第2話

忙しないせわしない、娘だな」

 物凄い勢いで遠ざかっていく女の子の背中を、生気の無い目で見送りながら、少女シオン・シュルティは自分の胸に手を伸ばす。

「…………あれ?」

 とりあえず寝起きの一服でもしようかと、愛用の煙管きせるを取り出そうとしたのだが、パタパタと体を探るが手応えが何もない。体を見下ろせば、いつも着ているジャケットがそこに無かった。

「あぁ、寝苦しくて脱いだんだっけ?」

 いまいち記憶に自信は無かったが、大人の男のようなジャケットなので、小柄のシオンじゃ普通に着てもブカブカで動きにくい。そんな格好で寝るのは、いくら野宿だとしても遠慮したくはなるだろう。

 軽く辺りを見渡すが、視界に入るのは落ち葉ばかりだった。

「こっから探すのか、メンドイな」

 別に煙草なんて吸わなくていい。依存症でもないし、所詮は暇つぶしの気分転換でしかないから。

 けど、吸えないって分かると、逆に我慢が出来なくなるのが人間の性だったりする。

「まぁー、カバンも探さなきゃだし……ね」

 シオンが誰にともなくそんな事を呟くと、突如彼女の周りを一陣の旋風が襲う。

 落ち葉は空高く舞い上がり、ドロドロになった地面が姿を見せた。

 目当てのジャケットはすぐそこ、その場から手を伸ばすだけで取れた。

 一番遠くに有った私物は、シオンの小さい身長では抜けないだろう長い刀だった。

 シオンは刀を一瞥すらしないで、ジャケットのポケットから煙管を取り出すと、慣れた手付きで煙草を詰めてそのまま口に咥えた。

「す~〜」

 っと、音を立てて吸えば、ボッと煙草に火がついた。

 シオンはゆっくりと吸い込み、軽く紫煙を燻らせる。青い空にかき消えていく煙を尻目に、投げ渡されたカードを掲げて眺めて見た。

 片面は真っ黒で、もう片面は白い背景にサンドイッチの絵が――というか写真だろうか――書かれていた。

「で? これってどうやって食べるんだ?」

 霞は食えるけど、流石に紙とかプラスチックは遠慮したいんだけどな。

 そんな斜め上の事を考えながら、シオンは渡されたもう一つの方に目を向けた。

「結界だっけ? そんな事言われても使い方がわかんねぇよ」

 ソフトボールくらいのゴテゴテとした、いやメカメカしたか、機械で出来た玉。ぐるっと一周回して見たけど、分かり易いスイッチはどこにも無かった。

 使い方が分からなければ、どんなに凄い物だとしてもシオンにしてみればゴミでしかない。

「まぁ、どのみちいらないな」

 あっさりと見切りをつけて、後ろ手に玉を放り捨てる。けどなにを思ったのか、シオンは肩越しに玉を再度見直した。

「そう言えばあの娘、玉を出すのにカードを破いてた気がするな」

 まったく興味がなかった所為で、ホンの少し前の事をなのに記憶が曖昧どころの話じゃない。顔すらぼやけていているそんなうろ覚えな記憶の中で、確かそんなコトをやっていたような……気がしなくもない。

 まぁ、ものは試しとカードを持った所で、シオンは今更自分の汚さに思い至った。

「……流石にこの手でサンドイッチはあり得ないか」

 シオンはダルそうに立ち上がると、カバンまで歩いていく。

 ごちゃごちゃと乱雑に詰め込まれた中身を漁り、使い込まれた石鹸を取り出した。

 カードを口にくわえて、シオンは鼻歌を歌いながら石鹸を両手で擦る。

 水気もないのに何故かみるみる黒く汚れた泡が立ち、あたりにフローラルな香りが漂った。

 遠く、先程黒煙が上がった方から爆音と煙がまた上がった。

 けれどシオンは一瞥しただけで、すぐに手洗いに戻ってしまう。

 白い泡だけになったところで、シオンは水を切るように石鹸と手を払うと、綺麗になったか確かめるように手を太陽に掲げて見る。

 軽く頷くと、石鹸をカバンに放り投げ、躊躇なくカードを二つに裂いた。

 予想通り、カードが破れた事で書かれていたサンドイッチが空中に出現する。

「おっ、と」

 落ちる前にキャッチして、

「ふぅー、あぶないあぶない」

 安堵のため息をついていれば、再度音が響く。

 そのまま音は断続的になり続けていた。

 シオンは小さく笑う。

「ハリキリすぎだろ。でも、まぁ、これなら期待出来るかもな?」

 周囲をぐるりと見渡し、今度は楽しそうにサンドイッチに噛み付いた。

 出来ればたまごサンドが良かっかたな。

 とか思いながら、ハムとレタスの具を胃に流し込んでいく。

 三つしか無かったサンドイッチは、あっという間に食べ終わってしまった。

「なんか、余計に腹が減っただけな気もするけど……まぁ良いか」

 また煙管を取り出し、今度は満喫するようにゆっくりと肺に煙を入れて、名残惜しむように静かに吐き出す。

「さて、あの娘は帰ってくるのかね?」

 ゆらゆらと霧散してく煙を見ながら、シオンはこれからの事を考える。

 別に待つ義理もないのだけど、とは言えこれといって当てが有るわけでもない。確かに絶対にやらなきゃいけない事もあるにはあるが、別に急を要するモノでもない。

 なら、待ちぼうけってのも悪くはないのかも。

『アアアアアァァァァァァアアアァァ!』

 そんな思考をぶち破るように、唐突に絶叫が響いた。

 静寂が戻ってくる――事はなく。

 バキバキっと木々が強引にへし折られる音が、耳を澄まさなくて聞こえてくる。しかも音は信じられない速さでシオンに近づいて来ていた。

「ふぅー、あれ? 気づかれた? って事はあのお嬢ちゃんは、もう帰って来ない感じかな」

 呑気に紫煙を吐き出し、シオンは流し目でそちらを向いた。

 音は途切れる事なく大きく鳴り続け、ついにシオンの前にたどり着く。

「へー、やっぱり期待ハズレか」

 瞳に映るソレに、シオンは自嘲して煙管を咥えた。

 現れたのはモノを一言で表すなら、猿の化け物だろうか。

 身長は二メートルを超え、筋骨隆々。特に左腕が異常に長く直立した状態で地面に手の甲がついてる。一番の特徴は赤い両の瞳だろうか。

 およそ猿とは呼べない姿だが、それでも一番近しい生物を上げるな猿の化け物という感じだろう。

 猿の化け物は現れた時とは違い、微動だにせずシオンを眺めてくる。

 それに対し、シオンはただ煙管をふかすだけ。

『匂い。そう、この匂いだ。思い出す。でも、足りない』

 口火を切ったのは猿の化け物からだった。

 イマイチなにを言っているのか理解出来なかったが、それでもシオンは驚きの表情を浮かべた。

『まさか言葉を覚えているとは思わなかったな。で、匂いってのはなんの事だい?』

 聞き返すシオン。

 けれど猿の化け物は返事を返す事なく、さらに言葉を紡いでいく。まるでシオンの言葉が聞こえないように、ただ己の思いだけを吐き出していく。

『あぁ、足りない。もっと、もっと感じないと。後少し。後少し。それだけで手が届くのに』

「なんだ。流暢に喋るからもしかと思ったけど、ただの名残か」

 こちらに反応を示さない猿の化け物に、シオンは少し寂しそうに視線を外した。

 ため息の変わりに紫煙を強く吐き出す。

 瞬間、

『やめろ! 匂いが! 匂いが消えていく! 邪魔をするな!』

 猿の化け物が叫んだ。

 そのまま長い左腕を払う。

 シオンとの距離は、その腕が届かない程に離れていた。

 なのに、右手で持っていた煙管が、まるでその猿の化け物の爪によって両断されたように、煙管が二つに別れた。熱を持っている雁首は、濡れた地面に落ちジュッと音を立てる。

 立て続けに猿の化け物は腕を振るう。

 シオンは咄嗟に起き上がり、腕の軌跡から外れるように飛び退いた。

 木々が勝手にバラバラに壊れていく。

 それを横目に見ながら、シオンはなにかを呼ぶように指を動かせば、捨て置いたジャケットがフワリと手元に飛んできた。

 シオンは攻撃を避けながら、器用にジャケットを羽織る。サイズが違いすぎて片方の肩が完全にずり落ちているが気にせず、内側の背中に縫い付けてある短剣を鞘から抜いた。

 そのままなにもない空間に刃を振る。

 ギン!

 鋼のぶつかる音と、重たい衝撃がシオンの腕を襲った。

 そのまま力負けして、シオンは押されるようにふっ飛ばされる。

 ぐるりと体を回して勢いを消し、シオンは難なく地面に着地した。

「はぁー、あの煙管結構気に入ってたんだけどな」

 短剣を構え直し、シオンは猿の化け物に向き直る。

『まぁ良い。どうせこっちの言葉は届いてないんだろうけど、退いてくれないか? 出来ればアンタとやりたくはないんだけど?』

 猿の化け物の返事は攻撃だった。

 ただがむしゃらに腕を振るってくる。

『……悪いけど、アンタの怪異はもう予想できるんだよ』

 言ってシオンは地面を蹴り上げた。

 舞い上がる落ち葉。

 風に揺られて再度落ちるだけの葉は、木々と同じように両断された。

『やっぱりな。多分、距離に関係なく自分から一番近い物に攻撃が、いや触れられるって能力だろ? まぁ中々に使い勝手が良い能力だけど、使い手がヘボすぎるぜ。

 もう一度だけ言う。

 退いてくれよ』

『匂いを! 匂いをよこせ!』

『そうかい。残念だよ』

 シオンは吠える猿の化け物に向かって走り出した。


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