第26話 十年ぶりの解放
リオンは朝からレオハルトの部屋に呼ばれた。
ジーンは命令で自室待機中だ。
呼びに来たカイに「レオハルト様の匂い、どうだった?」と聞いたら「アルファ同士は感じないので」と困ったように言った。
その答えに、ふと気になって尋ねた。
「カイもフェロモン抑制剤を飲んでいるの?」
「はい、近衛騎士団は全員。団長命令です」
「……そうなんだ」
レオハルトの部屋の前で、リオンは立ち止まった。
「俺は命令なので離れます」
カイは一礼して足音もなく去っていった。
どこにも行き場のない気持ちになりながら、リオンはドアを開けた。
いつもの前室。そこはカイが整えた朝の支度が、手つかずのままそろっていた。
主寝室から、氷のような冷たさを感じる。
ここから先は〝外〟だと思うほどに。
リオンは最後のドアに手を触れた。
――怖い。
極寒に筋肉が内からガクガクと震えるように、意思で押さえることができない。
レオハルトが怖いのではなく、自分の中から何が掘り起こされて、そして二人の関係が変わってしまうことが怖かった。
なぜ、このドアを開けようとしているのだろう。
あのままで良かったはずだ。きっと後悔することになる。
レオハルトの愛情に包まれていて、あんなにも幸福だったのに。
自ら変える必要などないはずだ。
そう思いながらも、心は違う、と叫んでいた。
これで壊れる幸福なら、いつかは同じ道を辿る。
真実を乗り越える力も無いのだったら……。
それは、幸福と呼べるだろうか。
リオンは主寝室の扉を開けた。
瞬間、むせ返るほどの香気が、ひと呼吸で胸を満たした。
一切の甘さを排した辛口の白ワイン。
それを極限まで冷やしたグラスに注いでいるかのようだ。
これこそが彼だった。
目の前にはベッドに腰掛けているレオハルトが見える。
何かを言っているように口が動いて――それは、古い絵のような記憶と重なっていった。
まだ若い彼が、笑いかけてくる。
雪がちらつく中、門の外で見張りをしている彼に温石を渡したら、代わりに飴をくれた。
その長い指が包をつまみ、ゆっくりと自分の手のひらに置いた場面が、まるでスローモーションのように記憶に刻まれている。
その指に、何故か胸が熱くなったことも。
※ ※ ※
『蜂蜜で作ったらしい』
『蜂蜜? 聞いたことはあるけど、食べるのは初めて……わ、美味しい!』
『そんなに美味しいか?』
『舌がとろけそうです』
『それなら、明日にまたあるだけやろう』
『ほんとですか!?』
※ ※ ※
ふっと映像が一度、途切れた。
レオハルトが驚いたように自分を抱き支えている。
背後に、いつもの部屋の彼のベッドが見える。
足に力が入らない。
目は開いているのに、頭の中に強制的にもう一つの映像が流れ込んでくる。
※ ※ ※
真っ暗な道を必死で走っていた。
足に力が入らなくて、それが現実なのか夢だからなのか分からなかった。
腰が砕けたように重い。それでも必死に駆けた。
この体から湧き上がってくる火照りを、どうにかしてくれるのは彼だけだと知っていたから。
彼が宿泊している宿舎に向かって、ひたすらに駆けた。
戸を開けると、口々に『オメガだ!』という声が聞こえた。
彼はその中にいて、ただ、目を見開いて――声も出せず、こちらを見ていた。
男たちが襲いかかってきて、その重い体の下敷きになりながら、必死でもがいた。
――嫌だ、彼じゃないと!
その叫びが届いたのか、分からなかった。
いつの間にか上に乗っている男は動かなくなっていた。
重みがふっとなくなった。鎧や武器の金属音がさく裂して、男が闇の向こうに吹っ飛ばされていくのが見えた。
暗い部屋の中は、呻き声と罵倒に満ちていた。
その中に、一人だけ立っている騎士がいた。――彼だった。
その瞳は青く清廉で……その瞬間、自分がどんなにあさましい存在なのかを自覚した。
彼らは気のいい騎士たちだった。
それなのに、アルファを肉欲に狂わせて同士討ちをさせたのは、僕なんだ!
――見ないで……!
彼から自分を隠すように縮こまって、闇に溶けてしまいたいと思った……
そして目の奥から、映像がゆっくりと消えた。
※ ※ ※
ここにあるのは、見慣れた自分の部屋の天蓋と、レオハルトと……この人は……。
「リオン……!」
「気がついたようですね。脈は早いけど、安定しています」
素早く体を確かめる動作で、彼がセシル医師なのだということがわかった。
「大丈夫か? なにか飲み物を……」
レオハルトが立ち上がった瞬間、先ほどの生々しい記憶が脳に重なった。
激しい自己嫌悪と、彼に見られたくないという羞恥に、体が縮こまる。
その動作に、彼は敏感に反応した。
すぐに自分のせいだと理解したようだ。
「私はいない方が良さそうだ。リオンを……お願いします」
部屋の扉が、そっと音もなく閉じられた。
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