第31話 最後の選択


 再会が俺たちの心に再び火を灯してしまってから数ヶ月が過ぎていた。俺と葵先生は誰にも気づかれぬよう細心の注意を払いながら、同僚という仮面の下で再び密やかな逢瀬を重ねていた。それは高校時代の、あの背徳的で甘美な日々の再来。しかしそこにはあの頃にはなかった、より深くそして救いのない罪悪感が常に影のように付きまとっていた。俺には陽菜がいて、先生には陽菜の兄でありそして婚約者である隼人さんがいる。俺たちは世界で最も優しくそして誠実な二人を、同時に裏切り続けていたのだ。


 その夜、先生に呼び出されたのは学校近くの寂れた公園のベンチだった。冷たい冬の空気が俺たちの間に、まるで透明な壁のように横たわっている。先生は俺の顔を見ようとせずただ力なく揺れるブランコをじっと見つめていた。

「健太君。……私たち、もう、会うべきじゃないと思うの」

 その声は冬の夜気のように静かでそして冷たかった。俺が何かを言う前に彼女は続けた。

「隼人さんは本当にいい人よ。誠実で優しくて、私みたいな人間にはもったいないくらい。……彼との結婚を私はもう決めたの。そして陽菜さんも。あの子はあなたのことを心の底から信じてる。あなたの隣にいることがあの子の幸せなのよ」

「先生……」

「私たち二人の身勝手な感情であの二人をこれ以上傷つけちゃいけない。……そしてあなたの未来を私が壊してはいけないの」

 彼女の決意は鋼のように固かった。俺がどんなに反論しようとしても懇願しようとしても、その壁を崩すことはできないだろう。これは彼女が血を流すような苦悩の果てに、ただ一人で下した最後の選択なのだ。


「……最後にもう一度だけ」

 俺の口からそんな言葉がほとんど無意識に漏れていた。

「最後にもう一度だけ先生を抱きたいです。それで本当に最後にするから」

 先生は何も答えなかった。ただその美しい瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。


 俺たちは近くのありふれたビジネスホテルのドアをくぐった。無機質で誰の記憶も残らない刹那的な空間。それが俺たちの最後のステージとしてあまりに相応しいように思えた。

 部屋に入りドアが閉められた瞬間、俺たちはまるで獣のように互いの身体を求め合った。服を剥ぎ取りベッドの上で重なり合う。

「先生……本当にこれが最後なんですか……?」

 彼女の肌に顔を埋めながら俺は子供のようにか細い声で尋ねた。その問いに彼女は俺の背中に回した腕にぐっと力を込めた。

「ええ……最後よ。まだ、あなたに初めてを捧げた時のままの身体よ……だから、忘れないで。私のこと……私の身体のこと、全部……」

 その涙で濡れた声で囁かれた言葉は、雷となって俺の全身を貫いた。

 初めてを捧げた時のままの身体。その言葉が意味すること。隼人さんと婚約していながら彼女は彼に一度も抱かれていない……?彼女の身体を知る男はこの世界で、俺ただ一人だけ……?

 そのあまりに重くそしてあまりに純粋な愛の告白に、俺の理性の最後の堰は完全に決壊した。

「葵さん……っ!」

 俺は初めて彼女を名前で呼んだ。もはや先生と生徒ではない。ただの男と女として俺たちは互いの名前を呼び合い互いの身体を貪った。

「健太君……好きよ……好き……あなただけ……」

「俺もです……葵さん……愛してます……!」

「もっと……もっと強く抱いて。あなたの全部、私に刻みつけて……もう、忘れられないように……」

「忘れません……絶対に。先生の肌も……この匂いも……声も……全部、俺だけのものです……」

 涙の塩辛い味が混じったキス。さよならを告げるように相手の肌の感触を確かめるような愛撫。快感の波の向こう側に俺はこれから訪れるであろう永遠の喪失の予感を確かに感じていた。絶頂の瞬間、先生は俺の耳元でほとんど嗚咽のようにこう囁いた。

「さよなら……私の……私の、たった一人の、健太君……」


 全てを終え乱れたシーツの中で俺たちはただ黙って天井を見つめていた。やがて先生はゆっくりと身体を起こし、散らばった服を一つ一つ丁寧に身につけていく。そのあまりに日常的な仕草が俺たちの関係の非日常性をより一層際立たせた。

 そして彼女はいつも彼女の知性を際立たせていた、あの眼鏡を手に取った。彼女はその眼鏡をまるで何か大切な形見を渡すかのように俺に差し出そうとした。しかしその指先は俺に届く寸前でぴたりと止まった。

 彼女は悲しそうに、しかしどこか吹っ切れたように微笑むとその眼鏡を自らの顔にかけ直した。

「……これはもう、私の、鎧だから」

 その言葉が全ての終わりを告げていた。それは彼女がこれからは「山上健太の恋人・葵」ではなく「佐藤隼人の妻になる、佐藤葵」として、そして「湊高校の教師」としてその仮面を、いや、鎧を身につけて生きていくという決意の表明だった。俺の愛した無防備な彼女はもうどこにもいない。


 ホテルを出て冷たいアスファルトの上で俺たちはどちらからともなく背を向けた。

 一人歩く夜道はどこまでも冷たくそして暗かった。胸にぽっかりと大きな穴が空いたようだ。しかし不思議と涙は出なかった。

 先生は俺のためにそして俺たち全員のために、その身を切るような選択をしてくれたのだ。ならば俺もまた前に進まなければならない。

 俺は心の中で固く固く誓った。

 陽菜を世界で一番幸せにしよう。彼女のあの太陽のような笑顔を俺が一生をかけて守り抜こう。

 それが、あの美しい「青春の幻影」に俺が返せる唯一のそして最大限の誠意なのだから。

 俺は陽菜との、そしてまだ見ぬ未来との新しい約束を胸に冬の夜道をただひたすらに歩き続けた。

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