第4話 おもひで

「おじゃましまーす」

 帰宅した仁の家に、明るい女子の声が響く。

「いらっしゃい。もう少しでできるから、待ってて」

「うん。わ~、いい匂い」

 脱いだ靴が玄関に転がる音を聞きながら、仁はおたまでアクを取り続ける。

 背後のソファでスマホをいじる陽子の様子を見ながら、仁は箸を並べ、ごはんをよそっていった。

「いただきまーす」

 食卓についた陽子とともに手を合わせ、頭を下げる。

 今日のメニューは艶のある白米に手作りのドレッシングがかけられたサラダ、主菜は具たっぷりのポトフ。

 すじ肉やソーセージと野菜を一緒に煮こんだフランス料理だ。まあ人によってはルーのないカレーと揶揄されることもあるが。

 夏とはいえ冷房の効いた環境に長い間いると体が冷えやすいし、今日はすじ肉が安かったのでポトフにすることにした。

 ごく軽く冷房を利かせた室内で、陽子は銀色のスプーンを持ちポトフをひとすくいする。リップで輝かんばかりの艶のある唇へと、すじ肉とスープが飲み込まれていった。

陽子の口の中に絶妙な塩加減のスープが広がり、よく煮込んでやわらかくなったすじ肉のうまみが口内を幸せで満たした。

くずれるギリギリの柔らかさまで煮込んだじゃがいもに、わずかな甘みを添えるだいだい色のニンジン。

「おいしい」

 宝石のような瞳をうっとりと細めた陽子は呟く。

暖かい料理はお腹も心も満たしてくれる。 出会ったばかりの頃は、陽子はインスタントや冷凍食品ばかりで顔色も悪かった。

「いつもありがとね。パパもママもあいかわらず忙しくて」

照れ臭そうに笑う陽子から仁は慌てて目をそらす。

汗をかいたせいか制服の白いブラウスの上から、ピンク色の下着がくっきりと透けていた。

「いいよ。一人で食べるのも味気ないし、ご飯が食べられないのは辛いから」

「ほんと、仁には中学の頃から世話になりっぱなしだね」

陽子の口から、中学時代の思い出が語られていく。 





 中一の頃。仁と陽子が出会った時、陽子は決して明るい性格ではなかった。

「聞いた?」

「聞いた。二年の先輩からまた告白されたんだって、丹波さん」

「フッたらしいけど」

「マジで? これで今月何人目なの?」

 同じ教室に陽子がいるにもかかわらず繰り広げられる会話。

 自分の名前と悪口が出るたびに、陽子は身をすくませる。

「しってるー。ああいうの、クソビッチっていうんだよね」

「いや、確かアバズレクソビッチっていうらしいよ」

「長い」

「何それウケる」

 悪意のたっぷりと込められた嘲笑という名の笑い声。

 教室の隅で陽子が涙目になっても、会話が止まることはない。

 女子は同調と共感を重んじる分、一度悪いイメージがつきまとうと「わかる」「ウケる」「それな」で会話が構成されていく。

 やがて雪だるま式にふくれあがった悪意によって「この子には何をやってもいい」という狂気の空気が形成されていくのだ。

 男子からは見た目がいい陽子に対し同情の視線が集まるものの、女子の空気を恐れて近づく者は誰もいなかった。

「ねえ、ペン貸して。丹波さん」

 だがそんな中でも空気を読まず臆せず、陽子に話しかける人物が一人だけいた。

 中学の頃の播磨仁だった。

「ねえ」

「なに?」

 仁は向かい合わせに座った丹波陽子が仏頂面で問いかけてくるのを、蛙の面に水と言わんばかりの表情で聞いていた。

「あんた、なんで私に構うの」

「誰も構わないから、かな」

「ふざけてんの?」

「ふざけてないよ」

 幼いころ、母親の虐待を受けてきたたためか。仁は理不尽な仕打ちを受ける人を黙って見ていることはできなかった。

 といってもネクラの仁には、陽子に対する扱いを止めるすべはない。

 自分にできることは、陽子のそばにいることと愚痴を聞くことくらいだった。

「同情とか、やめてよね。ほんとキモい」

 仁の口が止まる。

「同情、か…… そんなんじゃないよ。ただ、見てるだけなのが嫌なだけ。それに愚痴を聞くのは嫌いじゃないから」

「お節介のマゾ? これだからモテないチビは……」

 高校になっても百六十台だった仁の身長は、中学一年の時点では百四十台にも達していなかった。

 だがその程度では仁の心に波風すら立てることはできなかった。

 満足な食事すら与えられない中で寒空にシャツ一枚で放り出され、罵詈雑言の限りを尽くされた幼い日々に比べれば。

この程度の悪口など小鳥のさえずり程度にもならない。



「俺と付き合わね?」

昼休みにまた陽子に告白してきたのは、クラスメイトの武田。仁より背が高くスポーツもできて成績もよい、

何よりクラスの女子から絶大な人気を誇る。だが陽子の表情はさえなかった。

陽子は小学生のころから、そして中学に入ってからも告白が絶えなかった。だがうまく断るコツをこのころの陽子はまだ知らない。

「うるさい。もううんざり。放っておいてよ、私なんて」

 目すら合わせず、不機嫌さをあらわにしてそう言い捨てた陽子。

 その言葉にイケメン高身長高成績の武田は、目を吊り上げる。

「なんだよその態度はぁ!」

「ひっ……」

 男子の恫喝に、陽子は声が出なくなる。

 涙目になり、後ずさり、屋上へと続く階段の踊り場で追い詰められていく。

 だが緊迫した雰囲気を、場違いに明るい声が打ち消した。

「あれ? 丹波さん? さっき先生が探してたよ」



「なんであんた、あそこにいたの」

 教室に戻り仁と向かい合って座った丹波陽子が問い詰めてきた。

「丹波さんが人とあんまりいたくなさそうだったから。となると、人気のない校庭の端か屋上かなって。あとは勘」

「そ」

 だが陽子の口からはお礼の言葉一つない。仁はそれに気分を害した様子もなく。

「それよりお腹空いたよ。お弁当食べよう」

「あんた、こんな時だって言うのにご飯?」

 あきれながらも陽子は、机の引き出しから昼食を取り出した。

 仁たちの通っていた中学は給食がない。つまり昼は、強制的に集団となる座学や給食と比べぼっちがよりいっそう目立つ。

 仁は時々友人と食べながらも、陽子を頻回に誘っていたがこの日は初めてお昼を共にできた。

「いただきます」

「ふん」

 仁は両手を合わせて。陽子は鼻を鳴らして、昼食を口の中に運んでいく。

 外界から隔絶したかのような、立った二人だけの食事。教室の中からは仁たちを遠目にうかがう視線が不愉快なほどに感じられるが、仁は気にしない。

 一日三食食べられるだけで仁は幸せだった。

「はい」

「なによ」

「おすそわけ。丹波さん、いつもコンビニのパンでしょ」

「いらない。このお節介。あなたには関係ない」

「関係ある。隣の席で暗い顔されてたら、いい気持ちしない」

「ふん」

渋々ながらも、陽子はパンの上に差し出された芋の天ぷらを口に運んだ。

「マジ?」

つまらなさそうに細められていた目が、見る間に驚愕に開かれる。

「めっちゃ美味しい……」

「よかった」

「は? なにが?」

「丹波さんの笑顔、初めて見たから」

「は、はあ? な、なに言ってるの、」

 顔を真っ赤にした陽子。舌がもつれているのがはた目にもわかる。

「な、なんかおかしくなくなくない?」

「な、何言ってるの? もしかして本当は美味しくなかった?」

「じゃなくて。もう私たち、友達でしょ。それなのに丹波さんって、ありえなくなくない?」「これからは、陽子って呼んで。ていうか、呼べ」

「うん、わかったよ、陽子」

「~っ」

 なぜか陽子の顔は更に赤くなった。



その日の仁と陽子の様子は、瞬く間に広まる。

「あんな冴えないのと、丹波がね」

「どこがいいのかな」

「びっちすぎてイケメンにあきちゃったとか」

 話題は陽子を変わらず揶揄するもので。コイバナに花を咲かせる女子は一人もいない。

だが一人のウエーブがかかった茶髪を肩まで下ろした女子が、それまでの会話とはうって変わった調子で手のひらを打った。

「でも使えそうじゃない?」




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