第28話 円環
未明の鐘、マティンズが鳴るころまで愛し合い、その後も逞しい腕は離してくれなかった。
硬く抱きしめられたまま眠り、朝もぎりぎりまで名残惜しそうに絡んでくる腕をなんとか引きはがすと、やっと王宮に向かってくれた。
王宮の兵士も見習いのカイも、近衛騎士団長が僕からの口づけをねだって離れなかったなんて、信じられないだろう。
レオハルトを見送った後、リオンは自室に戻ってソファに腰かけた。
一昨日、彼のフェロモンを浴びた後から感じていたが、まだ彼の匂いが鼻の奥に残っているようだ。
焼けた火箸を押し付けられたように体の一部だけがじくじくと疼いていて、今までなかった感覚に戸惑っていた。
もしかして、ヒートの前兆なのだろうか……。
部屋の扉が静かに二度、ノックされた。
「おはようございます、セシルです。今朝の回診に参りました」
明るい声が扉越しに響く。リオンが「どうぞ」と答えると、すっと扉が開いた。
現れたのは、白銀の髪を後ろでゆるく束ねた青年だった。
ゆったりとしたローブに身を包み、片手には古めかしい医療用カバンを持っている。
「今朝から本格的に、お部屋まで伺わせていただくことになりました。
リオン様、どうぞよろしくお願いいたしますね」
一昨日、レオハルトのフェロモンで過去の記憶が蘇り、意識を失った時に体調を見てくれた医師だ。
「こちらこそ……あの、たしか前にも、いらっしゃいましたよね?」
「ええ。あのときは……ふふ、いささか戦場のような状況でしたからね。ご挨拶もろくにできずに失礼しました」
リオンがソファから立ち上がろうとすると、セシルは柔らかく制した。
「どうぞそのままで。リラックスできるところが一番よろしいですから。あれから体調に変化はございますか?」
「あの時のフェロモンがまだ残っているみたいな気がして……なんだか、その、体が……熱い、というか」
セシルは一瞬、瞳を細めてから、軽やかに片膝をつき、リオンの前に視線の高さを合わせた。
「はい、拝見しますね。失礼します」
手袋越しにそっと手首を取り、脈を測る。次いで、首筋とこめかみに手を添え、体温と血流を確かめるように掌を滑らせた。
その触り方は優しいながらも必要最低限の接触を意識したプロの所作だった。
「……これは――おそらく、ですが」
セシルの表情から親しみやすさが消えて、科学者のように鋭くなった。
「……フェロモンの質が、かなり高かったのでしょう。……やはり、近衛騎士団長ともなると、並のアルファとは一線を画すようですね。興味深いです」
「これはどれくらい続きますか?」
「何とも言えません。ただ外因性の反応なので、いずれは鎮まります……しかし、ここまで残るのは聞いたことがない。
お二人の体がよほど相性がいいというか……生物学的な結びつきが強いのかもしれません」
そんなことを真顔で言われて、恥ずかしいと思う余裕も無かった。
「現時点ではヒートではないと思いますが……これほど反応が強いとなると、予兆の可能性もゼロではないですね。しばらく注意して観察していきましょう」
セシル医師は、革手帳をぱちりと開き、何やら熱心にメモしている。
親しみやすく、プロフェッショナルな所作には安心できたが――時折見せる、この医師の「異質なもの」への強い関心には、どこか面白さを感じてしまう。
それに、オメガ専門の医師というのは、聞いたことがなかった。
最近になってできた分野なのだろうか。
――それをレオハルトが、専属で雇ったなんて。
どれだけ僕を大切にすれば、気が済むのだろう。
リオンは呆れながらも、胸にじんわりと温かいものが満ちていくのを感じていた。
※ ※ ※
夕刻、ヴェスパーの鐘が鳴る前に、馬車は邸に滑り込んできた。
「今日は早いですね」と迎えると、「早く終わったからな」とレオハルトはあっさりと返した。
けれど、その背後に控えるカイの、どこか意味ありげな視線が気になった。
まさか……無理をして帰って来た、なんてことは……。いや、考えすぎだろうか。
「最近は夕食をしっかりとっていなくて悪かった。今日は晩餐室でゆっくり──」
そこまで言いかけたレオハルトの袖を、リオンがそっと引いた。
恥ずかしかったが、一日中我慢した疼きは限界に達していて、顔を見るだけで爆発してしまいそうだった。
このうえ晩餐室でよそゆきの顔をして、ゆっくり夕食を食べる余裕なんてない。
「昨日の……が、まだ、その……」
それだけで、レオハルトの顔色が変わる。
緊張と喜びが同時に滲むような表情を浮かべて、すぐさま振り返った。
「カイ、今日はこれから『静粛運用』だ。夕食はパンとスープだけでは足りない。終課の鐘の頃、前室に運んでおいてくれ」
「はっ」
心なしかカイの耳が赤くなっていたが、リオンは気づかないふりをした。
レオハルトの部屋に入ると、前室から腰に手が回り、主寝室の扉を閉めるのももどかしく、抱き合っていた。
過去の記憶を思い出しても、彼に対する恐怖は感じなかった。
それどころか、若き日の恋情が浮かび上がり、かえって気持ちが深くなってしまった。
そこに届くように、もっと、とねだると、彼の興奮が伝わってきて、それと呼応するように体が熱くなっていく。
※ ※ ※
さんざん愛された体をベッドの上に投げ出して休めていると、レオハルトが前室からワゴンを押してきた。
そこにはいつものディナーが一式揃っている。
「食べれるか?」
「お腹……すきました」
「どれを食べる?」
「白パンを――蜂蜜、たっぷりで」
レオハルトは白パンを小さくちぎり、たっぷり蜂蜜をつけた。
それを口元に持ってこられて、反射的に口を開けてしまう。
彼は二人でいる時はあーんをやりたくて仕方ないようだ。晩餐室での公の顔とのギャップを思い出して、いつも少し笑ってしまう。
「柔らかいものばかり食べているから、こんなに顎が細いのか?」
彼はそう言ってリオンの顎の先をなぞると、そのまま上向かせて……唇が触れ合い、そしてゆっくりと溶け合った。
蜂蜜パンを食べたばかりなのに、遠慮なく舌をからめ、甘味を貪るような情熱的なキス。
やがて唇が離れ、彼はその余韻を味わうように、自分の唇をちろりと舐めた。
「やはり……甘いな」
こうやって、食事をしていても『味見』をされてしまう。
以前はリオンに味見をしてみろと言っていたのに。あの最初の夜が嘘のようだ。
ベッドで食事をしながら、こんなにリラックスして過ごせるようになるなんて。
リオンはレオハルトの膝に頭をもたせながら、ぼんやりと彼がワインを飲んでいるのを眺めていた。
彼は片手にワイングラスを持ちながら、もう片方の手でリオンの髪をひと房すくい取り、それを指で弄っている。
そんな時、彼はとろけるような目つきをしていて、本当はもっと別の場所に触れたくて仕方ないのを、髪で我慢しているのでは……と、つい深読みしてしまう。
「ところで……」
レオハルトはふと目を細めた。
「私のフェロモンはどんな感じだった?」
「それが!」
リオンが急にガバッと起き上がったので、彼は驚いたようだった。
「凶悪すぎます……まだ体に残っていて、本当にやっかいなんです」
ずっと言いたくて堪らなかったのだろう。リオンはここぞとばかりに、彼のフェロモンがどれだけ自分に悪さをしたかを、早口でまくし立てた。
レオハルトはその文句を笑いながら聞いていた。可愛くて堪らないとでもいいたげな笑みが唇に灯っている。
「それは……申し訳ないことをした」
「匂いは、白ワインみたいで……今、レオが飲んでるのと少し似てるかも」
「これか?」
レオハルトはワイングラスを軽く揺すった。緑がかった麦わら色の液体がゆらりと動く。
「でも比べ物にならないほど強くて……この部屋に入ったとたん、ふらふらになって……」
言いながら、リオンは妙な既視感を覚えた。
まるで、この場面を昔に見たことがあるような。
「……まるで、口移しでワインを飲まされたみたいに……」
レオハルトは楽しそうにワイングラスを傾けた。その男らしい唇にグラスの中の液体が吸い込まれていく。
「それは、こんな感じか……?」
リオンは顎を指で支えられて、近付いてくるレオハルトを陶然と見つめた。
やがて――唇が合わさると、白ワインが強く香った。
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