くっ、屈辱だ…(美味しい)


 目を覚ますと状況は変わらず、牢の中だった。


 しかし、頭がさっきよりもはっきりとしている。シリウスは体を起こして、自分の体の変化に気付いた。

 末端まで冷え切っていた体が、今はじんわりと温かい。

 何より、空腹がマシになっている。


 これなら動くことができそうだ。シリウスは音をたてないように体を起こすと、鉄格子へと近付いた。

 そこで扉がわずかに開いていることに気付く。


 ――なぜだ?


 捕虜であれば、逃げられないようにするのが普通のはず。

 これは、まさか罠だろうか。


 シリウスは短い時間の中で、考えを巡らせた。

 そして、これが仮に罠であっても、このチャンスを逃すわけにはいかないという結論を出した。


 そう決断すると行動は早かった。鉄格子のそばにしゃがみこんで、耳を澄ます。


(巡回は規則的に行われている。次に兵が通り過ぎた時が好機か)


 そして、その機会はすぐに訪れた。

 兵の足音が遠ざかっていく。


 シリウスは慎重に扉を開ける。そして、素早く廊下へと出た。

 廊下を照らしていた松明を1本、拝借して、衛兵の足音が遠ざかっていった方へと向かう。

 曲がり角にたどり着くと、壁に背をつけて様子を窺った。

 その先には、竜人の兵が槍を持って立っている。


 シリウスは手にしていた松明を離れたところに投げた。絨毯に火が移る。布地はたちまち燃え上がり、煙が通路に満ちる。


「うお、火事!?」

「水、水~!」


 兵たちが慌てて駆け寄る。

 魔王軍はもっと得体のしれない連中だと思っていたが、魔王本人はもちろん、兵士の態度まで気が抜けるものだった。


 火元に群がる兵たちの隙をつき、シリウスは通路を駆け抜けた。

 窓を見つけ、躊躇なく身を乗り出す。

 地面に飛び降りると、ひんやりとした空気に包まれた。時刻は昼のようだが、鬱蒼とした森のせいで薄暗い。風が吹くと、木々がざわざわとささやいた。

 シリウスは息を切らしながら、森の奥へと走った。


 その時――低い唸り声が森に響いた。


 草むらががさりと揺れ、巨大な影が飛び出してくる。熊を思わせる巨躯、口元からは糸を引く涎が光った。

 シリウスの行く手を塞ぐように立ちふさがり、獰猛な目で睨みつける。


 魔物だ。


(魔王の手下か……!?)


 アルカディア王国では、魔物は魔王が操っていると言われている。

 ならば、脱走がもう知られていて――追手として、魔王が差し向けたということか。


 今のシリウスは丸腰だ。捕虜になった時に装備は奪われている。

 冷や汗が首筋を伝う。


 考えをまとめるよりも早く、熊の魔物が襲いかかってきた。

 その爪がシリウスに届く寸前、肩を引き寄せられる。


 目の前で、闇が弾けたように漆黒の翼が広がった。


 シリウスは息を呑み、横を振り向く。いつの間に現れたのか、そこにレイヴァンの姿があった。


 レイヴァンは熊の魔物に掌を向ける。彼の腕が漆黒に覆われ、異形へと変わる。

 次の瞬間、防御壁が展開し、魔物の一撃を受け止めた。

 巨体が弾かれ、地面に爪跡を刻みながら後退する。


 それでも獰猛な唸りは止まらない。


 魔物は再び、牙を剥きながらこちらを睨みつけている――その視界に、レイヴァンも含まれていることにシリウスは気付いた。


(どういうことだ? あの魔物……魔王に襲いかかろうとしているのか……?)


 唖然としながらレイヴァンを見る。

 赤い瞳が細められ、楽しそうにほほ笑んだ。


 ――俺と遊ぶか? そう問いかけるように。


 すると、魔物は途端に怯え始め、後ずさった。


 そのまま背を向け、森の奥へと駆けていく。

 レイヴァンは深追いはせず、それどころか虫でも追い払った気安さだった。シリウスに顔を向け、からかうように言う。


「この城には、滅多に魔物は近寄らないんだが。運が悪かったみたいだな」

「魔物は……貴様が操っているのではないか?」

「俺の支配下でない魔物は、多くいる」


 緊張の糸が解け、力が抜ける。そこでシリウスは未だに彼に肩を抱かれていることに気付いた。

 慌てて彼の手を振り払う。同時に腰が抜けて、シリウスはへなへなとその場に膝をついた。

 レイヴァンが、ははっと笑って、


「それは、怪我のせいじゃねえな? 倒れるほどに腹減ってるんだろ?」

「ちがう……これは……!」


 否定しようとした直後。


 ぐうう~……。


 盛大に腹の虫が鳴った。

 シリウスは歯を食いしばって、赤面する。その様子をレイヴァンが笑い飛ばした。



 ◇



「ほら、食いな。毒は入ってねえ」


 そう言って、レイヴァンがスープ皿を目の前に置く。それをシリウスは苦い思いで見つめた。


 結局、魔王城に戻ってきてしまった。


 その上、敵にこうして施しを受けている。騎士として、最大の屈辱だ。

 しかし、逃亡計画は失敗した。体力が持たなかったのも事実だ。あのまま逃げても、どこかで力尽きていたことだろう。


(ここから逃げるにしても、魔王の首を狙うにしても……まずは、体力の回復が優先だ。そう、これはただの補給)


 自分にそう言い聞かせながら、シリウスはスプーンを手にする。


 とろとろに煮込まれたシチューだ。スプーンでかき混ぜると、湯気がふわりと立ちのぼる。

 濃い香りに、思わず喉が鳴った。

 だが、未だに毒の可能性も捨てきれない。食いつきたくなる衝動を抑えて、スプーンの先で少しだけすくった。

 警戒しつつも口に入れると、クリームのまろやかさが舌に広がる。

 舌先がほんのわずか触れただけでも、じんとした幸福感に包まれた。


 シリウスは無言で、もうひと口すくった。

 今度は、具――じゃがいもがほろりと崩れ、にんじんは甘い。

 温かなものが胃の中にすべり落ちて、全身を温めてくれる。


 目線を上げると、レイヴァンが机に頬杖をついて、こちらを観察していた。翼が消えて、今は人間の姿となっている。

 シリウスと目が合うと、ニッと笑った。


「美味いか?」


 存外に優しい声だった。

 脳裏には、騎士団の粗末な食卓がよみがえる。

 固いパン、冷ややかな周囲の視線――。


 あの時、心の中で夢見ていたのは、こんな温かい食事だった。


 胸の奥から、何かがこみ上げる。

 気が付いた時には、涙が頬を伝っていた。


 泣きながらも、スプーンを動かす手は止まらない。

 それほどに、このシチューは美味しくて、温かかった。

 こんなに美味しいものを食べたのは、初めてだった。


 レイヴァンがははっと笑う。馬鹿にした響きではなく、屈託のない笑い方だった。


「泣くほど美味かったか? なら、ロガンにも後でそう伝えてやりな」

「……礼を言う。あのコックにも」


 魔王に感謝を述べるのは複雑な心境だったが、助けられたことは事実だ。それでも、まだ油断はできないので、その硬さが表情と声ににじんでいた。

 レイヴァンは面白そうに目を細めたが、何も言わなかった。

 そのままシリウスがシチューを食べ終わるまで、黙ってこちらを見ていた。


 完食後、手を合わせていると、レイヴァンが尋ねてきた。


「お前、どうやって外に出たんだ?」

「どうやっても何も……牢にはカギがかかっていなかった」

「ま、閉じこめておく理由もねえからな。だが、城から脱出できるとは思っていなかったぞ。数は少ないが、城内には衛兵も置いてる」

「巡回の周期を覚えて、その隙に」

「覚えた? お前、ここに来てからずっと、死にかけの状態だったじゃねえか」

「それでも、足音を聞くことはできる」


 レイヴァンは目を見開いて、きょとんとする。

 次の瞬間、笑い出した。


「お前……ぶっ倒れてただけじゃなくて、最初から、ここから逃げ出す算段を立ててたのか! いいな! 死にたがりの馬鹿よりも、小賢しい奴の方が俺は好きだ」

「……魔王に好かれるなど、不名誉だ」

「残念ながら、強情なところも俺好みだよ。もっと噛みついてみせな、騎士くん。……って、おお、そうだ。そういや、お前の名は?」

「アルカディア王国騎士団、第8部隊所属……シリウス」

「シリウスか」


 何度か「シリウス、シリウス」とくり返して呼んで、嬉しそうに笑う。赤い瞳が細められ、きらきらと光った。


「やっと教えてくれたな」


 態度も口調も尊大なのに、笑顔は明るい。

 王としての風格よりも、どこか少年じみたやんちゃさが先に見えてしまうのだった。


 ――彼は魔王なのに。祖国の敵なのに。

 ――どうして、そんな顔で笑うんだ。


 シリウスの胸の奥がざわついた。


 ここは敵地だ。これからも警戒を緩めることはできない。

 それでも……彼の明るい笑顔を見ていると。


 そこまで悪い奴ではないのかもしれない……と、少しだけ思ってしまうのだった。

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