第30話 再会、そして再燃


 あれから、四年という歳月が流れた。

 俺、山上健太は、陽菜と共に卒業したあの大学の門を再びくぐり、そして、この春、正式に教員採用試験に合格した。俺の、教師としての人生が、いよいよ始まろうとしていた。

 そして、運命というのは、時に残酷なほどに美しい円を描くらしい。俺の初任地として辞令が下ったのは、他のどこでもない、俺の母校、県立湊高等学校だったのだ。


 四月。桜の花びらが、あの卒業の日と同じように、ひらひらと舞い散っている。俺は、真新しいスーツに身を包み、緊張と、そして懐かしさが入り混じった複雑な想いを胸に、職員室のドアを開けた。

 「本日より、英語科に配属になりました、新任の山上健太です! まだまだ未熟者ですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

 深々と頭を下げる。まばらな拍手と、「若いな」「よろしく」という声が飛ぶ。顔を上げた俺の前に、一人の女性教師が、指導教員として紹介するために立った。

 「よろしくね、山上先生。私が、指導担当の……」

 その、凛として、しかしどこか懐かしい声を聞いた瞬間、俺の全身の血が、逆流したかと思った。

 「……早瀬、先生」

 そこに立っていたのは、数年ぶりに会う、早瀬葵だった。彼女は、陽菜の兄である隼人さんと婚約していたが、その知的な美しさは、俺の記憶の中にいる姿と、寸分違わず重なっていた。いや、むしろ、学生時代の少女のような雰囲気は薄れ、大人の女性としての落ち着きと、そしてどこか憂いを湛えたその表情は、以前よりもずっと、俺の心を強く揺さぶった。

 彼女の左手の薬指には、細く、しかし確かな存在感を放つ、婚約指輪が光っている。それが、彼女がもう、俺の知らない人生を歩んでいるのだという、紛れもない証だった。


 教師として立派に成長した(はずの)俺と、一人の大人として、そして何より、俺の恋人である陽菜の「兄の婚約者」として再会した彼女。俺たちの間に、言葉にならない、息が詰まるほどの緊張が走った。

 「……こちらこそ。よろしく、お願いします。……早瀬、先生」

 俺は、かろうじて、そう絞り出すのが精一杯だった。彼女の姓は、まだ「佐藤」にはなっていなかった。


 その日から、俺たちの、奇妙で、危険な同僚としての生活が始まった。

 職員室では隣のデスク。廊下ですれ違うたびに、ぎこちない挨拶を交わす。職員会議では、同じ議題について意見を求められる。その全てが、俺にとっては甘い拷問のようだった。

 俺は、陽菜という、心から愛する、かけがえのないパートナーがいる。彼女との未来を、何よりも大切にしたいと思っている。それなのに、毎日、すぐそばで見る葵先生の姿に、俺の心の奥底に、固く、固く封印していたはずの過去の情熱が、抗いがたい力で再燃していくのを、どうすることもできなかった。

 コーヒーを飲むときの、あの伏せられた長いまつ毛。生徒と話すときの、あの優しい声のトーン。そして時折、俺に向ける、戸惑いと、何かを探るような、あの潤んだ瞳。

 葵先生もまた、同じように苦しんでいるのが、痛いほど分かった。教師として立派に成長し、一人の男として自分の前に立つ俺の姿に、彼女が誇らしさと同時に、かつて抱いたであろう特別な感情の残滓を、その胸の内に蘇らせているのが。


 そして、運命の歯車は、再び、俺たちを二人きりの空間へと引きずり込んだ。

 ある日の放課後。生徒の提出物を整理するため、俺たちは二人で、誰もいない印刷準備室に残っていた。インクと紙の匂いが充満する、狭い空間。リソグラフの、単調な作動音だけが、気まずい沈黙を埋めている。

 俺は、その沈黙に、耐えられなかった。ずっと、聞きたかった。そして、聞いてはいけないと、必死に自分に言い聞かせてきた、あの言葉を。

 「先生」

 俺は、彼女を「早瀬先生」ではなく、高校時代と同じ、ただ「先生」と呼んだ。それは、同僚という建前を取り払い、俺たちを再びあの特別な関係へと引き戻すための、意図的な呼びかけだった。

 「……先生は、今、幸せですか」

 俺の問いに、先生は、印刷機から吐き出されるプリントを数える手を、ぴたりと止めた。

 彼女は、ゆっくりと俺の方を振り返った。その顔に、答えはなかった。ただ、全てを諦めたような、そして、どうしようもなく悲しい、美しい微笑みが浮かんでいるだけだった。

 その微笑みが、雄弁に、全ての答えを物語っていた。

 俺たちの間に、過去の、あの進路指導室での「密約」を思い出させるような、甘く、そしてどこまでも危険な空気が、再び、流れ始めていた。

 俺は、この感情から、もう二度と、逃れられないのかもしれないと、絶望的な予感と共に、悟っていた。

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