第24話 記憶

 王宮からの使者が来た日の夜、二人はレオハルトの主寝室にいた。

 いつもの甘い雰囲気はなく、ローテーブルを挟んでソファに向かい合って座っている。

 カップに入ったお茶は手を付けられないままぬるくなっていて、最後の湯気がぼんやりと空気に溶けていった。

 

「……そうだな」

 レオハルトの声は何かを押さえているかのように苦しそうだった。

「あなたには言わなければいけないと思っていた。しかし、忘れているのであれば無理に思い出させることは無いと……」

「どういうことですか? 僕が忘れているって……」


 王宮からの使者の言葉により、指名制度そのものはクリアになった。

 納得は出来ないが、必要だと言われたら受け入れるしかない。

 そこで残った疑問はたった一つになった。


「なぜレオハルト様は、僕を指名したのですか?」


 指名制度の内容を聞くと、生半可な覚悟ではできないことらしい。

 リリカたちが予想していたような『凱旋式での舞で見染めた』くらいでは到底不可能だ。

 王へ直接希望を述べることができる地位があり、そしてそのオメガとでなければ婚姻そのものを放棄するくらいの強い意思。

 また王にその覚悟を見せなければならないという。

 大きな犠牲を払って、やっと迎え入れることができるのだ。

 

 レオハルトは胸元からペンダントを引き出し、トップから小箱を外した。

 封蝋の割れ目から取り出されたのは、乾いた紙に包まれたものだった。

 レオハルトは、テーブルに紙の小さな包みを置いた。

 菓子のようだったが、ガラスのような硬質な音が響いた。

 

「十年前、地方貴族のあなたの家に、文官が来たことは覚えているか?」

「はい、蜂蜜のお菓子を頂きました」


 そこで生まれて初めて蜂蜜というものを口にした。とても甘くて美味しくて、天上の菓子のような気がした。


「誰にもらった?」


 その言葉に、えっ、と小さく声が漏れた。

 予想もしていなかった質問。

 しかし、それが重要なのだということは分かった。

 誰かに貰った蜂蜜の菓子。

 文官だったのだろうか……だが、年をとっていて、高慢で怖そうな雰囲気だった。親しく話した覚えもない。

 微かに思い出せるのは、笑顔の口元と無骨で太い腕、長い指先だけだ。

 その文官を護衛していた騎士か、武官たちだろうか。


 十年前というと、ちょうど後宮に行く直前だ。

 僕が十五歳の頃。

 この文官がいるときに、ちょうど……何かがあって……。


 その後は思い出せない。

 母の泣いている顔、オメガに産んでごめんね、と何度も謝られた。

 父はすでに亡く、跡を継いだ兄が鬼のように真っ赤な形相をしていた。



 小さく首を振ると、レオハルトは「呼吸は大丈夫か?」と聞いた。

「はい」

「あなたは過呼吸になりやすい。これ以上は医師の立ち会いのもとで行う」


 レオハルトが家令ヴァルトに連絡すると、すぐに医師が呼ばれた。

 若いオメガ専門医で、この邸に専任で雇う準備をしていたのだという。

 医師はセシルと名乗った。

 軽い挨拶の後、リオンの様子を確認して、今は問題ない旨を伝えた。

 レオハルトが頷くと、邪魔にならないようにとソファの後ろに控えた。


 レオハルトはリオンの腰かけているソファの横に寄り添うように膝をついた。

 そして、テーブルから紙の包みを持ち上げて、リオンの手のひらの上に置いた。

 ころころと丸く硬いものが入った包み。


「……開いてみてほしい」


 リオンの指は小刻みに震えていた。

 これがなんだか分からないのに、底知れないものが詰まっているように感じる。

 ねじってあった部分を開くと、宝石のような硬くてきれいな欠片が現れた。

 黄色くて透明感があるそれは、ランプの光を内に秘めているかのようだった。


「これは……」

「蜂蜜の飴だ。

 私が文官の警護で初の遠出の任務にあたるときに、料理長が作って渡してくれたものだ」

「……レオハルト様が、あの時に、文官の警護をする騎士の中にいたんですね?

 そして、僕に蜂蜜の飴をくれた……?」


「そうだ。

 十年前、その地方貴族の家には少年がいた。

 彼はもうすぐオメガの検査を受ける予定だと言っていた。

 王都だと十三のときに受けるが、地方だとなかなか検査ができないからだと……。

 私がアルファだと知ると、いろいろと質問をしてきた。

 その時に仲良くなって、甘いものが好きだというのでこの飴を渡した。

 とても喜んで食べていた。

 生まれて初めて蜂蜜の甘さを知ったと……」



 ぼんやりとだが、覚えがあるような気がする。

 しかしまだ届かない。

 服の上から虫に刺されたところを掻いているようなもどかしさだ。


「その夜……おそらくあなたに急な発情が訪れた。

 まだオメガだと知る前に、初めての発情が起きてしまった。

 後から知ったことだが、オメガの初めての発情は、その変化に耐えられずに暴走や発熱が起こることがあるらしい。

 何の準備もしていなかったから当然だが、あなたは混乱して、騎士たちが宿泊している棟のほうへ走っていった」


 レオハルトは一度、言葉を切ると、セシルに目で合図を送った。

 セシルはリオンの頸に指を置き脈を数えると、紙に短く記した。

「呼吸も安定、続けて良いでしょう」

 レオハルトは再び口を開いた。


「下級騎士とはいえ、彼らはアルファだ。……すぐにおかしくなって、一斉に襲い掛かっていった……その場に私もいた。

 あなたのフェロモンは強烈で、理性を繋ぎ留めておくのがやっとだった。

 金縛りに合ったように立ちすくんでいるうちに、あなたは騎士たちに組み敷かれて服を破られて……。

 あなたの悲鳴を聞いて、やっと体が動いた。

 彼らを全て殴り倒して……引きはがして、拘束した……

 ……あなたは、怯え切った目で私を見ていた」


 レオハルトの最後の声は、泣いているかのように濡れていた。

 彼の話は真実なのだろうと思う。

 ゆっくりと薄紙が重なるように、その輪郭が浮かんでくる。

 だが、その時の混乱や悲しみまでは思い出すことはできなかった。

 まるで、他人事のように聞いている自分に罪悪感すらわいてくる。

 彼はこんなに必死で……一人だけでこの辛い記憶を背負ってきたに違いないのに。

 

「改めて王都で精密検査が行われ、あなたの家には賠償と謝罪が行われた。

 しかし、あなたはそのまま後宮に送られることになってしまった。

 あなたの兄上が、絶対に守るからと、どんなに言葉を尽くしても

 あなた自身がもうアルファのいるところには居たくないと、錯乱していたからだ」


 レオハルトは小さく息をついた。

 きっと、これで語るべきことは全て吐き出してしまったのだろう。


 カサカサと音がして、手の中の包み紙が鳴っていることに気づいた。

 手が、どうしようもなく震えていて、止めることができない。

 彼の話を受け止めようとしても、記憶がないから心が追いつかない。

 

「……僕は、そんな大切なことを、どうして忘れてしまったのでしょう」

「おそらく、発熱や錯乱による一時的な記憶障害だ。また、自己防衛本能も関係しているかもしれない」

「この飴は……?」

「あの時、任務から帰還して、残りをずっと保管していた」


 レオハルトはいつも首から下げているペンダントケースからこの飴を取り出していた。

 もしかしてずっと、肌身離さず保管していたのだろうか。

 この十年間。

 それなのに、僕はその重さを自分のこととして受け取ることすらできない。


――蜂蜜は腐らないと聞いたことがある。

 リオンは手の中の飴をつまむと、口の中に放り込んだ。


「……何を! それは十年も前の……!」

 驚いて立ち上がるレオハルトを手で制して、リオンは目を閉じてそれを味わった。

 舌の上に、じんわりと甘さが滲んでいく。

 それはどこか懐かしい、特別な花の香りがした。

 そして──指先に感じたあの感触が、ふと蘇った。


「寒くてかじかんだ手の上に……乗せて貰いました。

 冬、だったんですね。

 その人の手はすごくゴツゴツしていて、血管が浮き出ていて……

 でも指は長くて……」

 

 長い指が格好良くて、その手が剣を握るのを見るのが好きだった。

 それが向かいで座って、黒パンをちぎっていた指と重なった。

 どおりで目が離せなかったわけだ……。

 

「そうだ。冬だった。

 通常、冬は発情が起こらないらしい。

 だから、もしかしたら……私のフェロモンが切っ掛けになったのではと……ずっと思ってた」

「フェロモン……もう一つ思い出しました。

 その騎士からはとてもいい香りがした。

 でもレオハルト様からは同じ匂いがしません」

「……そのことがあってから、私は――

 ずっと、フェロモン抑制剤を飲み続けている」

「そう……だったんですね」


「これから一週間……王宮の使者が再訪して、あなたの答えを聞くまで

 私はあなたに手を触れない。

 でも、もし……私が必要だったらいつでも声をかけて欲しい」

「……わかりました」


 騎士が一度口にしたことは絶対だ。

 彼はいつもそれを証明してきた。

 しかし、その言葉を僕が破らせることになるとは……。

 彼も思っていなかったはずだ。

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