような気もするのだけれど。まぁ、数多い彼女たちをどうするかはひとまず置いておくとして、とりあえず俺はもう大学に行かなければならない。繰り返しの確認となるが、今日は1限から授業があるのだ。のんびり朝食をとって、さらに擬人化した家具たちの問題を考えていたら流石に遅刻してしまう。講義に遅れる訳にはいかない。トーストと珈琲のおかわりを勧めてくるキッチンに丁寧にお断りを入れて、開いた器を渡して、再度お礼を言う。昨日廊下に放りっぱなしだったリュックサックの中身を確認して、俺は玄関へと向かった。

「「「いってらっしゃい!」」」

……玄関扉をまだ開けていなくてよかった。十数人もの女性が玄関先で俺を見送る様子を、近隣の人に見られたら何を言われるか。そういえば隣には同じ大学の先輩が住んでいるって、引越しの時に両親を通して、大家さんから聞いたんだっけか。今は静かだし、バイクの音もしばらくしていないから、先輩は昨夜からこの部屋には帰ってきていない様子だけれど。あ、いや待て。俺が出掛けたらこの後彼女たちはこの部屋に残るわけだろ。戸締まりはちゃんとしてくれるだろうか、彼女達の声は隣の部屋とか、近隣の方に聞こえてたりしないだろうか──。色んな想像が頭を駆け巡り、そのほとんどが心配事へと繋がった。そこで、出掛ける俺を見送ろうとする、擬人化した家具たちの先頭に立つパソコンに声をかけた。

「……まさかとは思うけれど、君たちは部屋の外まで俺についてくる、とかないよな?」

「いいえ。そのような行動は今の所考えていません。昨日のユウトさんの行動から、とりあえず、ユウトさんが私たちの身体だけでは満足していただけないことが分かりましたから」

「その言い方は語弊があるように聞こえるからやめてくれないかな……。というか当たり前だろ!昨日も言ったけど、俺はただ、いつもの生活に戻りたいだけなんだから、な! にしても……何でこんなことに」

そう頭を掻きながらついとこぼすと、パソコンの顔がさっと曇った。しまった、強く言いすぎたかな。でもそんな顔もどこかはかなげで、素敵だ。彼女の表情の一つ一つは本当に、俺の心に何故か刺さってくる。しかし儚げな表情に相反して、その小さな口元からは一転して冷たい一言が放たれた。

「あなたのせいですから」目の前の扉が勢いよく、バタンっと閉じる。

「俺何かしたか、パソコンに……」

しかし、その場で答えが見つかるわけもなく。

「朝からなんだか疲れたな……」

そのまま大学に向かうルートを、俺は選択した。珍しく朝から何か胃に入れたせいか、やや寝不足ではあったけれど、いつもと同じルートを歩くことでようやく頭が働いてきた。

擬人化した彼女たちのことをどうするか。そして1週間後に締め切りが迫った社会学のレポートはどうするか。差し迫った課題は以上2点である。後者はさほど重大な課題では無かったのだけれど、部屋の中の家具たちが擬人化したこと、特にパソコンが擬人化したことで問題は複雑かつ困難になっている。

レポートの書き方自体は、大学に入った当初は不慣れで何から手をつけていいのか分からなかったけれども、2年生も終わりに近づいてきた今日この頃は、レポート課題をこなす数も増えてきたし、レポートを書くことにもまあ慣れてきた。結局は教授や採点担当者が何を求めているかをなんとなく把握することが重要なのだ。何を書くかを制限文章内でざっくり決めてしまえば、あとは序論本文結論、と書き方が決まっている。書く内容がバラつかないように、文字数を埋められるように構成を決めるだけの単純な作業。要は書く中身を決めるだけのことだ。レポートを書くだけなら、簡単なんだ。

さまざまな思考が、大学へと、最寄りのバス停へと歩く俺の頭の中を飛び交っていく。レポートは自分の考えを教授に見てもらう絶好の機会。なのに、こなすこと、とりあえず出すことばかりを考えてしまっている。課題に追われて勉強することの本質が失われていっているような気がする。大学のことを、勉強のことを考えるだけでまた言語化できないモヤモヤが、憂鬱な感覚が俺の胸中に降り積もってくる。美味しかったはずの、やや味の濃い朝食が胃の中で重りになっていく。

勉強は嫌いじゃないはずだ。高校から志望して、大学で望んだ勉強が出来ているはず。なのに、どうして毎日大学に行くのにこう気が重いんだろう。人のことを、人がどう思うのか考えれば考えるほど、脳内の回転はゆっくりと同じことばかりを考えるようになってしまう。

いつもと同じバスに乗り込んだあたりで、俺は思考を切った。そして、スマホを取り出す。起きた時には見る気がしなかった画面が、目の前をゆっくりと流れていく。ブラウザから同じ画面を引っ張り出して、目だけで情報を流していく。内容は頭に入っている気がしないが、文字列を1つ、2つと流していくだけでなんとなく満足感が得られるような気がした。気づけば、大学にバスが到着していた。降りるためにスマホを閉じた瞬間、ぽかっと心のどこかに穴が空いたような感覚があった。バスを降りて吹いた風がその穴をすうっと通り過ぎていく。

 大学に到着すると、自販機に寄って飲み物だけを買い、講義室へと向かう。これもいつもの習慣だ。廊下を歩くと、後ろから近づく駆け足と共に、どんっと強めの挨拶を受ける。

「おはよう、ユウト!」

ヒロカズだ。俺と違って、朝からいつでも元気な奴。手で軽く押されただけなのに俺の身体はやや前方によろめいた。

「あぶねー、寝坊したけど、ギリギリ1限には間に合ったな」

ヒロカズとは大学からの友人で、賃貸を借りている俺とは違って、ヒロカズは大学から車でを少し走らせたところに実家がある。同じ学部で、入学式や最初の説明会あたりで席が近かったからということもあり、2年生になった今も講義をよく一緒に受ける仲である。サークルは別だ。ヒロカズは確か、運動系の部活に所属していると聞いたことがある。

ヒロカズはよく授業に遅刻したり、誰かしらに忘れ物を借りに来ることが度々ある。まぁ、よく言えばマイペースでおおらかな性格なのかもしれない。それに、明るいその性格と快活な空気は一緒にいてとても心地いい。それに、俺はヒロカズと一緒にいる時はあまり余計なことを考えずに済んでいる。

「そういえば社会学のレポート終わった?オレまだ手ぇつけてないの!ヤバくね?」

しかしその快活な勢い余って、こちらに直球を投げてくることもしばしばだ。また人が気にしてることを……俺の方がヤバい位だっての。

「……それが、レポート書いてた俺のパソコン、今使えなくなったんだよな」

「えぇ!?壊れたのか、あのノートパソコン?お前気に入ってたやつだったじゃん」

「壊れたわけじゃないけど、どうも調子がいつも通りじゃないというか、バグってるというか……」

書く内容は半分以上終わっていた。しかし、そのデータが入った愛用のパソコンは、何故か昨日の夜突然超美少女になってしまい、レポートが出来なくなってしまったんだ!!!……と、言い出せるわけもなく。そんな俺の気も知らずに、淡々とヒロカズは死刑執行の日を口にする。

「確か締め切りって1週間後だろ?あー、俺もそろそろ取りかからないとだよなぁ」こんな、たかが数千字で卒業のための単位の1つが決まるなんて、不思議な話だと思う。本当に。

 講義中。昨夜あまり眠れていないこともあって、退屈な内容を朗読する教授の声にあわせて、睡魔が襲ってくる。レポートの提出が絶望的に思えると、かえって清々しくさえなってきた。けれど、レポートを出さなかった場合の単位への影響や今後のことをまた想像して、書かざるを得ないことを悟った。どうにかして、パソコンに元の姿に戻ってもらわないといけない。そうでなければ、俺はレポートの続きを書くことができない。書きかけのレポートのデータは俺のノートパソコンにしか入っていないし、半分以上書き上がっているレポートを1から書き直す訳にはいかないからだ。

擬人化した家具をどうやって元の姿に戻すか。昨夜パソコンが言っていたように、俺の望みを、擬人化した家具たちである彼女たちに叶えてもらえば、家具たちは元の姿に戻ってくれるのだろうか。パソコンや擬人化した家具たちに俺の望みを叶えてもらうって、いったいどういうことだ?俺はいったい彼女たちに何をして貰えばいいんだ?そもそも、俺の望みって何なんだろうか。パソコンは俺の『三大欲求が欠けている』とか言ってたっけ。

つまり、単に俺が満足すればそれでいいんじゃないだろうか。と、そこまで考えて、講義にふっと意識が戻る。参考書のページをめくる。……講義の内容に全然集中できていないな。とりあえず、教授の言葉や板書をノートに書き留めていく。教授の話す内容が、ノートに書き写す文字列と共にインプットされていく。脳に刺激が増えたことで、ふと、パソコンを元に戻すための1つの案が浮かんだ。忘れてしまわないうちに、アイディアが思考に流されてしまわないうちに、慌ててそれをノートの端に殴り書きする。書くことに夢中になっていると、普段は気になって仕方がない、周りの学生のクスクスとした音と、話し声が混じりあう波長、隣のヒロカズが不思議そうな視線をこちらに向けているような気がすること、兎角周りから向けられているような気がしていた線が、全て、今日はなんだか気にならなくなっていた。授業中の方が妙に絵やネタがいい感じに書けたり思い付くってのは、あながち間違いではないのかもしれない。

慌てて書いていたからか、シャーペンの芯が筆圧でぱきり、と短く折れる。あっ、と小さく声が出た。どうしてこれくらいのことでごめんな、とか、口には言葉にはならないけれど、胸の奥から染み出すような悲しみが顔を覗かせるのだろうか。欠けたシャー芯を、消しカスと一緒に机の端にそっと寄せておく。

長いようであっという間な講義の時間が終わった。今日は1限から講義だったが、講義の時間自体は午前中で終わった。午後からは特にやることはない。だというのに、周りの学生たちはどうしてなのだろうか、講義の終わった講義室の中に大勢が残っている。俺は足早に鞄に荷物をしまって、講義室を後にする。

「ユウトはこのまま帰るのか?」

「あぁ。今日はバイト休みだから、家に帰って……」

レポートの続きをする、と言いたいところだが、果たしてうまくいくだろうか。

「そっか。俺はこれからサークルの方に行ってきます!」

と手提げ鞄とスマホを片手にヒロカズはサークル棟へと向かっていった。

「サークル、か」

俺にとって、人付き合いは昔から苦手なことの1つだ。騒がしい。ただでさえ物の声が聞こえるような気がする、という変な癖というか症状があるのに加えて、誰か他人と一緒に長時間いるなんて。対して友人のヒロカズはすんなりとコミュニケーションをこなしている、ように見える。他のゼミ生との食事の約束とか、さらっとなんでもないようにこなしている。だからヒロカズから聞く彼のスケジュールは、いつも忙しそうだ。まあそのせいでよく遅刻しそうになっているのを見かけるけれど。でも、何かしらの情熱を持っているということは羨ましいような、少し妬ましいような。友人にそんな感情を持ち歩くことすら面倒に感じてしまい、俺はまた思考をストップさせて、短い帰路へと着いた。講義棟を出ると、太陽はまだ出ているのに、季節通りの冷たい風が頬を撫でる。少し伸びてきた髪が目元をこすってきて、むずがゆい。しかし外の温度に反して、俺の部屋の中は賑やかで、ワンルームには高すぎる人口密度のせいで、熱いくらいだ。アパートの玄関扉を開けると、人のいる温かい空気が外に飛び出してくる。

「おかえりなさい、ユウトさん」

ポニーテールのキッチンさんが出迎えてくれる。後ろにはパソコンもいて、ちょこんと背の低い姿を覗かせる。

「ユウトが帰ってきたの?」

「嬉しいね」部屋の中からは他の家具たちの声もする。

相変わらず人が多いな……この部屋の中にいる人間は俺だけで、あとは家具だけのはずなのに。リビングのフローリングに腰を下ろすと、パソコンも俺に倣うように横に座る。黒のハーフパンツから覗く白い足が眩しい。

「ちょっといいかな」

講義中、偶然に思い付いた計画を頭の中で何度もシミュレーションしながら、横に座るパソコンに声をかける。とにかく、やってみるしかない。レポートを書くためだ。

「はい、ユウトさん」

俺の声に振り向くパソコンは、幼げな顔にやわらかな笑みを浮かべる。朝の表情もあってか、その顔と動きは昨日よりも少しぎこちなく見えた。でもやっぱり、可愛い顔だよな。パソコンに俺の考えをはっきり言うぞ、そう先ほど固めた決意も彼女の前ではもろく砕けそうだった。が、必死にとどめて話を続けた。

「君を、使わせてくれ」

パソコンの目が見開かれた。大きな瞳がその眼窩から飛び出してしまうんじゃないか、と思うほどに。

「お任せください、ユウトさん」

そう言うと、パソコンはそれはそれは嬉しそうな笑顔で、おもむろに俺の目の前で服を脱ぎはじめた。

「……そ、そういう意味じゃなくて!!!」

白いカッターシャツから覗く、肩からその下にかけてのやわらかな曲線を描く白い肌を片目に、慌てて俺はシャツを肩口から降ろそうとしているパソコンを制止する。パソコンがなにをするつもりかは知らないが、なんでそんなに嬉しそうなんだよ!不満そうにじっとこちらを見つめるパソコンの姿から目をそらしつつ、言葉を続ける。

「君を使いたいっていうのは、そういう意味じゃなくて……!パソコンとして使いたいってことなんだ。つまり、元のパソコンの姿に戻ってくれるだけでいいんだ。元の、ノートパソコンに戻ってくれないか」

「嫌です」パソコンは真っ直ぐな目をこちらに向けたまま逸らしてくれない。俺はパソコンへと向き直る。

「どうしてそんなに頑ななんだよ。理由を教えてくれ」

「昨日、私が言った通りです」

「じゃあ、俺の三大欲求を満たすため、だっていうのか。けれどそんなのは内容が漠然としすぎている。それに、俺は今はそんなこと全然求めていない。お腹もいっぱいだし、昨日も寝たし。せ、……性欲もまあ、そんなに酷くないし。……つまり、欲求はほとんどない。だから今の俺は満たされている」

「それは、満たされているとは言いません」

「どういうことだよ。俺には欲求なんてないんだ。俺はただ……」

何も、もうしたくないくらい、楽になってしまいたい。そんな俺の思いを知ってか知らずか、パソコンと見つめ合ったまま、沈黙が部屋の中に流れる。他の家具たちも空気を読んでいるのか、少し離れた場所から俺たちのことを見ているようだ。このままじゃ話が進まない。パソコンに対して、というか、擬人化した家具たちを元の姿に戻すためには正攻法、直接的な説得はやはり難しそうだ。このままだと目的である、パソコンを使ってレポートを仕上げるという目的が果たせない。どうしたものか。と、俺は肝心なことを忘れていた。

「そうだ、学校のパソコンがあるじゃないか!使ってたUSBに、レポートのバックアップが多少は残っているかも……」

今日は午前中で講義も終わったから、時間に余裕もある。レポートの締め切りがあるのはほかの学生も同じだから、共有のパソコンが置かれている大学の情報処理室はやや混み合っているかもしれないが、この際仕方ない。リュックを再び手に持って玄関へと向かおうとする。すると、パソコンが目の前に立ちはだかった。両手を広げて、玄関扉への一本道である廊下を塞いでいた。白い小さな手が、少し震えている。

「なんだよ、パソコン」

「駄目です。今のユウトさんを大学へ行かせるわけにはいきません」

「なんでだよ」

「……なんででも、です」

頬を少し膨らませて、顔を持ち上げる。紅い瞳がかすかに潤んで揺れている。パソコンのこの表情に、俺はめっぽう弱いみたいだ。リュックの肩紐を握る力が抜けていく。俺は、今日の講義中に思いついた1つの案、思いついてからずっと捏ねくり回していた考えを、パソコンに提案する。思いついた時はこれしかない妙案だと思っていたのに、今になって冷静に考えれば考えるほど、馬鹿みたいな方法だと思う。でも、試してみる価値は多少はあるかもしれない。

「パソコン」

「……はい」

「明日、俺と一緒に出かけないか」

パソコンの紅く光る瞳と視線が合う。潤んだ瞳から、一筋、雫が溢れる。

「ほえ?」

パソコンの気の抜けた声を、俺は初めて聞いた。


 翌日は休みの日、と言っても大学の講義が1日を通して何もないだけで、世間一般には平日である。この方が街に出歩く人も少なくて、都合が良いだろう。パソコンと外に出掛けるには。……文字にするとなんとも変な感じだ。

今日、パソコンにしてもらうことは外出先、それもあまり来たことがない場所を道案内してもらったり、俺が疑問に思ったことを調べてもらうことだ。パソコンは、検索機能やデータの保存など、元から持っている能力を人の姿になってもある程度持っているらしい。人の姿を持つからこそ、道案内や情報の伝え方はパソコンの時よりも直感的に聞くことができて、ある程度分かりやすい。……まぁ、これくらいならスマホでも事足りることなんだけれど。

「前から気になってた喫茶店があるんだ。うちからも大学からも少し距離があるから、なんとなく行きそびれていたんだ」

「そういえば、ユウトさんの検索履歴に、そのお店の情報が残っていますね」

検索履歴、と聞いて冷や汗が出る。人間の姿のパソコンたちと初めて会った日のこと、パソコンたちが擬人化した日の夜を思い出す。俺の嗜好、夜の画像の検索履歴を元に、彼女たちはデザインされていた。おそらくそれはパソコンの検索履歴を参考にしたのだろう。パソコンを擬人化する前に見たのか、それとも擬人化させた後にパソコンから聞いたのかは分からないけれど、擬人化させた誰かに、俺の検索履歴を見られているなんて、気持ち悪い。しかし考えすぎても、パソコンにアクセスされた履歴を見れるわけでもないし、俺はそこまでパソコンのマニアックな操作に精通している訳ではない。今は犯人の手がかりすら探すことはできないので、考えることを一旦やめる。

バスに乗って、普段向かう方向、大学とは違う方向へと向かっていく。バスが停留所を過ぎていくたびに、見慣れない景色が車窓の外に増えていくのを俺は隣の席に座るパソコン越しにぼんやりと眺めていた。パソコンも窓の外の景色を静かに、じっと見つめている。ちなみに今日のパソコンの服装は普段と同じで、白いカッターシャツに、黒のハーフパンツである。出かけるのなら何か別の服に着替えるのかなとも思っていたのだけれど、そうではないらしい。まあこの服装がパソコンには1番似合っているよな。パソコンは静かに外の景色を見つめている。そういえばパソコンが外の景色を自分の目で見るなんて初めてのことじゃないだろうか。俺が外にノートパソコンを持っていく時には、いつも黒いケースに入れていたから。

「到着まで、あと15分です」

しかし、目的地までの所要時間をナビよろしく淡々と告げるパソコンを見ていると、実際外の景色にそこまで興味はなさそうに思えた。人の姿形をしていても、人間のような細かい機微というか、感情までは持ち併せていないのだろうか。でも、家にいる彼女たちはもう少し人間に近いというか、今、パソコンとしての能力を発揮しているパソコンが、元々の『物』に近いというのか……。擬人化した家具たち、彼女たちの持つ感情、思い、心とは、俺の三大欲求を満たすこと、それだけなのだろうか。

しばらくして、最寄りのバス停に停車した。パソコンによると、目的地の喫茶店はここから歩いて10分ほどらしい。慣れない道をパソコンと一緒に歩きながら、パソコンのナビのようなどこか機械的な話し方や、他の人とは違う『物』からかもし出される独特の雰囲気で怪しまれるんじゃないかと、ドキドキしながら行動した。どうにも周りの歩く人の視線が気になってしまう。「見て、あの人たち」とか「何してるんだろうね」とか、思われているんじゃないかと。気にし始めたら際限ない。というか横に並んでみると俺の胸くらいにパソコンの頭があった。俺とパソコンにはだいぶ身長差がある。俺たち2人はどんな関係性に見えているのだろうか。……いや、考えたって仕方ない。とにかく、知り合いにこの様子を見られてないといいな……。実家は県外にあるし、今日は平日だから、共働きの両親に俺たちを見られる心配はまずない。ヒロカズは、今日は1日サークルだと言っていたので、大学に近づかなければヒロカズと会う可能性はゼロ!……のはずだ。サークルで別の場所に出かけたり、郊外で活動していたら鉢合わせする可能性もあるかもしれないが、まあ喫茶店に行くくらいなら大丈夫だろう。

そんな俺の悩みを知ってか知らずか、パソコンは目的地に向かって俺の半歩前を黙々と歩き続けている。時折「この角を左です」とか、いかにもナビっぽいことは言うものの、他は黙りっぱなしだ。そろそろ沈黙が辛くなってくる。

「なあ、パソコン」パソコンが角を曲がる。その姿を、一瞬見失ってしまった。

「目的地に到着しました」パソコンの声だけが聞こえる。慌ててその後を追う。

「ユウトさん、ここがユウトさんの来たかった喫茶店ですよ」

パソコンが角越しに振り返って顔を覗かせる。その笑顔が眩しい。先程までの機械的な声とは打って変わって、いつもの可愛いパソコンの口調と雰囲気に戻っていた。

店内に入ると、ドアに取り付けられたベルがカランコロン、と透き通った音を響かせた。店内の適当な2人掛けの席に、パソコンと向かい合って座る。程なくして店員さんがやってきて、注文を済ませた。パソコンの案内で、前から気になっていた喫茶店に入り、珈琲を頼む。俺が見つけて、行きたいと誘った場所ではあるけれど、ここの珈琲がいかに他店と違うのか、パソコンはその産地から店長のこだわりまでを詳しく説明してくれる。パソコンの言うことはあくまでもネット上の評判などの情報をもとにしたことであって、全てが真実ではないかもしれないし、間違った情報も含まれているかもしれないが、パソコンは声を弾ませて、楽しそうに事細かに語ってくれる。俺が相槌を返すと、パソコンも嬉しそうに話す。最初は、レポートを書くために、パソコンに元の姿に戻ってもらうために、俺の役に立ってもらうためにこの喫茶店に来たけれど、この時間を楽しむっていうのも、案外ありかもしれないな。

珈琲が2つ、テーブルの上に置かれた。香ばしい匂いが漂っている。先ほどのパソコンの説明のおかげで、目の前の珈琲がより美味しそうに見える。

「どうせなら、俺とは違うメニューを頼めば良かったのに」

「いいんです。これで。私は、ユウトさんと同じものを食べてみたいんです」

そういえば擬人化した家具たちは、食事を取っていない。俺の分の食事は用意しているけれど、彼女たちは何も食べていない。俺が食べている姿を嬉しそうに眺めているだけだ。じっと見られていることに加えて彼女たちは何も食べないときたものだから、余計に食べにくい。まあ彼女たち擬人化した家具たちが人間と同じように3食食事をしていたら、何日もしないうちに俺の財布の中身はすっからかんになっていただろう。

珈琲を味わっているとしばらくして、このお店オススメだという手作りのだし巻きサンドが運ばれてきた。流石にサンドイッチ一人前分を1人で食べるには、普段あまり食べない俺にとって、そしておそらく初めて食事をするであろうパソコンにとっても多いだろうと思っていたから、一人前のだし巻きサンドをパソコンと2人で分けて、食べた。

パソコンがだし巻きサンドを小さな口を一生懸命開けて、頬張る。普段は食事を取らないパソコンも、今だけは、人間のように食べている。そんな姿を眺めていると、俺も嬉しくなってきた。久しぶりに、胸の奥に温かいものが流れ込んでいる気がする。珈琲のおかげかな。擬人化した家具たちも、こんな気持ちで俺のことをいつも見ているのだろうか。パソコンと2人で、喫茶店の中、ゆっくりとした時間を過ごすことができた。

誰か他の人に見られないか、無事に外出の行程を終えられるのか。いろんな意味でドキドキする1日は、あっという間に過ぎていった。夕焼けを眺めながら、珈琲の残り香を纏った2つの長い影は、ゆったりと帰路につく。喫茶店からバス停までの道のりをパソコンと2人で歩いていた。

「ありがとう。今日は気になってた喫茶店に行けて、パソコンからいろんな話を聞けて、楽しかった」

「私も、ユウトさんに喜んでもらえて、とても嬉しいです」

そういうと、パソコンはこれまでで1番まぶしい笑顔を向けた。目を細めて、頬が少しだけ赤くなっている、ように見えた。パソコンの背で夕陽が地平線と溶け合っていく。燃えるような橙色の光がパソコンの白い肌に色をのせて、赤く色づいたその頬は、きっと暖かな熱を持っているんだろう。

アパートの部屋に戻り、今はクローゼットの中。俺は、パソコンと2人で薄暗い密室で向かい合っていた。彼女の顔は帰り道と同じで、赤く色づいている。おそらく、俺も。肌寒い季節のはずなのに、2人の間に流れる空気は、さっき飲んだ珈琲のように熱を帯びていた。

パソコンが言うには他の女性達、もとい家具たちには、自分が元のパソコンの姿に戻る様子を見られたくないらしい。しかして、必然的にこのような状況になっていた。

パソコンは正座をして、ゆっくりと目を閉じる。2人分の静かな温もりを持った息だけが、クローゼットの中にゆっくりと満ちていく。喫茶店での残り香と、程よい満腹感もあってか、俺の瞼も自然と重く閉じようとしていく。一瞬、淡い光が目の前で放たれた、かと思い瞼を開ける。目を閉じかけていたせいか、薄暗いクローゼットの中でも視界はすぐに暗闇に慣れて、クリアになる。

パソコンは元の姿に、白いノートパソコンに戻っていた。

「パソコン……」ゆっくりと手を伸ばして、ノートパソコンの背に触れる。これがさっきまで人間の形をして、話していたなんて。白のノートパソコンを何日振りかに見て、なんだか懐かしくさえ思った。モニターを、ゆっくりと持ち上げて、電源ボタンをポチッと押す。メーカーマークが画面に表示される。ロード画面、パスワードを入れて、ログインする。いつもと変わらないデスクトップと、書きかけのレポートのデータファイルがそこにあった。普段使っていた、白のノート型パソコン。これが、パソコンの、人間の少女の可愛い姿だったなんて、なんだか嘘みたいだ。

「やれやれ……」

パソコンの前で胡座で座り、大きく息を吐く。俺の欠けた三大欲求を満たす。それはつまり、これまで叶っていなかった俺の望みを叶えてもらうということ。考えてみれば単純でかつ簡単なことだったんだ。この調子で、他の家具たちにも元の姿に戻ってもらおう。そうすれば、すぐに元の日常に戻れるさ。

「とりあえず、バックアップを取っておくかな」俺は手持ちのUSBに社会学のレポートと、他に必要なデータをいくつか移行した。そしてそのまま俺はレポートの続きをクローゼットの中で書き進めることにした。時間にして大体2時間ほどだろうか。あとはもう少し文献を調べて、書き足して、推敲すれば終わりそうだ。今日はこのまま風呂に入って、寝よう。とはいっても、寝具類は未だ人の姿のままなので、俺は今日もクローゼットの中で、ひきっぱなしの洋服の上で眠るしかなかった。パソコンの次は、寝具たちも早めに元の姿に戻さないといけないな。俺の願いを、望みを叶えてもらうことで、パソコンは人間から元の姿に戻った。他の家具たちもきっとこの調子でうまくいくだろう。

 そういえば家具が擬人化した初日の夜、つまり、一昨日の夜のことになるが、その時にも思ったけれど、夜はずいぶん静かだよな、彼女たちは。……というか、この擬人化騒動が起きてから、まだ2日しかたっていないのか。しかし、レポートの締め切りまでの貴重な2日間を、俺はレポートのデータを取り出すことだけに使っていた。クローゼットの外に耳を向けると、物音ひとつしない。もしかして、擬人化した家具たちは、夜は元の家具の姿に戻っているんじゃないだろうか。確かめてみるか。クローゼットの扉にそっと手を伸ばす。けれど、この扉を開けた瞬間、扉の隙間から彼女たちの目が俺を覗き込んでくるような気がして、やめた。ただ静かに寝ているだけかもしれない。そう思いたつと、擬人化した家具たちである彼女たちがワンルームの中で仲良く雑魚寝している様子を、脳が勝手に作り出して想像する。……ダメだ。また寝息でも聞こえてきたら、ただでさえ浅い眠りが、さらに浅くなりそうだ。スマホを開いて、ウェブアプリを開いて、例のサイトを覗く。ぼんやり眺めていると、少しだけ心が落ち着くような気がする。スマホから一度目を離して、目を閉じていても、液晶の四角い白い画面が、目の裏にぼんやりと浮かび上がってくるようだ。次第に眠気が波のようにやってくる。眠いような、でも画面を見ていると目が覚めてくるような。ウェブアプリを閉じて、スマホのホーム画面をみると、珍しく電話の方に通知が入っていた。見てみると、フリーダイヤルからの着信だった。

「最近多いんだよな……」履歴を消して、ひとりごつ。ふと、なんとなく他の履歴を見ていると、通話履歴に、見覚えのないフリーダイヤルからの電話番号が残っていた。いつもフリーダイヤルからの着信は誤タップするといけないから、履歴から消しているはずなのに、昨日あたりは消し忘れていたのだろうか。誤って電話を掛けてしまわないように、そうっと番号を押して、通話履歴から消す。と、消す直前に見えたアイコンに、違和感を覚えた。

「よく見たらこれ、着信履歴じゃなくて、発信履歴だな。……だったら、なおさらどうしてこんなのがあるんだ?」

もう履歴から消してしまったから、どんなフリーダイヤルに電話をかけてしまっていたのかは確認することはできない。しかし俺の記憶に、スマホで電話をかけた記憶はここ最近ない。

「……なんだか気持ち悪いな」

謎のフリーダイヤルへの着信に、疑問が残る。しかし、もうデータはスマホの画面から消えてしまった。俺が消したからだ。

「……考えても仕方ないか」

重ねた布ごしからでも背中から伝わってくる、クローゼットの床の感触に、俺は無理矢理にでも目を閉じる。パソコンは元に戻った。あとは他の家具たちを元に戻すだけ。これ以上の厄介ごとはもううんざりだ。しばらくして、ようやく眠気のビックウェーブがやってきた感触を感じた。風呂に入るのは明日にしよう……。


 朝。珈琲の香りで目が覚めた。昨日パソコンと出かけた喫茶店のことを夢現に思い出す。手を伸ばしてスマホの画面を確認すると、アラームの鳴る数分前だった。狭いクローゼットの中で変な姿勢で寝ていたせいか身体が若干痛い。そういえばパソコンを横に置きっぱなしで寝たんだっけか。パソコンを退けようと、無意識で腕を伸ばして反るような姿勢になっていたらしい。ひとまずパソコンを安全な場所に片付けよう、とパソコンを置いていた前方に、腕を伸ばす。

ふにふに、とした感触が手のひらに伝わる。いつも肌に当たるタオルや敷布団、掛け布団、ましてやフローリングの床の感触とも違う、熱を持ったやわらかい感触が指先から脳にゆっくりと伝わってくる。寝起きの視線を動かすと、そこには見覚えのあるマークが、白い双丘の間に見えた。

「なんで?」俺の掌の中には、パソコンの胸部がはんなりとおさまっていた。

「おはようございます、ユウトさん」

パソコンはにっこりと笑っていた。その顔に浮かべられた幼い笑顔はとてもじゃないけれど無邪気には見えなかった。慌てて手と身体を飛び跳ねるように動かしたせいで、俺は発火しそうになる後頭部を、クローゼットの入り口ドアにしたたかに打ち付けていた。

 朝を迎える、珈琲とトーストの香り。この生活が始まってから早や3日目。このどうしようもなく心地良い目覚めの空気にもなんだか慣れてきてしまっている自分がいる。ざくっと音をたてるよく焼けたトースト。そこに染み込んだバターに、ジャムの舌触り。シンプルな食卓の周りでは、数名の女性達がいそいそと家事をこなす。そこからふっと鼻先をくすぐる、女性特有の甘い石鹸のような匂いには、まだ慣れない。前より少しだけ食欲が湧いてきたような気がする。考えることが増えたからだろうか。それとも誰かと喋る時間が増えたからだろうか。

しかし、その朝の心地よい空気とは裏腹に、俺の横でにこやかな笑みを浮かべる女性に、俺はここ数日悩まされている。いろんな意味で。

「今日はやけに上機嫌だな、パソコン」

「ユウトさんとご一緒ですから、当然です」

熱めの珈琲を口に含んで、目の前の現実が夢ではないことを確認する。昨日パソコンを使って、気になっていた喫茶店に行くという俺の望みを叶えてもらったにもかかわらず、一夜明けてパソコンは再び人間の、可愛いらしい姿になっていた。なんでまた人間の姿に?それも服がやや脱ぎかけで?なんで俺はパソコンを横に置きっぱなしにして寝てしまったのか……

「昨日のあれで満足しなかったのか!?」

思わず大きな声が出た。まずい。朝早くから騒がしくしてると両隣の部屋の人から何を言われるか分からない。昨日帰ってきた時に駐輪場にバイクが停まっていたから、隣室の先輩も今は在宅中のはずだ。

俺の気苦労を死ってか知らずか、パソコンは嬉しそうな笑顔で話をする。

「昨日のデートで、一時的に満足しました。ですが、まだまだユウトさんのお役にたちたい。その心が、思いが、私を再び人の姿へと変えたようです」

パソコンはこれがさも当然なのだと言わんばかりに胸に手を当てている。昨日の外出が『デート』であったかどうかは、ひとまず置いておくとして。

「元の姿で、十分俺の役に立っていると思うんですが……」

どうしてそこまで人間の姿になりたいんだ、彼女たち、俺の部屋の家具たちは。

「人間なんて、めんどくさいだけなのに」俺の口からはぼそりと、そんな言葉が溢れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る