第27話 過去との融合

 朝食のときも、夕食のときも、レオハルトは現れなかった。

 時間をずらして食べているらしい。

 たった一人で食べる夕食。もう目の前に、長い指で黒パンをちぎって食べている男はいない。

 リオンの食べる蜂蜜クレープを『甘そうだな』なんて言いながら、自分は塩辛い燻製肉と癖のあるチーズを食べていた。

 あの当たり前の光景を懐かしく思うなんて。



 彼が目の前に出てこないのは、リオンのことを気遣ってのことだろう。

 体を縮こめたしぐさが、彼には怯えたように映るらしい、と気づいたのはレオハルトが部屋から出て行ってしまってからだった。



――きっと彼は、僕が怯えていると思っているうちは出てこないだろう。

 そういう人だから。

 僕に加害することを極端に恐れている。


「臆病者……」

 ポツリと言って、リオンはベッドの上で膝を抱えた。

 それは自分に向けた言葉なのか、それとも彼へのものなのか、分からなかった。


 でも、もし彼がこのまま逃げ続けたら?

 あと四日でまた王宮からの使者が来てしまう。

 それまで話すことも出来なかったら?


――そうしたら、実家に帰ってやる!


 鼻息荒くそう思った瞬間、ドアが小さく二回、コツコツと鳴った。


「……リオン、起きているか?」


 扉の向こうから聞きなれた低い声がして、それだけで胸がじわっと熱くなった。


「今、開けます……」

 慌てて立ち上がると「そのままでいい」とまたしても声が聞こえる。


「私の姿を見ると、また過去の記憶が刺激されるかもしれない」

「でも」

「正直、あなたに怯えられるのが一番堪える……」

 レオハルトの声は、本当に辛そうに掠れていた。


「私があなたにとって脅威なら、排除しなければならない。それがあなたの幸せなら」


 それを聞いて、急速に怒りが沸いてきた。

「何言ってるんですか! 僕は……」


 扉を勢いよく開けると、そこには憔悴した表情の男が立っていた。

「あなたの幸せを守るべきだ。そう誓ったのに……

失うことが、怖くて堪らない」


――あれ、なんかこの人、今までになく……


 リオンの胸が、今まで感じたことのない方向に飛び跳ねている。

「とにかく、入ってください。廊下でそんなこと……」

 どきどきする心臓を隠そうとするように、なるべく冷静に伝えると、レオハルトは操られるように部屋に入って来た。


「たった一日、会えなかっただけでこのざまだ……

 あなたとキスしながら食べる朝食のことや、夜の触れ合いをずっと思い出してしまう……」


――素直で……可愛すぎる……!


 レオハルトが会えなかった寂しさを、自分より感じていてくれた。

 しかも、こんなにも想像してくれていた。

 それだけで、一日の寂しかった不満が、急速に満たされていく。


「あなたの選択を尊重するべきだと思っていた。

 答えを誘導するような行いは慎むべきだと……

 だが……」


 そこでレオハルトは大きく息を吸った。


「……行かないで、欲しい。どこへも。

 ここにいて欲しい。私のそばで」


 レオハルトの両ひざが床についた。

 それは崩れ落ちたようにも、懇願のようにも見えた。

 

「何でもする! あなたの望みは何でも叶えるし、私が怖かったら指一本触れない。

姿を見せるなと言えば、そうする……」

「レオ……」

「あなたのトラウマのもとになった、そして後宮に送られる原因の、アルファが私だ……。

 それを思い出してしまった今、一緒にいたくないのは分かる……。

 分かるのに……あなたを、手放すことができない……」


 リオンは顔を伏せているレオハルトにそっと近づくと、両手でその頭をそっと抱きしめた。

 彼の体がびくっと硬直するのが分かった。

 それでもかまわずに、震える頭を胸元へ引き寄せた。


 息を呑む音と、緊張で硬くなっている体が……愛おしかった。

 今すぐに彼を救ってあげたい。

 しかし、失うことにパニックになっている彼の心をどうやって落ち着かせればいいのだろう。


「言っていることが矛盾してます。

 そばにいてほしいのに、姿を表さない、なんて」

「……あなたが……怖いと思うなら」


 掠れて濡れた声は、いつも自信に満ち溢れた彼のものとは思えなかった。

 それが可愛くて堪らないなんて……僕は一体どうしたんだろう。


「それは僕が困ります。こんなに格好いい顔を見ることができないなんて」


 驚いて上向いた顔――その瞳は湖のように揺らめいていた。


「私が……恐ろしくはないのか?」

「最初からレオを怖がったことなんて、一度もありません。あなたは、十五歳の僕にとって、憧れの騎士でした」

「だが、あの事件の時……」

「ぼくが発情したせいで、騎士たちが殴り合ったんですよ。そんなフェロモンを出している自分が怖かったし、あさましい姿を見られたことが、恥ずかしかったんです」

「あっ、あさましいなんて……そんな、あなたは何も悪くない、何も! あなたは何も知らない無垢な少年だった……」

「それは……」


 リオンは小さく笑った。


「それは美化しすぎです」

「……私もそんなに憧れるような騎士ではない」

「あの時、仲間を全員ぶちのめしても、僕を救ってくれた。

 みんなが床に伸びている中、一人で仁王立ちになっていて……」


 リオンはその時のことを思い出して、ふうっと大きく息をついた。


「あの時……夜に発情してしまって、宿泊棟に走っていったのは……。

 レオに会うためだったんです」


 レオハルトの瞳が大きく揺れ、言葉を失ったその唇が震えていた。

「憧れていた――きっと、もう好きだったんだと思います――騎士に、助けを求めようと思った……彼ならこれを止めてくれるのではないかと」

「そんな……まさか、私に会いに来ていたなんて」

「体の疼きを止められなくてもいい。その時は母も兄もいたのに、家族よりあなたに会いたくて、ただ走ったんです。でも思慮が足りなくて、あんなことに……」

「あなたはまだ自分がオメガだということも、発情のことも知らなかった。当然だ」


 レオハルトは、リオンを守るように腕を伸ばした。

 その腕に体を預けた瞬間、宝物をしまい込むように、きつく抱きしめられた。


 二人はしばらくそのままだった。

 ずっと夜は抱き合って眠って来たのに、まるで初めて触れ合うような気持だった。


 レオハルトの腕の中にいたリオンが、呟くように言った。

「あのとき……もし、あなたに会っていたら、どうなっていたでしょうか。

 僕が宿泊棟に行く前にレオに会えていたら」


 レオハルトの脳裏に、夜の道を走ってくる少年の姿が見えた。

 宿泊棟から母屋の方に向かっている自分に駆け寄ってくる。

 息を切らせながら、青くて甘い、初めての発情に身を焦がせて。


「それは……事実ではない。

 ……だがもし……あの時二人きりで会えて……。

 あなたに抱いて欲しいと言われたら……。

 断るのは難しかっただろう。

 団の規律を破ってでも、あなたに手を出してしまったかもしれない」


「抱いて、という言葉はきっと使わないと思います。知らなかったから。

 多分、こう言ったかな。

 レオにしがみついて、『僕の体を何とかしてください、助けて、熱いんです』って」


「……それは……十中八九、落ちているな」


 彼の声に自嘲ともとれる笑いが混じり、更に体をぎゅっと引き寄せられた。

 

「……今は?」


 リオンの喉が、きゅっと窄まった。

「レオのフェロモン……強すぎて、今も体に残ってるんです」


 レオハルトが息を強く吸う音が聞こえた。


「触れない誓いは分かってます……でも……だ、抱いて……ください」


 暫くの沈黙の後、彼はゆっくりと言った。


「……あなたが選択するまでは、触れないと決めたのに、すでにこうやっている。

 誘導しないどころか、みっともなく引き止めて……。

 この上、抱いたりしたら……完全に……騎士、失格だ」


「…………」

 リオンは小さく唇を噛んだ。


「だが、それでも、あなたの夫でありたい」


 ふわりと体が浮いて、ベッドに優しく下ろされた。

 いつものことなのに、鼻の奥がつんとするほどの情感がのぼってくる。


「優しく……しないで、ベッドの上でも、素のレオを受け入れたい……」

「あなたは本当に、煽るのが上手すぎる」


 レオハルトはその情熱をキスに託すように、唇と舌で、気持ちを伝えてきた。

 蕩けた瞳で彼を見ると、優しいキスが落ちてきて……。


「あなたがどう言おうと、もう離すことはできない」

「はい……」


 今までのどんなに優しい言葉より、そのエゴが嬉しい。

 両手を逞しい背に回すと、十五歳の自分がふと重なった。


 あの時は届かなかったけど、今はこうやって抱き合える。欲望も、気持ちもぜんぶ受け止めて貰えるよ。

 

 きっと伝わったのだろう、男の子は嬉しそうに微笑んで、胸の中に溶けていった。


「だから、僕も、レオを受け入れたい……」


 その想いは『今』の僕の胸にしまって、固く抱きしめてくる腕に、身を委ねた。

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