連珠――満天姫の場合 🗾

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連珠――満天姫の場合 🗾



  目 次


1 先夫・福島正之、養父・正則に誅殺さる

2 「黒衣の宰相」こと天海僧正の正体

3 亡夫の姿を求めて『関ヶ原合戦図屏風』の右隻に執着

4 浅姫なおり満天姫、いざ津軽信枚へ入輿のこと

5 信枚寵愛の小姓・本橋専太郎の幼い妬心

6 側室・曽野御前と一子・直秀の身上

7 曽屋御前は上野大館へ、本橋専太郎は不義密通

8 先妻・直姫の自裁と義父子の確執の深まり

9 元和元年の大飢饉&直秀の大道寺家婿入り

10 川中島転封の内命を覆し三代・信義を引き取る


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1 先夫・福島正之、養父・正則に誅殺さる


 そのころは浅姫せんひめと名乗っていた満天姫まてひめは「え、どういうことじゃ?」と絶句した。

 徳川家康の養女として入輿じゅよしてから九年、一子直秀は二歳になったばかりである。その若妻と幼子をのこし、まさかの餓死とは……夫・福島正之の身に、いったいなにが? 

 唇をふるわせていると、目の前に平伏する家臣が大柄な肢体をわななかせながら報告する。


 ――まことにご無念ながら、殿さま御自らのご成敗にて候……。


「殿さま」とは養父の安芸備後藩主・福島正則にほかならないが、後継を託した養嗣子ようししを広島城の最奥に幽閉し、飲食を断って苦痛を長引かせておき、最後の最後に自分で斬る。いかな乱世とはいえ、そんな酷いことが現実に起こり得るのだろうか。

 瀬戸内海に近い三原城の満開の桜も、二十七歳の浅姫の目に一瞬で色を失った。


 忘れ形見となった直秀を抱いて駿府城にもどった浅姫は、事件の衝撃から心身に不調を来たして呼吸がしづらくなり、養父・家康が煎じる漢方薬で落ち着いたのは半年後だった。

 冷静に振り返れば最初から歯車が合わなかったのだ。

 浅姫が知らなかっただけで、家康も承知だったはず。

 長男が早逝した福島正則が甥・正之を養嗣子に迎えたときは本気で承継を考えていたが、忘れたころになって正室に男子が誕生した。奇しくも満天姫の入輿の一年前のことだった。

 人間ひと皮むけば煩悩のかたまりであり、その最たるものが実子への執着であることは、関ヶ原合戦では徳川に就いた正則がいまなお敬慕する豊臣秀吉の例に顕著である。

 正則にすれば、養嗣子・秀次一家を根絶やしにして実子・秀頼の将来を守った太閤殿下に倣ったまでのこと、妻子を助けてやっただけまだ情味があるという言い訳まであったやも知れぬ。

 承継のつもりがとつぜん手の裏返しされた正之がいっとき荒れに荒れたのも無理からぬことだったが、その乱行を養父・正則自ら幕府に訴え出て自分の城に監禁とは……。


 ちなみに、一連の事柄を時系列で追うと、つぎのごとし。

 ? 年、福島正則の長男・正友の早逝で甥・正之が正則の養嗣子に迎えられる。

 慶長三年(一五九八)正則の次男・忠勝(二代将軍・秀忠の偏諱を受く)誕生。

 慶長四年(一五九九)正之、徳川家康の養女・満天姫(実父は松平康元)と結婚。

 慶長五年(一六〇〇)正之、関ヶ原合戦に出陣し軍功を挙げる(竹ヶ鼻城の戦)。

 慶長十一年(一六〇六)正之(二十二歳)・満天姫(十八歳)に長男・直秀誕生。

 慶長十二年(一六〇七)正則自ら幕府に狂疾を訴え出た正之、広島城内に幽閉。

 慶長十三年(一六〇八)三月、正之没(享年二十四)。実子・忠勝が嫡男となる。


 参考までに、福島家のその後の軌跡もたどっておく。

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣では江戸城留守居役として江戸に留めおかれた正則の代わりに忠勝が出陣するが、夏の陣には遅参し、破壊された道や堤の修復工事に当たる。

 元和五年(一六一九)、無許可で城の修繕をしたとして正則が幕府から改易されたとき、忠勝は将軍・秀忠の上洛に随行していたが、父と共に信濃高井野に移り家督を譲られた。

 元和六年(一六二〇)忠勝没(享年二十三)。正則は錯乱して越後国魚沼郡二万五千石を幕府に返上。のち忠勝の弟・正利が三千余石の旗本として福島氏を再興するが、嗣子なく断絶。後年、忠勝の孫・正勝が小姓組番頭として仕え、二千石の旗本として存続した。




2 「黒衣の宰相」こと天海僧正の正体


 安芸備後から駿府に出もどって三年目。

 浅姫は堅牢なうえにも堅牢な駿府城内にあってもとりわけ贅を尽くした黄金座敷にいた。

 対座しているのは、家康に影のように付き従い、政に大きな権力をもっているとされる「黒衣の宰相」こと天海で、持ち前の温顔を綻ばせ、ゆるゆると家康の希望を説いて来る。

「でも、わたくし、とうていそんな気にはなれませぬ」

「そのお気持ち、この天海にも痛いほどに分かります」

「ならば、このお話、どうか辞退させてくださいませ」

「まあ、そう堅くお考えにならずとも、お心をやわらこう。むかしから人には添うてみよなどと申しますゆえ、ここはひとつ、大御所さまのご慈愛にすがられたがよろしかろうと」

「そんな……安芸の殿を亡くして間がないわたくしには、あまりに酷うございます」

「お労しゅう存じます。だが、そういつまでもお悲しみでは福島どのも浮かばれますまい」

 法体と豪奢な小袖との珍妙な押し問答の核心はずばり浅姫の再嫁の一件だった。

 家康には養女が二十人ほどいてあちこちの大名に嫁がせて縁戚関係を結んでいる。

 福島家に嫁いだ浅姫もそのひとりだったが、不測の事態によってああいうことになったので、正直、家康の持ち駒を任ずる身として、肩身が狭くないことはなかった、

がしかしである、


 ――大御所さまは、ずるい。


 浅姫はギリと紅唇を噛む。

 肝心なことや面倒なことは天海僧正に任せたきりで、自身はうしろで綱を引いている。幼時から実父のように接してくれたひとに直接なにも言えないのは歯がゆいことこのうえなかった。

 たしかに天海は優秀な天台宗の碩学であり、多くの弟子たちに慕われている。浅姫とて尊敬はしているが、反面、どこかこちらの胸の内を見透かされるような苦手意識もある。

 本能寺から生還した明智光秀説や、殺されたはずの織田信行(信長の弟)説など天海の過去は謎に包まれていた。ひとり家康のみがその正体を知っており、男同士ながら、両名は連理の仲である。

 大御所が口を閉ざしている以上、だれも天海の素性云々など問うものはいない。ああだのこうだの雑魚どもが取沙汰しても意味がない。天下取り一歩前という怪物に絶大な信頼を置かれていること、それが天海のすべてなのだ。浅姫はそう見ていた。


 養父・家康が浅姫という駒をパチンと置こうとしているのは、陸奥でも最奥の地だった。その名を津軽藩といい、海峡を越えれば蝦夷の異世界という、陸地の北の突端だという。江戸と駿府と安芸備後……生まれてこの方、温暖な気候しか知らない浅姫の脳裡を雪女がかすめる。

 おお怖い、大御所はそんな遠隔の地へわたくしを追いやって平気なのだろうか。

 実の父なら、そんな酷いことをお命じにはなるまい。

 まして連れて行かれる直秀は、なんと不憫な……。

 そんな浅姫の気持ちを見透かしたのか「ちなみに、二代藩主・信枚のぶひらさまは拙僧の弟子にございますが、人品骨柄まことに申し分なく」天海はあくまでやわらかく言い添えてくる。江戸の津軽藩屋敷のうちの中屋敷が上野山にあり、浅草常福寺の和尚とも昵懇の仲とか。

 武門ではなく学問の絆を強調されると外堀から埋められているような気がする。

 その一瞬の隙を突くように「では、ひとまず大御所さまにお目通り願いましょうかな」天海がパンと手を打つと、妙に乾いた音の格天井への響きが終わらぬうちに、襖を開けて家康が入って来た。




3 亡夫の姿を求めて『関ヶ原合戦図屏風』の右隻に執着


 自身を大御所と呼ばせている徳川家康は、身内や寵臣から集めた養女のなかでも、どういうものか異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘である浅姫をことのほか気に入っており、ふところに入れて慈しんできた浅姫の望みならたいていのことは聴いてやるというところがあったが、諄々と説く天海の弁からしても、こたびの件についてはどうにも決意が堅いように思われる。

 人誑しと称えられる温顔を惜しげもなく崩し「どうじゃな、その気になってくれたかな」いきなり問われた浅姫は「……はい、徳川家のお役に立てるのであれば」と答えていた。

 いくら可愛がってくれるといってもなんでも許される実父ではないし、天下人・太閤秀吉亡きいま武門の頂点として絶大な力を掌中にしている人物の意向に背けるはずもなかった。

 であるならば……大御所と天海の二強を前に、浅姫は精いっぱいの智慧を働かせていた。

 条件というのもおこがましいが、ふたつのことだけはきっと約束していただこう。


 一 亡き夫・福島正之の忘れ形見である直秀を、再嫁先の津軽に伴うこと。

 一 大御所さまご愛蔵の『関ヶ原合戦図屏風』を嫁入道具にくださること。


 果たして家康は人の好さそうな下ぶくれの温容の八の字眉をかすかに動かした。

「わが孫の身上は当然としても、合戦図屛風が欲しいとは、まあ言いも言ったりじゃなあ」かたわらから天海も「姫さま、あの屏風は大御所さまご秘蔵品のなかでも逸品中の逸品でございます」重々しく口を添える。

 そんなことはよく分かっている。

 分かってはいるがどうしても欲しい理由がある。

「せめて亡き夫の勲功をいつもかたわらに置き、直秀ともども朝夕に拝してやりたく……。われら母子をお迎えくださる津軽さまとて、さようにご器量の狭い方とは思えませぬ」

 じつは、これより何日か前、茶の席に事寄せて津軽信枚に引き会わされていた。

 堂々たる偉丈夫で顔つきも凛々しく、大きな心の持ち主だと浅姫は観察していた。

「いや、これは一本とられおったな、わしとしたことが、浅姫にはかなわぬわい」大御所の機嫌が存外にいいので天海もほっとしたと見え、「まことにご聡明な」つと追従めく。

「だが、合戦図屏風はわが半生のかけがえのない記録ゆえ、八曲二対の全部はやれぬぞ」

「はい、承知しております。せめて福島正則陣営の描かれております右隻だけでも……」

 関ヶ原合戦図屛風にはその数二千と言われる東西軍の将兵が細かく描かれている。正直、浅姫にとってほかの人物などどうでもよかった、黒地に白、山道紋様の十一本の幟が風にはためいている福島陣営の、できれば亡夫・正之の雄姿らしき人影さえあれば……。

「はっはっはっ、負けたわ、そなたには。じゃがな、この屏風はわしの命そのものゆえ、浅姫ならずともだれにもやるわけにはいかぬ。よって右隻のみ貸して進ぜよう、よいな?」

 いまは天下に並ぶ者とていない大御所家康だが、桶狭間では織田信長に、三方ヶ原では武田信玄に敗れ、本能寺からは命からがら逃げたものの宿敵・秀吉に天下を先んじられ、ようやく関ヶ原で首領に立てたときはすでに五十八歳の老境に達していた。じつに四十年の長きにわたる「重荷を負うて遠き道を行くがごとし」そのままの戦の半生を歩んでいた。

 堪忍ひと筋の人生最高の晴れ舞台となった関ヶ原合戦のもようを巧みな絵師に描かせて、日々の慰めとも、つぎなる飛躍への糧ともしようという気持ちは女の浅姫にも理解できる。

 しゃっきりと身を起こした浅姫は、もう一度きちんと手をつがえて平伏した。

 うなずく家康の目に光るものが浮かび、天海は満足げに両者を見守っていた。




4 浅姫なおり満天姫、いざ津軽信枚へ入輿のこと


 津軽への再嫁にあたり、薄幸そうな印象の浅姫から、天地に力満つ満天姫と名を変えた。

 名付け親はむろん博覧強記な天海僧正で、大御所家康にも異論のあろうはずがなかった。五十万石の大大名からすればわずか十分の一の小藩へ、だれの目にも尋常ならざる格下げに映りがちなところ、その憐みを毅然と跳ね返し、凛然たる誇りをもって最果てへ赴く。

 いわば女の戦である。

 その心意気に先んじての改名は、大御所から拝借することになった『関ヶ原合戦図屏風』の右隻とともに、子連れの負い目を抱えた身の拠りどころになった。

 北辺の守りを恃むという大御所の期待を担った満天姫の入輿は慶長十六年(一六一一)六月二日と決まり、満天姫と直秀母子は、前もって駿府城から江戸城へ移動する。迎える信枚は、まず津軽藩江戸屋敷から二代将軍・秀忠のもとに挨拶に出向く。結納の儀も滞りなく行われ、満天姫も会うたびに二番目の夫となる北辺の武士への親しみを深めていった。


 輿入れ行列が出立する朝、駿府から江戸城へ出向いていた家康も見送りに出た。

 徳川家お抱えの蒔絵師・幸阿弥こうあみ家が丹精した姫輿は、輿全体に惜しみなく最上等の金箔が施された絢爛ぶりだった。徳川の縁戚や各地の大名からの祝い、大御所から貸与された『関ヶ原合戦図屏風』右隻は前もって船で送ってあったが、かちで運ぶ貝桶、厨子棚、黒棚、唐櫃からびつ、屏風箱、行器ほかい、それに長持五十棹などは沿道の見物人の目を惹くに余りあった。

 そのいずれにも、くまなく津軽・徳川両家の家紋がおごそかに散らされている。 

 すなわち、津軽の始祖の近衛家にちなむ杏葉ぎょうよう牡丹丸と幕府の威光が匂う葵紋だったが、中央に大輪の牡丹の花を咲かせ、その裏側から左右七枚ずつの葉を舞い上がらせた津軽の躍動的な家紋は、座りよく安定した貫禄の徳川の葵紋と相性がよく、婚姻の幸先のよさをうかがわせた。

 江戸城から津軽藩高岡城まではおよそ百八十里。

 満天姫二十三歳、直秀六歳の新たな門出だった。


 無事に着到した高岡城での盛大な婚儀の夜、満天姫は少なからぬ衝撃を受けた。

待てど暮らせど新婚の夫・信枚が閨に姿を見せぬままでついに朝を迎えたのだ。

 驚愕の事実を知ってか知らずか、家老・服部長門守康成が城内を案内してくれた。先代・為信が発願し、志半ばで二代・信枚に承継された高岡城は平山城だった。

 津軽富士こと岩木山を見晴るかす本丸をはじめ、内北の廓、北の廓、二之丸、三之丸とつづき、徒歩ではまわりきれないほど広大な城内は、あきらかに表への届け出石高を大きく上まわっている。

「とうていすべてはお見せできませぬ」と誇りつつ、長門守は藩の歩みを語ってくれる。

 津軽の先祖・大浦光信は隣接する南部下久慈より当地にやって来て民を治め、開拓した。

 初代から数えて五代目に当たる為信が津軽一円を平定し、姓も大浦から津軽に変えたが、接する南部との軋轢は相変わらずで、現在に至るも両藩の根深い確執がつづいている。

 ちなみに、初代・光信は自分の没後を案じ、遺言によって南方を睥睨する立ち姿で埋葬された。「それに」長門守は声をひそめる「二代藩主さまの承継のときにはお家騒動が……」


 ――熊千代騒動。


 初代・為信の嫡男・信建が早逝したとき、その嫡男・熊千代はまだ幼かったので、父・為信は自身の三男・信枚への承継を遺言した(二男・信堅も早逝)。これを不服としたのが熊千代を推す為信の女婿・建広一派で、江戸の幕府に正統筋の継承を願い出たがすげなく却下されたので、一派は津軽から追放され、鳴り物入りの騒動は一件落着となった。

「が、しかしでございます」長門守は素早くあたりを見まわして補足する。

「紛争の芽は地中でときを待っているようでして、油断も隙もございませぬ」




5 信枚寵愛の小姓・本橋専太郎の幼い妬心


 嫁して三月が過ぎたが、いまだにお床盃を交わしていない満天姫の思いは自らへの責めに向かう。背後に徳川の実家が控えているがゆえに、夫婦の契りを交わすお気持ちになれぬのか? いや、そもそもわたくしに女としての魅力が欠如しているのではあるまいか? 先夫は大いに愛してはくださったが、あれから歳を重ね、苦労も重ね、老けこんだか?

 形だけの夫の気持ちなどあれこれ考えても仕方のないことと思いながらも、つい。

 第一仕えてくれる者に示しがつかぬ……いや、端的に言って恥ずかしくて堪らぬ。

 大御所が就けてくれた綾小路は問題がないが、津軽随一の古参侍女・松前の目が怖い。

 思えば松前には、初見の挨拶からして氷のように冷えびえとしたものを感じた。

 田舎育ちゆえ不愛想なだけだろうとも、あるいは未見の地に子連れで嫁いだ自分の気が昂っているせいかとも思おうとしたが、いつまで経っても馴染んでくれぬどころか、むしろ日を増すごとに冷淡ぶりが増してきており、その事実は誇り高い綾小路の気をも著しく損ねていた。

「松前どのの権高ぶりはどこから来ているのでございましょう、最果ての田舎者めが」

「これ、滅多なことを申すでない。殿のお耳にでも入ったら、厄介な事態が生じようぞ」

 満天姫にとっても綾小路にとっても、高岡城はいつまでも他所の城のままだった。

お方さまと呼ばれる正室は、ふつう奥の権力の頂点に立つものだが、この城では……。

 かと言って波音高い北の最果てにあっては、いやだからといって逃げ帰るわけにもいかず、満天姫と綾小路は、理由が不明な居心地のわるい客扱いにじっと堪えねばならなかった。


 夏の短い地方のことで、早くも虫が鳴き始めたある夜、初めて殿のお渡りがあった。

 白羽二重姿で布団に横になっていた満天姫は、慌てて起き直って長い髪を整える。

「いや、そのままそのまま。なにかと慌ただしくつい今ごろに……いや、相済まぬ」

「お忙しい折、ようこそお越しくださいました。かような格好でご無礼いたします」

 夫婦とは思えぬ珍妙な会話のあと、信枚は侍女に手伝わせて寝衣に着替え始めたが、とそこへいきなり乱暴な足音が闖入して来たので、満天姫も付き添いの綾小路も仰天した。

 見ると、顔を真っ赤にした若者……といってもまだ十二、三歳ほどの少年が女子のように美麗な花模様の小袖と緋色の袴をまとい、仁王立ちになって両の拳を握りしめている。

「専太郎、如何いたした。ここはお主の踏みこめる場所ではない。な、わきまえよ」

 藩主夫妻の閨に入りこむなど許されない暴挙だが、なぜか信枚の口調は甘い。

「分かっております専太郎だって……。でも、でも、お屋形さまは拙者だけのもの」

 口を尖らせる少年の言いぐさにも、とても聞いていられぬ妖しさがある。

「わしにもわしの務めがある。いい子じゃから、な、今宵は退がってやすんでおれ」

「ならば、明日は、明日はきっと拙者の部屋に来てくださいますね。お約束ですよ」


 ――もう堪らぬ、見ても聞いてもおられぬわ。


 満天姫と綾小路はそっと目顔を交わし合った。

 正室の前で臆面もなく痴話げんかを仕かけた美童が、藩主寵愛のお小姓・本橋専太郎と知ったのは、何事もなかったかのように夫婦盃を交わした信枚が立ち去った翌朝だった。

 松前がわざわざ満天姫の居室に出向いて、さも小気味よさげに告げたのである。

 余所者のおまえが知らないことがまだまだあるのだぞ、とでも言いたげに……。




6 側室・曽野御前と一子・直秀の身上


 なぜか知らぬが満天姫に相当な敵愾心を抱いているらしい松前の予告は、間もなく現実となった。うっとうしい城内の気から逃れるため庭の散歩を好む満天姫の前にあざやかに。

 岩木山を背景にとてつもなく美しいものが立っていると思ったら、華奢な女人だった。遠くでお辞儀をしたきりで近づいて来ぬ気配を訝しんでいると、そばで松前の声がした。

「ほほほほ、ご側室の曽野御前さまでいらっしゃいます。お綺麗な方でございましょう」


 ――そ、側室ですって?


 満天姫はいきなり背中をどんと押されたような気がした。

 大御所家康を筆頭に、大方の大名が何人もの側室をもっていることは承知しているが、先夫・福島正之にはひとりの側室もいなかった。稀にそういう男もいるのだ。満天姫は、信枚もまた稀少に潔癖なひとりと思っていたかった、選ばれた妻の希望的観測として……。

 へなへなとくずおれそうな身体を綾小路に支えられた目の端を、女としては大柄な自分とは対照的な嫋々たる柳腰がすうっと通り過ぎっていく。


 ――曽野御前。


 こともあろうに、天下分け目の関ヶ原合戦の家康の宿敵・石田三成の娘だという。

 京の六条河原で三成が処刑されたあと臣下の手引きで逃げのび、遠く陸奥で津軽信枚の愛妾になった。満天姫より年下であろうか、愁いを含んだ面影が女の目にも麗しかった。

 わが殿は……津軽信枚は、数奇な運命ともども、あの側室を愛さずにいられないのだ。その情けが徳川家を後ろ盾にする自分に向けられることは、この先もあり得ないだろう。寵愛する美童の本橋専太郎ですら、おりおりの無聊を慰める愛玩道具に過ぎぬだろう。

 薄幸という媚薬を持っている曽屋御前には、ほかのたれも太刀打ちできぬだろう。

 われながら底意地のわるい定義づけをしてやり場のない胸を収めるしかなかった。


 満天姫にはもうひとつ、深刻な悩みがあった。

 江戸から伴ってきた息子・直秀のことである。

 どうも義父・信枚との仲が芳しくないらしいとは薄々感じていたが、先日、図らずも双方から訴えられたのだ「直秀はわしに懐いてくれぬ」「義父上はおれを邪魔者扱いする」と。なさぬ仲の父と子が簡単に馴染み合えるとは思っていなかったが、あの妙に冷え冷えした空気がいつ互いへの憎悪に変わらぬものでもないと思うと、枕を高くして眠れぬ。

 どうやら信枚は、同じ城では目障りな直秀を養子に出したいと考えているらしい。

 一方、居場所を見つけられぬ直秀は、実父・福島家の後継を夢想しているらしい。

 信枚の許可を得て奥の納戸に仕舞ってある『関ヶ原合戦図屏風』右隻も息子のそういう気持ちに拍車をかけているのかも知れないと思うと申し訳なかったが、それはそれとして義理の間柄の心持ちがここまですれちがってしまえば、なにより家庭の平穏無事を望む妻であり母である満天姫は、取り返しがつかない大事が起こらぬよう神仏に縋るしかない。

 最奥に与えられた静かな居室から枯山水の庭を眺めながら満天姫は考える。

 自分ほど不幸な女はいないとつい思いがちだが、それはちがう。絶世の美女として知られるお市の方と淀、はつ、江の三姉妹をはじめ、戦国の女人たちの多くが、これでもかというほどの不幸の餌食になっている。あの方々よりはまだましと思いたい気持ちの在り様は褒められたものではないが、それで当座が救われるのならそれもよいのではなかろうか。




7 曽屋御前は上野大館へ、本橋専太郎は不義密通


 満天姫の悩みはなにひとつ解決せず、苦しい思いを抱えたまま月日が奔っていく。

 養父・家康に庇護されていたころは人生がこれほど重いとは思いもしなかった。

 刺繡や縫い取りのある着物を着せてもらい、侍女に洗顔や入浴を手伝わせ、髪を結ってもらい、部屋で貝合わせやお手玉遊びに興じていれば、平穏な日々が淡々と過ぎていく。この世は少し退屈ではあるが、従順にしていれば辛いことなど起こらないと考えていた。養父・家康の命で安芸備後藩主・福島家へ嫁ぐときも、絢爛豪華な花嫁行列をしつらえてもらったが、さしてありがたいとも思わなかった。

 そのきっちり噛み合った歯車に耳障りな軋みが生じ始めた最初の記憶は、初夜の床盃を交わした正之から義父・正則に遅い実子が誕生していた事実を知らされたときだったが、「あら、それはおめでとうございます」と答えるような世間知らずだった。

 だが、そのときすでに、それまで養父母に心からの孝養を尽くして来た養嗣子・正之は厄介者とされており、実子可愛さに理性を失った養父母の贄にされようとしていたのだ。

 心を荒ませた養嗣子の狼藉をことさらに訴え出た幕府から言質を取ったうえで広島本城の座敷牢に幽閉し、敢えて飲食を与えずに苦しみを長引かせ、餓死寸前の衰弱を自ら斬ったのは養父・正則その人だった。

 瀬戸内海の若夫婦の支城でその悲報を聞いたとき、そのころはまだ浅姫と呼ばれていた満天姫は、世の中は悪意と策謀に満ちており、簡単に足もとを掬われることを知った。

 それからの凄まじい有為転変は、もしや夢中の出来事ではないかと思うほどだったが、いずれも実際に起きたことであり、大御所家康ですら手の打ちようがなかったのである。

 

 最果ての北国で唯一の頼りとする夫・信枚に、小姓と側室の両刀で裏ぎられ(といってもいずれも満天姫のほうが後進ではあったが)、そのうえに一子・直秀との不仲は応える。それでなくてさえ一年の半分は雪に閉ざされる寒い土地柄で気うつが増しがちなのに……江戸の暮らしを懐かしんでばかりの綾小路も、満天姫に不実な信枚を快く思っていない。

 かたや、高岡城の奥向きの最古参として生活の実権を握っている松前は、満天姫の身に不幸が重なれば重なるほど溌溂と見えがちなのは、重なる不幸ゆえの僻目(ひがめ)だったろうか。


 信枚の譜代の重臣・奥寺右馬丞の藩政転覆の謀が発覚したのはそんな折だった。

 怨念の宿敵・南部藩の忍だったことを知らずにいたのだからまずはおめでたい。

 事が拡散する前に高坂蔵人ら譜代の寵臣の働きで謀反一派の動きは食い止められたが、南部藩の方角に相対して立ち姿で葬られたご先祖には申し開きのできない不祥事だった。

 満天姫にとっては一子・直秀の件に次ぐ棘ともいえるふたつの案件にも動きがあった。

 ひとつは同じ高岡城内の空気を吸っていた曽野御前が上野大館へ転居したこと。

 信枚の采配か曽野御前自身のたっての望みか、その辺の事情は明かされなかったが、継室と離れ亡き実母の生地への移住は、頑健とは言えない曽野御前のためでもあると推察された。

 曽野御前あらため大館御前と呼ばれるようになった側室のもとに、信枚が江戸への往来のつど立ち寄り何日か滞留していることは満天姫も気づいていたが、同居よりは救われる。

 もうひとつ、胸のすくような……といえば、いかにも大人気ないが、初見のとき以来、剥き出しの敵愾心を隠そうともしない勝気な小姓・本橋専太郎の一件があった。

 よほど独占欲が強いのか、ならぬ堪忍に磨かれ押しも押されもせぬ継室として大前御前おおきおまえさまと呼ばれるようになった満天姫、それに大館御前への信枚の寵愛を妬んでいたらしい。その不満に目をつけたのが、先の奥寺右馬丞騒動でも以前の熊千代騒動でも功績のあった譜代の家老・高坂蔵人だったので、あとで事実を知った者はいっせいに驚愕した。

 多分に慢心もあったのだろう、かねてより専太郎の際立つ美童ぶりに想いを寄せていた蔵人は、藩主・信枚の不在を狙って自邸に呼び寄せると、長年の思いの丈を遂げたという。

 だが、知らせる者があったのか、たちまち事が発覚し、本橋専太郎は信枚に斬られる。これを恨んだ高坂蔵人は配下に呼びかけ、こともあろうに積年の敵対先、南部藩への士官を図るが、そうはさせじと信枚が討手を出したので、高坂一派は壊滅に追いこまれた。

 相次ぐ内紛で津軽藩は家臣の半数を失いはしたが、満天姫の棘は抜けたことになる。




8 先妻・直姫の自裁と義父子の確執の深まり


 慶長十九年(一六一四)十月、天下取りに向けて着々と地歩を固めていた大御所家康が老体の満を持しての大坂冬の陣で、満天姫の夫・信枚は留守居を命じられた。

 十四年前の関ヶ原合戦よりこの方、一応、世間は平安を保っており、民百姓はともかく格好な戦があってこそ活躍も出世もできる武将たちは虎視眈々と機会を狙っていたのだが、再三再四の信枚の申し入れにも家康は「大坂への出陣はまかりならぬ。とにかくおことは北の守りに徹せよ」の一点張りだった。

 陸奥には薩摩の島津同様に幕府が警戒の目を光らせる伊達政宗がいる。六男・松平忠輝に長女・五六八いろは姫を娶らせ、打てる手は打ってある。だが、伊達め、いつなんどき……。

 そんな大御所の危惧は痛いほど分かる。分かりはするが、願ってもない戦働きの機会をむざむざ取り逃がすことは、多くの家臣を抱える一国の国主として無念でならなかった。

 ならば次なる機会こそはと期待したが、翌二十年の夏の陣においても信枚は北の守りの地味な役割を命じられたので、第一線の諸将のように華々しい論功行賞には与れなかった。

 そんな夫の苛立ちを間近にする満天姫には、綾小路にしか話せない悩みがあった。

 いくら広いとはいえど、同じ城内に暮らしていてはその素行が気にならないはずがない側室の曽屋御前が上野国大館に移って、津軽における敵手はいなくなったはずだったが、思わぬところに伏兵がひそんでいたのである。

皮肉なことに、その名も息子と同じ直姫。

 江戸から当地に嫁いでこの方、最古参の侍女・松前の視線の冷たさが一向にやわらがぬことには納得がいかなかったが、ある日、本人が堪えきれぬというように思いを迸らせた。

「言えと仰せならば申し上げます。わたくしには大前御前さまが憎くてなりませぬ」

「なにゆえに、さほどまでわたくしを疎むのか。徳川の権威を笠に着ている? 子連れの入輿のせい? あるいは、地元からすれば笑止千万なよそものの津軽弁が気に障るとか?」

「いえ、そういうことではございませぬ。この際、はっきりと申し上げます、わたくしにとっての大前御前さまはご無礼ながら満天姫さまではございませぬ。松前にとっての大前御前さまは満天姫さまのご入輿の直前に身罷られた直姫さまただおひとりにございます」

 一気に言うと、松前はわっとばかりに泣き崩れ、ついでに、江戸からの継室にうつつをぬかし、天守から飛び降りるまで追い詰めた先妻を忘れた信枚への恨みまで吐き出した。


 ――えっ、わたくしが嫁いで来る前にそんなことがあったのか?


 迂闊といえばあまりに迂闊な自分を思い知らされて満天姫は衝撃を受けた。

 先夫の苦労だのなんだのと言っても、周囲から見れば徳川に守られた姫に過ぎなかった。そのかげで、あたら若い命を断った女人がいた。松前の恨みをどうしてやることもできぬ。

 そんな満天姫を苦しめるもうひとつの悩みは、言わずと知れた直秀のことだった。

 義父・信枚との関係がいっそう尖ってきて、昨今は一触即発の気さえ感じられる。

 自分は邪魔者という意識が生来の意固地に拍車をかけ、直秀に反抗的な態度をとらせる。一方の信枚も、だれにも覚えのある繊細な時期の渦中にある養子の心情を思いやる度量を持ち合わせていない。互いの影を見ただけで身体を固くし、目を合わせようともしない。

 先妻の件や内紛の芽など複雑な事情を抱えた高岡城の闇に満天姫は呪縛されていた。




9 元和元年の大飢饉&直秀の大道寺家婿入り


 悩みを抱えているからといって一日とて飲食おんじきを疎かにできないのが人の暮らしである。松前があまりにも冷淡だからと暇を出すわけにもいかず、実子・直秀の処遇の件はさらにむずかしい。綾小路以外には気の許せる者とていない高岡城で、満天姫は悶々たる月日を重ねるしかなかった。

 江戸へ、その途中で大館へと落ち着かない信枚は、妻の悩みには気づいていないらしい。

 大坂の陣の翌年の元和元年(一六一五)、例年になく冷たい夏を迎えた陸奥では未曽有の大凶作となり、秋から冬にかけて民百姓の餓死が多発した。例によって藩主・信枚不在の高岡城では、実質的な城代役にある満天姫が先頭に立って自らを含めての米の摂取を禁じ、少しでも多くの穀類や大豆を城下に分配するように取り計らった。

 安穏としてはいられぬと町人に変装して城下の窮状を見てまわったうえで江戸に早飛脚をやり、大御所家康を通じて一刻も早く幕府から救援米を送ってもらうように手配した。

 信枚が江戸からもどって来たとき、困窮する陸奥諸藩のなかでも津軽藩に限っては最悪の状況から脱していたので、満天姫は「さすが大御所の養女」と面目を施すことになった。


 満天姫から要請のあった救援米を寵愛する養女への最後の心づけとして、翌四月十七日、江戸城を秀忠に譲ったあと移り住んだ駿府城で家康が没した。七十五歳の大往生だった。

 その名を聞いただけでだれもが畏れて平伏する大御所だったが、幼いころから膝や背に乗って遊んでいた満天姫にはやさしい養父であり、実際、自分は愛されたと感じていた。

 大きな後ろ盾を失い、津軽での自分の立場に影が差すことは避けられないだろう、ことに松前……だが、どうしようもないことはじんわりと諦める癖がいつの間にかついていた。

 同じころ、満天姫の最大の気がかりだった愛息・直秀の将来が決まった。

 信枚の仲介により、津軽藩譜代の重臣・大道寺直英のひとり娘・佐武さふの婿養子に迎えられたのだ。折しも厳密な一国一城令(真偽は不明だが)を楯に、天災で破損した広島城の修理を巡って江戸幕府と福島正則との軋轢の激化が伝えられていたときだけに、満天姫は心底からほっとする。

 津軽藩二代藩主・信枚の正室(実際は継室だったが)として迎えられてからまる五年、長いようで短い歳月にさまざまなことを経験した満天姫の肩にも貫禄がつき始めていた。




10 川中島転封の内命を覆し三代・信義を引き取る


 だが、やれやれと安堵したのもつかの間、大御所の逝去を待っていたかのように、二代将軍・秀忠は豊臣遺臣の大名潰しに乗り出し、まず真っ先に福島家が狙われる。

 遺言により大御所徳川家康が日光東照宮に東照大権現として祀られてから二年後の元和五年(一六一九)初夏、とつぜん津軽藩に川中島十万石転封の内命が下された。

 まさに寝耳に水の転封命令に、信枚も満天姫も心底から恐懼したが、もっと驚いたのは、立ち退いた津軽には安芸備後の福島正則が移封するという、とんでもない話だった。

 福島正則にすれば広島五十万石から五万石足らずの陸奥の小藩への格下げである。一方の津軽にすれば、表向きは五万石でも、実質的には倍の十万石を誇る大切な領地である。いまなお墓から南方に睨みをきかせている初代・光信をはじめ歴代が苦労に苦労を重ね、隣接の南部藩との攻防を繰り返しながら死守して来た代々の入魂の津軽藩である。


 ――だれがおめおめと……。


 満天姫は大飢饉のときと同様、こたびも自分の出番であることを自覚していた。

 夫・信枚に相談のうえで、目立たないよう数人の供のみ連れ、敢えて地味な輿に乗り、ひそかに江戸城へ出向くことにした。


 百八十里の道中で、輿に揺られながら満天姫は策を練りに練った。

 将を射んとする者はまず馬を射よと申すではないか。いかな大御所の養女でもいきなり将軍には謁見できまい。となれば急がばまわれ、女同士として御台所・於江与ノ方さまにお縋りするのが一番いい。

 案の定、娘時代から親しんでいる御台所は、懐かしげな笑顔で迎えてくださった。

 先方でも遠路はるばるやって来た目的を承知していたが、当然ながら簡単にはゆかぬ。ああ言われたらこう返そう、ああ問われたらこう答えよう、いや、こうかと繰り返し問答して来た練習が役立ち、何度かの会談のたびに事態は好転して、ついに将軍の許可が出た。


 ――お国替えの件、沙汰止み。


 早飛脚の報告を聞いた信枚は、はるか東方の満天姫に向かって深々と頭を下げたという。

 のちにそう聞かされた満天姫は、ようやく自分も高岡城の一員になれたとうれしかった。


 ときを前後して信枚から重大な頼まれごとがあった。

 まずは大館御前に男子が誕生したと照れくさげな報告があり、正室の満天姫に、自分の後継と決めている信義の母親になって欲しいという。信枚との実子が授からない満天姫に否やはなかったし、それ以上に自分を信頼してくれている信枚の気持ちに報いたかった。


 上野大館から赤子を引き取って四年後、生来、蒲柳の質だった大館御前が亡くなった。

 積年の恩愛を越え、満天姫さまにこの子をどうかよろしくと言い置いたと報告を受けた。

 それからしばらくして寛永元年(一六二四)、信濃国川中島の配所で福島正則が没した。養嗣子・正之を惨殺してまで承継させた実子に先立たれ、侘しい最期だったと伝えられた。


 その後もいくつかの有為転変があり、落雷による新城の建築に際し、津軽城は弘前城と改称する。のち、信枚の逝去により三代藩主・信義が跡目を襲封するが、家臣間の内紛は津軽のお家芸というべきか、またしても江戸詰めと地元を守る一派の間に諍いが発生した。

 その騒動もやっと収まった寛永十三年秋、満天姫にとって痛恨の出来事があった。

信枚の仲介で大道寺に養子に行ってからすっかり疎遠になっていた息子・直秀が珍しく母親との夕餉にやって来たとよろこんだのもつかの間、その母の目の前で急逝したのだ。

 獣のように咆哮しながら七転八倒で苦しむ症状から服毒が推察された。

 前後の事情から給仕の松前に嫌疑が集まったその晩、松前はふっつりとすがたを消す。満天姫は知らなかったが、いまもって直秀は実父の福島家の再興を公言していたようで、それを聞きつけた松前が満天姫への積年の復讐を果たしたのだろうといううわさだった。


 信枚の正室としての最後の仕事として、三代藩主・信義の正室に実父・松平康元の三男・泰久の娘・富宇姫を迎えた満天姫は、寛永十五年(一六三八)三月二十二日に没した。

 享年五十の波乱の生涯だった。

 同年六月、岩木山が噴火した。                    [完]




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連珠――満天姫の場合 🗾 上月くるを @kurutan

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