第3話 告白

 播磨仁は、校舎裏を必死にダッシュしていた。体育の授業の後トイレに寄ったのだが。

 紙がなかったのだ。

トイレから他の男子がいなくなるのを待ち別の個室から紙をゲットするのに思いのほか時間がかかり、次の授業に遅刻しそうになっている。

「こっちから行こう」

 普段は通らないが校舎裏のこの道を抜けると、二、三分は教室へ戻る時間を短縮できる。ギリギリかな、そう思った仁はさらにペースを速めた。

「いいだろ、」

「でも、」

 だが耳慣れた話し声に、反射的に足を止める。

 曲がり角になった壁を陰に、こっそりと様子をうかがう。そこにいたのはジャージをまとったままの一組の男女。

「一回遊びに行くだけでいいからさー」

「そんなこと言われても……」

 一人は学年でも有名な、摂津譲二。百八十を超える長身に甘いマスク。尾張率いるサッカー部のエースにして成績も上位。

 もう一人は陽子だった。

 校舎裏の壁を背にした陽子に、摂津が逃げ道をふさぐようにして立っている。

「ごめんなさい、好きな人がいるから……」

 陽子はか細い声でそうもらし、摂津の横を抜けようとする。

「好きな人って誰だよ!」

 だが摂津は響くような声と共に、壁に手のひらを押し付けた。

「そ、それは」

 その言葉を最後に、陽子の口から言葉が出なくなる。

 播磨仁はすでに動き出していた。


「大変だー。急がないと次の授業に送れちゃうー」


 不自然につぶやきながら播磨仁は校舎裏の陰から姿を現した。息を荒げ、全速力で走るのであやうく摂津とぶつかりそうになる。

「なんだあ?」

 摂津に見下ろされ、仁は息が止まった。自分よりも十センチ以上高い身の丈に一回りは太い腕。半袖のジャージからのぞく手足の筋肉は比較にすらならない。

 怖い。怖い。

 でも、母親に比べればましだ。

 あのころに比べれば体も大きくなったし、多少なりとも抵抗できる。

 逃げ出しそうになる足を必死にその場につなぎとめ、精いっぱいの虚勢を張って摂津を睨み返す。

「ちっ……」

 摂津は忌々し気に舌打ちすると、仁をひとにらみしてその場を去っていく。

「……おそいよ」

 短パンジャージ姿の陽子は呟く。

続けて鳴り始めたチャイムの音。コンクリートの壁に反響し、幾重にも折り重なって聞こえた。

「次の授業、遅れちゃったね……」

「別にいいよ、そんなの。仁くん、結局、来てくれたし」

 上気した陽子は、か細い声でそう漏らした。



 麦ごはんに梅干し、サバの塩焼きにみょうがの酢漬け。アクセントに甘い卵焼き。

「いただきます」

「いただきます。うーん、美味しい! いつもありがとね」

 校舎裏の日陰に設置されたベンチで、仁と陽子の二人は隣り合って弁当に箸を伸ばす。

日陰の外に出れば肌を焼くような日差しだが、このベンチ周辺は校舎内からの涼しい風が時おり流れこみ、意外と快適だ。

三十五度を越える暑さでは滅多に人が来ないので絶好の穴場となっている。

「なんか悪いね。仁くん。こんなにしょっちゅう……」

「別にいいよ。一人分って意外と難しいから」

 サバの小骨を箸で丁寧に取り除きながら仁は答える。

 おかずが多くて余りそうなとき、前日の晩か朝に陽子に連絡をするのだ。

『明日、いる?』

『え? いいの? お願い!』

 この程度の簡単なやり取り。だが、中学の頃からの付き合いである二人にとっては十分だった。

「んー、この卵焼きなんて絶品!」

 焦げ目一つない卵焼きを口に運んだ瞬間、陽子の表情は至福に満たされる。

「甘味もちょうどいいし、すっかり胃袋を仁くんにつかまれた感じかな」

「あ、ありがとう。そこまで喜んでくれて、とっても嬉しい」

 仁は頬をかきながら、隣に座る陽子から視線を逸らす。

「……変な男からの虫よけになるし、パパからもらってるランチ代も貯金に回せるし」

「なにか言った?」

「なーんにも!」

 可愛らしく返答しながら、陽子は残りのおかずも口に運んでいく。

 焼けるような暑さの中で時折流れてくる冷房の効いた涼しい風、喧騒から隔離された二人だけの場所。

 隣に座る可愛らしい女子。

 暴力暴言におびえていた幼いころには夢にさえ見なかった、ささやかな至福のひと時。

「あ……」

 ふと校舎裏の陰から人影が見え、仁はとっさに陽子から距離を取る。

三つ編みにした毛羽立つ髪に、度の強いメガネ、スタイルの良い陽子と比較するとき際立つぽっちゃりした体格。

だがバストサイズだけは陽子をはるかに上回っている。

クラスメイトの紀伊ほのかだった。

「ご、ごめんなさい」

 二人きりの仁と陽子と目が合うと、紀伊は一目散にその場を離れようとする。

「どうしたの?」

紀伊の泳いだ目と手に持つランチバッグが気にかかり、仁は引き止めた。

「……」

だが紀伊は仁と陽子の間で視線をさまよわせるだけで、なかなか口を開かなかった。

隣に座る陽子がやきもきしているのが伝わってくるが、仁はせかすことなく辛抱強く待つ。やがて紀伊がその厚ぼったい唇を開いた。

「その、そのですね」

口を開いても紀伊の言葉はなかなか要領を得ない。口を開いては閉じ、吃りぎみで聞き取りづらい。

だが仁はせかすことなく、笑顔で、彼女が決して怖がることがないようにつとめた。

自分も幼いころ、母の前で震えていた。

父親に訴えた時、上手くしゃべれなかった。

目の前の紀伊からは、そんな自分と同じものを感じたから。

「その、自分の席から追い出されて…… 食べるところ探してたんですけど、学食も階段の踊り場も誰かがいて…… 外は暑すぎて……」

「一緒に食べる?」

 仁は考えるまでもなく即答していた。ぽっちゃり彼女が座れるよう、端に詰めてスペースを開ける。

「え、でも……」

 紀伊は仁と陽子の間で視線をさまよわせ、陽子と目が合うと怯えたように顔を伏せた。

「陽子。そう言うの良くないよ」

「わかったよ。どうぞ、紀伊さん」

 陽子も端により、スペースを開ける。

 二人の間にはさまれた形となった紀伊は、おずおずとランチバッグを開ける。

 そこにはから揚げやとんかつをはじめとしたこってり系のおかずがたっぷりの白米とともに山と詰められていた。

「いただきます」

 紀伊は丁寧に手を合わせ、から揚げを口に運ぶ。よく咀嚼して飲み込んだ後、紀伊の顔は喜びに満ちあふれた。

 こうして嬉しそうにしていると、結構かわいい。

 だがオカズのラインナップがよろしくない。栄養が偏りそうだ。そう思った仁は、予備の箸を取り出して自分の弁当箱から酢漬けをつまみ、紀伊の弁当箱の蓋にそっと置いた。

「一つあげるね」

「で、でも……」

「いいから」

 仁に強めにせかされ、紀伊は酢漬けをつまんでそっと口に運ぶ。その瞬間に口元を抑え、目を見開いた。

「お、美味しいです……」

「ありがと」

 仁は短く礼を言うが、頬のゆるみは長い間収まらなかった。

「仁、これ全部自分で作ってるんだよ? 男子なのにどんな女子より女子力高い…… 敗けた感じ」

 すでに食べ終わった陽子は、どこかトゲのある口調でつぶやく。

「お弁当、全部作って…… カースト上位の丹波さんとこうやって一緒にお昼食べて……」 

 紀伊は胸の前で拳を握り締め、仁に向き直った。

 だが握りこんだ拳は震え、一度合わせた目は泳ぎ、瞳はうるんでいる。

「また時々、こうやってお昼一緒してもいいですか? それと紀伊、ってすこし言いづらいですから。今度からは『ほのか』って呼んでください」

 それを聞き陽子は深々とため息をついた。

「……バカ。ちょっと優しくされるだけで勘違いしないでよ」

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