第25話 フェロモン抑制剤

 昨日の衝撃のせいで眠りが浅かったようで、今朝は早朝から目が覚めた。


 指名制度が実在したこと。

 僕が彼に指名されたオメガであること。

 そして、十年前に彼に会っていたこと。

 すべての情報が許容量を大幅に超えていて、知恵熱が出そうだ。

 

 ――レオは僕に『触れない』誓いをした。

 

 その言葉を守り、昨日は「おやすみ」とだけ言って、それぞれの部屋で寝た。

 オメガに配慮した極上の柔らかい布団はとても心地よかった。

 それなのに、あの硬い筋肉に抱き込まれて眠りたかった。



 ふと、子供の声がして、リオンは窓の外に目をやった。

 そこには、ベルノを肩車しているレオハルトの姿があった。

 小さい手が彼の髪を握りしめて、馬にするように「もっと走って~!」と騒いでいる。

 後ろでカイがおろおろしているのが見えた。


「だっ、団長、そういうのは俺がやります」

「鍛錬のついでだからかまわないだろう」


 ベルノを肩に乗せて駆け回る姿は、戦場で指揮を執る騎士団長のものとは思えなかった。

 カイの混乱を考えるとかわいそうだが、そのギャップに思わず笑みがこぼれた。



 レオハルトとの朝食は、最近はずっとサンルームだった。

 差し込む柔らかな朝の光に包まれながら過ごす時間は、まるで二人だけの世界だった。

 今朝は、白いクロスの張られた長卓。

 背筋をぴんと伸ばした彼と向かい合って、同じものを口にしているはずなのに、どこか味気なかった。


 二人きりのサンルームでは甘い儀式が待っているはずだった。

 彼の気が済むまで濃厚なキスをして、それでも名残惜しそうに出かけていく。


――それに慣れてしまっていたから。


「行ってくる」の一言だけで見せた彼の背中が、今の二人のあいだにある、目に見えない壁のように思えた。


 昼間はいつものように邸の仕事をしたり、勉強をしたりして過ごした。

 しかし、その途中で手を止めて考え込んでしまうことが多かった。

 レオハルトは選択の自由を与えようとしている。それはよくわかっていた。

 そのために、触れない誓いをして、それを守っている。


――だとしたら僕にできることは、考えることだ。

 そして、悔いのない選択をすること。

 それに集中するしかない。

 

 夕暮れになるとレオハルトがカイと共に帰宅した。

 迎えに出ても、小さく頷いただけだ。

 今日、カイは自分の前室としての仕事を果たせる。

 再び向けられた背に、リオンは「あの」と声をかけた。


「どうした?」


 ぱっと振り向いて近付いてきた表情は、冷静な仮面が剥がれかけていて……

 ……呼吸がほんの一瞬、浅くなったように見えた。

 彼の眉根の奥に、抑えていた何かが滲んでいる。

 思わず笑いそうになってしまったのは、その不器用な誠実さが、愛おしかったからだ。


「昨日からずっと思い出そうとしているのですが、どうしても記憶が戻らない部分があるんです」

「焦ることはない、ゆっくり思い出せば……」

「でもきっと、それが選択をする上で重要になりそうな気がして……飴を舐めた時にかなり思い出したから、もしかして……あなたのフェロモンを嗅いだら、もっと思い出せるのではないかと」

「…………」


 レオハルトは黙ってリオンを見つめている。


「レオハルト様は抑制剤を飲んでいると仰っていましたよね。それを一日だけ、飲まないことはできますか?」

「……わかった」


 レオハルトは暫く考えていたが、カイに短く指示を出した。

「私は明日、出仕を休む、そしてジーンは自分の部屋で待機を。決して私の部屋に近づけるな」


 カイはほんの一瞬、目を見開いたが、すぐに短く返事を返した。

「はっ」


 レオハルトはまたリオンに視線を戻した。

「今晩と明日の朝、抑制剤を飲まなければ、昼頃にはフェロモンは平常時の三十パーセント程度に戻るだろう」

「三十パーセント……ですか?」

「ああ。誘発はしないが、思い出すには十分な強さだ。でも念のため、あなたは発情抑制剤を飲んでおいて欲しい。セシル医師には立ち会ってもらうように、私から伝えておく」

 レオハルトの言葉は落ち着いていたが、その声音には、わずかに覚悟がにじんでいる気がした。

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