騎士の給餌は手間がかかる




 シリウスは、王国での食事を思い出していた。



 騎士団での食生活は、立場も階位も関係なく、皆が同じものを食べる。1日3回の食事は、食堂で提供されていた。


 テーブルに、湯気を立てるシチュー鍋と肉の皿が並んでいた。

 団員たちは列を作り、器にとろとろのシチューとパン、肉をよそっていく。


 シリウスの番になった時、当番の兵は鼻で笑い、黒パンと水だけを置いた。


『お前みたいな落ちこぼれに、肉はもったいねえからな』


 男がそう言うと、周りは笑った。近くには騎士団長や上官の姿もあったが、彼らも見て見ぬふりをしている。

 シリウスは乏しい食事皿を持って、皆から離れた席についた。シリウスのそばには誰も近寄らない。

 シチューや肉にかぶりつく団員たちの笑い声が、遠くに聞こえる。

 テーブルのそばを通った騎士が、これ見よがしに大きな声を上げた。


『俺たちはいつも命がけで戦ってるってのに、誰かさんは魔物をおびき寄せるだけ』

『しかも、先日はこいつのせいで、また怪我人が出たって? 何回、団長から罰を受けたら学習すんだよ』


 シリウスは黙って、固いパンを噛みしめた。


 ぱさついた生地が舌に張りつき、喉を通る度にひりついた。

 それでも、食べなければ明日の任務に立てない。




 そんな記憶が脳裏をめぐり、シリウスはハッと目を開けた。

 周囲は薄暗い牢の中だ。シリウスは1人、床の上に転がっていた。



 ――そうだ。ここは魔王城。自分は捕虜となった。



 空腹のあまり意識が遠のいて、昔の光景を夢に見ていた。

 騎士団の食堂で、皆が食べていた美味しそうなシチュー。脂の乗った肉。一度もシリウスは口にしたことがなかった。

 シリウスに渡されるのは、固いパンと水だけだった。


 あのパンを食べながら、いつも考えていた。

 他の隊員たちが食べている食事は、どんな味がするのだろう。温かい食事が喉を通る感触、胃を温めてくれる感覚とは、どんなものなのだろう。


 シリウスの目の前には、スープの皿とパンが置かれている。竜人のコックが置いていったものだ。

 このスープは、見た目だけならばあの時のシチューによく似ている。だから、思わず手を伸ばしそうになってしまった。


 だが、ダメだ。

 敵地で出された食事に手を付けるなど。

 それは騎士として恥ずべき行為だ。


 騎士としての矜持――それだけがずっとシリウスを支えていた。騎士団でどんな扱いを受けようとも、それを守ることで自分を保っていた。

 だから、それだけは捨てるわけにはいかない。


 魔王城で出された食事がどれほど美味しそうに見えても、どれだけ食べたいと思っても。

 決してそれに手を付けることは許されないのだ。


 シリウスは空っぽの胃を守るように体を丸めた。



 ◇



 闇の中、赤い瞳が怪しく光る。

 音もなく牢に現れた男は、騎士の傍らに立った。その背には一対の翼が生えている。


(忠誠で腹がふくれるかよ)


 レイヴァンは呆れながらも、しゃがみこんで頬杖をついた。


 騎士は気を失って倒れていた。瘦せこけた体。青白い顔。衰弱していることは一目でわかる。

 晩餐では、この騎士はついに一口も食べなかった。

 レイヴァンは『まあ、放っておけば、そのうち食べるだろう』と思い、騎士を牢に戻した。その際、ロガンに命じて、スープ皿を置かせたのだが。


 皿に視線を向けると、かさがまったく減っていない。この男は信じられないことに、ここまで来ても、食事に手を出していないのだ。


(……なんつー強情な奴だ)


 あの程度の怪我で動けなくなるような、脆弱さなのに。この気概はどこから湧いてくるのか。レイヴァンはこの騎士に興味を抱いていた。


 ――こんな奴、人間よりもずっと強い力を持つ魔族にだっていない。


 手を伸ばして、騎士の頬をぺちぺちと叩く。


「おい、騎士くん。本当に餓死するぞ? 毒を盛られてないか心配なら、俺が毒見してやってもいい」


 しかし、騎士は目を覚まさない。それどころか、ピクリとも動かない。命が燃え尽きる寸前にいる。


「ったく……しゃあねえなあ……」


 何と手間がかかる捕虜だとぼやきながら、レイヴァンは掌を騎士に向けた。

 魔力が全身を巡る時、それが赤い光となって腕と手に浮かび上がる。


 悪魔族が使う魔法は、人間が使うものとは異なっている。体内に存在する魔核から力を引き出して、術を行使するのだ。体内に力の源があることで、発動時間が短く、また魔核の大きさに比例して、術の規模も破壊力も増す。


 そして、レイヴァンは悪魔族の中でも、規格外の魔核の大きさの持ち主だった。


 難点は魔法を使う時、悪魔本来の姿に戻ってしまうことだ。レイヴァンの場合、瞳孔が開いたり、皮膚の色が変わったり、翼が生えてしまうので、見た目が不気味になる。


(悪いが、少し記憶を見させてもらうぞ)


 レイヴァンは騎士の頭に手をかざした。

 彼の記憶を探り、どうしたら食事をとるようになってくれるのか、ヒントを見つけたかった。


 騎士の記憶――見始めてすぐに、レイヴァンは思い切り眉をひそめた。


(……胸糞悪いな)


 この男、食事に関して、まるで楽しい記憶が存在しない。


 ――そんなこと、ありえるのか!?


 だんだん、怒りを超えて、戦慄の域に入ってきた。


(何か……何かあるだろ!? 楽しい記憶の1つくらい……って、お)


 記憶をずっとずっと若い時まで遡って、レイヴァンはようやく、その思い出を発見した。



 ◆



 その時、シリウスは夢を見ていた。

 とても懐かしい――騎士団に入る前の記憶だ。


 シリウスは母親と2人で暮らしていた。

 物心ついた時から父はいなかった。貧しいながらも、静かで平和な時を過ごしていた。


『あなたのお父さんは、とても立派な騎士だったのよ』


 母はいつもそう言っていた。


『あなたもいつか、お父さんみたいな立派な人になってね』

『うん!』


 母はよく野菜のスープを作ってくれた。肉はお金がないので、滅多に買えなかった。


『さあ、食べましょう。いつもこんな質素なご飯で、ごめんね』

『そんなことないよ』


 野菜の切れ端ばかりのスープ。だが、いつも母はシリウスに具を多くよそってくれた。

 出来立てのスープは口に入れると、体を優しく温めてくれた。


『母さんのスープ、すごく美味しいから』

『ふふ、ありがとう』


 笑顔の母に見守られる中、シリウスはスープに口をつける。

 じんわりと優しい味がした。

 これは夢のはずなのに、五感がはっきりと感じられる。味も、匂いも、胃がじんわりと温かくなってホッとするあの感覚も。


(リアルな夢だ……)


 全身の隅々に、その美味しさが染みわたる。

 泣きたくなるほどに、そのスープは美味しかった。


(美味しい……。やっぱり、美味しいよ。母さん……)


 その時、夢がふっと途切れる。

 冷たい牢獄の景色がかすかに重なった。目の前には空になった皿。

 男の声が近くで響いた。


「……やっと飲んだか。意地っ張りの騎士くん」


 シリウスの意識は、そこでまた途切れた。



 ◆



 牢から立ち去りながら、レイヴァンは考えていた。


(…………あいつの中にあった、唯一・・の幸せの記憶)


 彼の記憶を見る限り、シリウスの母は彼がまだ子供のうちに亡くなっている。それ以降、シリウスには幸せな記憶が一切なかった。

 レイヴァンは彼の記憶を覗き見したことを後悔した。無性にやりきれない思いに捉われる。


「あんな夢なんかじゃなくて、普通に腹いっぱい食わせてやりてえなあ」


 ぽつりと呟いた言葉は、闇の中に溶けていった。

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